[3225]天孫降臨神話について
(3217)の続きです。
『万葉集』に於ける天孫降臨神話を書きます。
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿の作る歌〈万葉第二巻、167〉
天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百萬(やほよろづ)千萬(ちよろづ)神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して 神分り 分りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂(みづほ)の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かき別きて 神下し 座(いま)せまつりし
高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神上がり あがり座しぬ
わご王(おほきみ) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴(とふと)からむと 望月(もちつき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多(まね)くなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方(ゆくへ)知らずも
(訳)
天地の初めの時、天の河原に多くの神々が集まって相談された時に、天照大神は天界を治めになるとして、地上の葦原の瑞穂の国(日本)は、その地の果てまでお治めになる神として、天雲をかき分けて下し置かれた日並皇子(草壁皇子)であった。
しかし「この国は、飛鳥の清御原(きよみはら)の宮に神として神々しく国を領せられた天皇(天武天皇、ここではその皇后であった御母・持統天皇を指す)がお治めになる国である」と日並皇子は言って、天の岩戸を開いてお隠れになってしまった。
この日並皇子が天下をお治めになるのだったら、春の花のように貴いであろうにと、満月のように満ち足りて盛んであったろうにと、天下の四方の人々が頼みにし、干天に慈雨を待つように仰いで待っていたのに、草壁皇子は何とお思いになってか、縁(ゆかり)もない真弓の岡に殯の宮をお造りになって、朝ごとの仰せ言もない月日が既に多く流れ去ってしまった。
それ故に、皇子の宮人たちはこれからどうしたら良いか分からないことである。
日並皇子とは皇太子のこと、ここでは草壁皇子です。
草壁皇子は、天武天皇(大海人皇子)と皇后・鵜野皇女(天智天皇の娘、後の持統天皇)の間に生まれ、天武十年二月、立太子。
天武十年(681)三月、修史(日本書紀の編纂)を命ずる。
天武十二年、大津皇子を朝政に参画させる。
天武十五年(686)九月、天武天皇薨去。
権力と云うのは、その空白を極端に嫌います。天皇が亡くなれば直ちに次の天皇を即位させるのが本能的欲望です。天武が亡くなった時も、皇太子であった草壁皇子の即位も速やかに執り行われるはずでした。
しかし、草壁皇子の即位は執り行われなかったのです。草壁の皇子は、即位せぬまま三年半も過ぎた西暦689年四月、突然病に斃れ亡くなってしまわれた。
持統天皇の即位は翌年(690)正月です。つまり、天武天皇が亡くなった686年九月から、690年正月までは天皇の空白、不在時でした。異例中の異例、全くの異常時です。
天武の王朝は「壬申の乱」と呼ばれている内戦に勝利して始められています。「壬申の乱」は、後の「関ヶ原の決戦」に匹敵する日本国内を二分する日本最大級の内戦でした。その戦いに勝利して開始されたのが「天武の王朝」です。当然天武朝は、強力な軍事政権でした。軍事を掌握していた者が最高権力者だったのです。
「壬申の乱」を主導し、勝利に導いたのは、天武天皇の長男の高市皇子(母は、宗像の君徳善の娘・尼子の郎女)です。高市皇子が天武朝の最高実権者でした。
草壁皇子が即位出来なかった原因は、天武天皇が薨去した686年九月に、大津皇子に「皇太子に対する謀反の罪」を着せて殺害した事に在った、と小生は見ています。この大津皇子の殺害は、高市皇子の承諾を受けずに、持統天皇の側近たちが極秘に速やかに実行したものだったのではないか。
この事を後に知った高市皇子が激怒したのではないか。高市皇子は、次代のリーダーとして大津皇子に期待するところ大なるものがあった。
大津皇子と草壁皇子の間には微妙なものがありました。その問題は次回に回します、体力気力の衰えはハッキリしています。長時間パソコンに対峙していると気が狂いそうになります。