[2590]下↓の「2589」番の投稿に厳しく反省を促す。謀略に嵌められるな。

副島隆彦 投稿日:2020/06/27 08:33

副島隆彦です。 今日は、2020年6月27日(土)です。

 下↓に、この重たい掲示板の「2589」番で、「匿名希望」として、私、副島隆彦の学生時代の 学生運動のことを書いてるブログの 文を 載せた人がいる。

 下に書いている 「東海アマ」という 人が、どういう人か、私は、知らない。会ったことも無い。10年ぐらい前の リーマンショックの頃に、ネット上に、無責任なことをいろいろ書いた人だ、というぐらいの、私の印象しか無い。 彼が無根拠に書いたことで、迷惑を受けた人たちがいた、という噂は聞いたことがある。

 この「東海アマ」という 人物が、私、副島隆彦のことを、以下のように書いている。

「 副島は私と同級生、記憶に間違いがなければ、1970年前後、第4インターという新左翼グループにいて、砂川反戦塹壕で出会ったことがある。このとき、「こいつは、ただ者じゃない!」と感嘆した記憶がある 」

と書いている。これは全て虚偽である。私、副島隆彦は、第4インターナショナルという新左翼グループに入ったことも、彼らと話したこともない。1970年前後に、「砂川(すながわ)反戦塹壕(さんごう)」などという恐ろしそうな場所に行ったこともない。砂川闘争(立川の米軍の滑走路の拡張の反対の農民運動が始まり、1955年に始まり1957年がピーク)の時、私は4歳だ。

 私、副島隆彦は、この東海アマ という奇っ怪な人物と会ったこともない。だから、彼は、自分が書いたことの事実誤認の訂正を丁寧にしたうえで、私、副島隆彦に、謝罪しなければいけない。
 そして、それ以上、馴れ馴れしい態度を、私に取らないように。この男は狂っている。ばい菌そのもの(病原体)だ。 私は、このような人間とは、警戒して、ほんの微(かす)かにも付き合わない。これを機会に、副島隆彦にあれこれ、因縁、難癖、論争の仕掛け、をして近寄る、ということを許さない。今後とも、一切、無関係だ。

 彼は、私と「同級生」(同学年、同年生まれ、という意味か?) だと、書いている。これも虚偽である。私は、早稲田大学法学部に1973年に入学している(現在、私は、67歳)。この東海アマという変人が、どこの大学にいたか、知らない。

 彼は、さらに書いている。私、副島隆彦が、「 2009年のこと、副島氏は、鳩山由紀夫政権を軍事クーデターによって転覆させて、幕張に田母神俊雄幕僚長を首班として臨時革命政府を置く、自衛隊右翼集団の陰謀を暴露した」 と書いているが、私は、そんな文章を書いた覚えが無い。

 私は、2009年に、鳩山由紀夫と小沢一郎が、やっとのことで苦労して、作った、本当の日本国民の意思を表した政権を強く支持した。それを応援する文章なら、たくさん書いた。しかし、「自衛隊右翼集団の陰謀を暴露した」など、私、副島隆彦には、何のことだか、分からない。

 この東海アマ という男は、意図的に虚偽を書く、精神障害者であろう。彼の周(まわ)りの人たちも、そのように理解しているはずである。

 私は、思い出すと、田母神俊雄(たもがみとしお)元航空自衛隊の幕僚長 とは、1回だけ、東京駅のそばの高層ビルのホテルで、1時間だけ、話したことがある。会ってくれ、と私を誘ったのは、●芸社 という奇っ怪な出版社(今から、考えれば、ここは、統一教会が経営している出版社だった)の、優秀そうな編集者(慶應大学を出ていた。しかし頭は狂っている。。彼の名刺が残っているはずだ )が、取り持って、「是非、田母神さんと対談本を出してください」とのことで、会った。私は、田母神氏は、ヘンな勢力に取り込まれている、と、その時、もう気づいていた。だから、お話を聞くだけで、それっきりになった。 

 この他に、その頃、自衛隊幕僚監部 あがりの 志方(しかた)俊之(中曽根康弘系の拓殖大学の教授だった)と、テレビ出演で一度だけ会って、その番組のあと、志方氏が、私に、詰め寄るように寄って来て「副島さんは、自衛隊のことを誤解している」と言って、何かを私に教えようとした。それで、私が、

「志方(しかた)さん。私は、東京電力の会長の平岩外史(ひらいわがいし。経団連の会長もした財界人のトップ )さんが主導して、三菱重工と、自衛隊の中の優秀な技術陣が、アメリカにバレないように、いざという時のために、密かに核兵器を作っていることを、知っていますよ。これはこれで先の先を見越した、いざというときの用心のための、愛国的な行動です。でも、アメリカに気づかれたら大変でしょうね 」

と、答えた。それで志方氏は、興ざめした感じで黙ってしまった。この辺りのことを、この東海アマは、勝手に、妄想を膨らまして言っているのか。

 東海アマが、以下に書いている、「 軍事クーデターによって転覆させて、幕張に田母神俊雄幕僚長を首班として臨時革命政府を置く、自衛隊右翼集団の陰謀 」というのは、まさしく、統一教会が、田母神をあやつって、自分たちの脳内で、実行しようとした計画だ。どうして、こういう文章が、急に私と関連させて、出てくるのか。これは謀略言論だ。

この東海アマは、自分は、統一教会では無い、その反対だ、副島隆彦の文は、すばらしい、
「 ここまで面白い情報を提供してくれた副島隆彦氏に感謝したい」 と書いている。

 だが、この東海アマ自身が、恐ろしい、極度の謀略人間であって、おそらく、統一教会のメンバーだろう。このように、ネット上の 政治言論というのは、よごれまくって、キタなく成り果てて、気持ちの悪いものに成り果てる。だから、健全な精神の人々は、この計画的によごされた、ネット言論の世界を、気持ち悪がって、近寄らなくなった。 

 彼ら統一教会は、このような、巧妙極まりない、「誉め殺し(ホメゴロシ)」の手法まで使って、私、副島隆彦の信用を落とそうとして、複雑怪奇な攻撃を掛けてくる。これからも、きっとどんどん仕掛けてくる。私は、用心深くなって、警戒している。私の弟子たちでも、すぐに、騙されて、この動きに、引っ掛かって、載せられる。

 皆さん、このことに、気づいてください。だから、政治言論というのは、ちょっと書くだけでも、危険なのです。途端に思いっきり、きたない世界に引きづられてゆきます。

 なぜ、あなたは、軽い気持ちで「匿名希望」で、「副島先生の、過去の恥部を自分は、知ったぞ」というような、歪んだ精神で、このように記事を、ここに転載、貼り付けしたのか。この「匿名希望」氏に、強く反省を促します。あなた程度の知能では、すぐに、敵たちの謀略に騙されるのです。そして、その使いっ走り(パシリ)となって、利用される。このとこに気づきなさい。そして肝に銘じなさい。

さらに、東海アマは、「副島氏の関連文書も、今はすべて削除されている。
 https://www.snsi.jp/  」

と書いている。 私たちの学問道場は、過去の文章を、削除したことは無い。すべて、1999年からのものが、サイト上に残っている。私たちには、隠すことはなにも無い。2011年の「3.11」の大地震、大津波のあとの、福島第1原発の事故のあと、私が、弟子たちと第1原発の前まで行って、そして、現地活動本部を作って、現地から報告したことも、動画を含めて、すべて今も残っている。私たちは、自分たちの活動と、言論を、あとで削除したりしません。

 私、副島隆彦は、高校(九州の進学校のひとつ)を2年生で退学した(17歳)あと、大学検定試験を受けて、それから、早稲田大学の法学部に入った。入学したら、そこで、革マル派という、凶暴な過激派を激しく、糾弾する、一般学生たちの闘いがあった。私はそれに参加した。私が、入学する前年に、革マル派は、学生をひとり殺害していた(川口大三郎事件。1972年◯月)。それで、一般学生たちが、「もう、いくらなんでもあんまりだ」と、騒ぎ出して、何千人もの学生が集まって、激しい抗議行動になっていた。私は、その翌年に大学に入っている。 

 その中の文学部の クラス活動家の中に、今、岩波書店の社長になっている、岡本厚(あつし)氏がいる。彼は、私よりも2年上だ。彼の部屋にもいったことがある。それなのに、その後、40年間、彼は、私に一度も、岩波書店の雑誌に原稿を書かせてくれなかった。私の文章が、過激で、きっと彼らの基準からは、嫌われることばかり書いていたからだ。それはそれで仕方が無い。

 私は、所謂(いわゆる)、「岩波・朝日文化」の申し子であり、岩波書店と朝日新聞に憧(あこが)れて、少年時代(それこそ13歳)からずっと生きて来た。それなのに、彼らからすれば、私は、近寄って欲しくない、鬼っ子なのだろう。彼らの学問と思想の組み立ての、いけないところ、弱点を、私が、暴き立てるように書く、と知っているからだ。

 ここには、日本共産党の忠実な学生組織から、分裂して、共産党の言うことを聞かなくなって、始まった、日本の新左翼(ニューレフト)運動の始まりからの、憎み合いが深く横たわっている。1956年のポーランド、ハンガリーでの民衆暴動が、反(はん)ソビエト運動の始まりだ。

 日本の新左翼運動も、欧米の先進国の知識人運動の内部分裂と同じく、この流れに呼応して、従来どおり、アメリカ帝国主義に反対するが、ソビエト・ロシアがすることにも反対する、として始まったのだ。共産党の指導部にしてみれば、自分たちに抗議して、暴れ出した学生たちの動きは、非常に、不愉快なものだった。それ以来の、岩波書店の、新左翼たちへの 反感と憎しみがある。

 この日本共産党から分裂した、若者たちが作ったのが、ブント(共産主義者同盟。書記長は、島成郎=しましげお=氏 )で、「60年安保ブント」とも言われる。そのNo2だったのが、森田実(もりたみのる)氏だ。私は、彼と3冊対談本を出している(いずれも日本文芸社刊)。今からでも読んでください。 私は、森田実氏に、相当、失礼なことも聞いている。「森田さん。ブントは、アメリカのCIAから、資金を貰いましたか」と。  

これらの経緯は、その後、「日本の秘密」(PHP研究所から復刊)に書かれている。私は、安保ブントの最高指導者の、島成郎(しましげお)にも、直接、インタヴューして、これらの秘密を暴いている。

 このようにして、私は、徹底的に、政治的人間であり、新左翼(これを、過激派とも、世間では言う)である。 大学闘争とも、学園紛争とも、70年安保(あんぽ)とも言う。全共闘(ぜんきょうとう)運動とも言う。私は、あの時代に、まだ17歳で、日本の新左翼思想 に憧(あこが)れて、それと共に、ずっと生きたひとりだ。おそらくあの頃、50万人から100万人の学生が、この学生運動に参加している。今は、もう70歳過ぎの老人たちだ。でも皆、元気だ。元気で定年退職して、暇を持て余している。それより10年前の「60年安保闘争」の時とは、まさしく10年違うのだ。

 キツい苦しい時代だった。あの政治運動というか、社会騒乱の雰囲気の中で生きた。私は、たくさんの政治集会に、参加した、というか、行ってみた。そして確かに、たくさんのことを、自分の目で「見た」。しかし本当に危ない場所には、近寄らなかった。これ以上、ここにいると、自分も警察(機動隊)に、逮捕される、とか、衝突に巻き込まれて、大怪我をする、という場所からは、早めに離れた。

 そして部屋に帰って本を読んで、徹底的に勉強した。大学の授業など、腐り果てていて、まともな大学教授など、もうひとりもいなかった。1970年の大学闘争を境(さかい)にして、日本の大学から、本当の本物の知識人は、消えた。まともな学者は、大学教授をやめた。そのあと、どうやって、ご飯を食べるかで、ひとりひとりは、苦労した。

 私の歳(年齢)、1953年生まれでは、もう当時でさえ新左翼の活動家は、ほとんどいない。ほとんどは、私よりも5歳上の人たちだ。だから、私は、自分のことを、少年兵と呼んでいる。
 今、彼らは、72,3歳になっている。私は、この、自分よりも5歳ぐらい上である活動家たちと、付き合っていた。この人たちは、刑務所から出てきたあと、訳の分からない感じで、死んだ。半狂乱の狂い死にとか、酒の飲み過ぎも、いれば、心臓発作での死もいる。いわゆる、内ゲバで死んだ者たちもいる。悲惨な時代だった。

 それでも、私は生き延びた。私には逮捕歴がない。犯罪歴が無い。どこの政治党派(セクト)にも入ったことがない。私は、徹底的に注意深かった。こんな恐ろしい政治運動なんかで、自分の人生をぼろぼろにしてはいけない、と、ずっと念じていた。

 私は、19歳(1972年)から、ずっと、吉本隆明(よしもとりゅうめい、たかあき)主義者である。 吉本が、死ぬ(2012年、87歳)直前まで書いていた「原子力発電の技術は、人類の知能が先端の物理学で獲得した、新しい科学的エネルギーなのだから、これを、危険だ、ということだけで止めてはいけない」という、吉本の思想に、私は今もずっと忠実だ。

 それに対して、同じ吉本主義者であっても、坂本龍一(さかもとりゅういち。私より2歳上)と、糸井重里(いといしげさと。私より4歳上? 彼は、法政大学の中核派だった)は、「原発は危険なので、廃棄すべきだ」と考えを変えた。この2人は有名人で、その穏やかで爽(さわ)やかな生き方で賛同者も多いだろうか、誰に影響されて、政治思想を勉強したか、というと吉本隆明の本からだ。
吉本隆明は、”過激派の教祖”と呼ばれて、60年安保闘争の、指導部だった人たちからも尊敬されたのだ。私も吉本の家に行って粘って話を聞いたりした。

 吉本主義者というかつての 新左翼の勢力が、今も日本に散らばって数千人はいるのだ、と、ここで、書いておきます。私は、彼らと今も考えが通じる。 私が、この他に、小室直樹(こむろなおき)先生の勉強会に出るようになったのは、1983年からで、私が、30歳になってからだ。小室直樹は、保守思想の人だ。だが、世界基準の大(だい)学者だから、私は、彼から多くのことを、30歳からあとは、学んだ。

 私は、だから、70年安保闘争の頃の、社青同(しゃせいどう)解放派(青いヘルメットを被った。東大や、東北大、明治大学などで強かった)や、革共同(かくきょうどう)中核派(白いヘルメット。法政大学が拠点だが、全国の大学にいた)や、それから、関西ブントと呼ばれる(赤いヘルメット。ブント、共産主義者同盟、という60年安保の系譜の老舗 )セクトの活動家たちと、付き合った。彼らから、たくさんの知識を学んだ。ただし、「ダメだな、この人たちは」と、私が、気づいた、愚かな点まで含めて。

 1970年代の学生運動のことを知りたかったら、大きくは「8派(はっぱ)全学連」と言うコトバを覚えなさい。新左翼は、大きくは、この8つのセクト(党派)のどれかである。本当は、もっと、小さく分かれていて、20派ぐらいあった。共労党(きょうろうとう)、マル戦、フロント、など、日本共産党から分裂してきて、新左翼になった党派もいた。評論家で、週刊誌ライターの 竹中労(たけなかろう)とかが、作っていた党派だ。数百人ずつの、そういう小さな過激派党派があった。

 1970年前後の、当時は、毎日のようにテレビで、これらの 過激派の集会(日比谷野外音楽堂とかに1万人ぐらいが良く集まった)とか街頭デモは、放送された。とくに TBSの 夕刻のニューズ番組で、田英夫(でんひでお)というニューズキャスターが、これらの反戦集会とか沖縄返還のことを、報道した。 週刊「朝日ジャーナル」という週刊誌(朝日新聞社発行)が、バカ売れして、もんな、この朝日ジャーナルを読んでいた。

 それ以外の新聞でも週刊誌でも、たくさんの報道がなされた。新左翼関係の政治運動もの書籍もたくさん出版された。 おそらく千冊ぐらいある。私は、それらの本のほとんどを、自分の人生行路(人生の節々(ふしぶし)ででの移動、引っ越し)で、大半を捨てていって無くした。まだ100冊ぐらいは持っている。 

 まるで、毎日がお祭りのようだった、と書くと不謹慎だと言われるか。そんなことはない。少なくとも1972年までは、まるで、お祭り(祝祭空間)のようだったのだ。大勢の人が集まって騒いだ。楽しかったのだ。これからが、悲惨な地獄になって行ったのは、1973年からだ。

 ブントの中の、関東ブントが、大きくは、日向派(ひゅうがは)と、荒派(あらは)に、分かれていた。もう、こうなると、何が何やら、普通の人たち(堅気、かたぎの衆)には、分からないだろう。まるで、広域暴力団の山口組の分裂、抗争のような感じだ。それと大きく対立する、関東ヤクザの住吉連合と稲川会だ。そう考えれば、そうなのだ。

 私が、知っていて、面識があった、関西ブントの中の、一番、過激な人たちが、赤軍派だ。京都大学で強かった。塩見隆也(しおみたかや)という人が、京大出で議長だった。彼は、長いこと刑務所にいて、出てきて、私は、話をしたが、今は、右翼のようになっている。彼は、もう80歳ぐらいの老人だから死ぬだろう。

 他のもっと年下の、赤軍派は、中東アラブに行ったり、北朝鮮に行ったり、旅客機をハイジャック(人質乗っ取り)した。坂東国男(ばんどうくにお)とか、重信房子(しげのぶふさこ。彼女は、今、府中の刑務所病院にいる。もうすぐ死ぬだろう)だ。 

 彼らは、最後は、連合赤軍事件(1972年)で、浅間山荘事件と、凄惨な仲間殺しで自滅した。その中に、公安警察のスパイたちが潜り込んでいて、彼ら過激派を嗾(けしか)けた。内ゲバの殺し合いも、警察がやらせたのだ。政治運動というのは、どんな穏やかなものでも、危険な集団であり、危険な行動だ。

 前述したおとり、彼らは、ほとんどは、私よりも5歳ぐらい上の人たちだ。他のセクト(党派)の活動家たちからも話を聞いた。しかし、私は、第4インター(“四(よん)トロ”、と呼ばれた。 レオン・トロツキーの思想を継承すると自称したひとびとだ)の人とは、付き合いは無い。ここも、前述した、「8派(はっぱ)全学連」のひとつだ。

 あ、そうだ、重要な一派に、毛沢東主義者(もうたくとうしゅぎしゃ)たちがいた。ML派(えむえるは)と言った。彼らは、当時、中国で起きていた、文化大革命の紅衛兵(こうえいへい。レッドガード)の思想の影響を受けていた。M L派が、隊列で現れると、私たち、無党派の少年兵たちは、「おお」と、感動した。

 この毛沢東主義者、M Lで、一番の大物が、1969年の東大全共闘(とうだいぜんきょうとう)の代表の、山本義隆(やまもとよしたか)だ。彼は、東大の物理学で、ノーベル賞を貰える男だと言われていた。彼は、ずっと、駿台予備校(すんだいよびこう)で、その後も、ずっと物理を教え続けた。

 彼は、闘争のあと、まったくメディアに出でこなかったし、自己弁護も、何の発言も一切、しなかった。今、山本義隆が、80歳ぐらいで、今なにをやっているのか、私は知らない。 ”ゲバルト・ローザ”と呼ばれた、東大の歴史学者の大内力(おおうちつとむ)の娘(だから、東大の経済学者の大内兵衛=おおうちひょうえ=の孫だ )が、活動家として有名だった。あの女性は、今、どうしているのだろう。自分で本も書いていた。

 東大全共闘は、不思議なことに、だから指導部は、山本を始めとして、M L派(マルクス・レーニン派。毛沢東主義者)だった。東大の正門に、「造反有理(ぞうはんゆうり)」の看板を掛けた。「私たち若者が、大学で、大学粉砕、東大解体 を叫んで、暴れるのには、それだけの理由があるのだ」という考えだった。今から、考えれば、なんとも幼稚な、とも思う。だが、当時は、世界的に、ベトナム反戦闘争が、世界中の若者たちによって、荒れ狂っていたのだから、それに日本から、呼応(こおう)連帯していたのだ。

 このように、新左翼を、「8派」として、大きく理解すると、今の若い人たちでも、何とか、分かるだろう。この「8派」の中には、絶対に、革マル派(革命的マルクス主義派)はだけは、入れない。

 やること為すことが、あまりにキタナイものだから、新左翼、過激派全体から、嫌われた。
革マル派は、1969年の、東大闘争(安田講堂の攻防戦。8派の各派合計で、400人の活動家が捕まった。彼らのその後の人生は、刑事裁判を抱えて大変だった)のときに、東大構内への機動隊の導入の前夜に、持ち場だった工学部3号館だったか?から、夜逃げした。組織の力を温存する、という考えで、いつも、こういう卑劣なことをするのが、革マル派だった。だから、新左翼8派から、嫌われていた。

 一番、爽やかで、悪いことをしない正義の集団の、立派な人間たちの党派が、社青同(しゃせいどう。社会主義青年同盟)解放派(通称、青解(あおかい。別名、反帝学評=はんていがっぴょう=、反帝国主義学生評議会 )。前述した、青いヘルメット)だ。ドイツの、ローザ・ルクセンブルクの思想で、動いた。議長の中原一(なかはらはじめ)は、ビラ配りをしていたときに、革マル派から、襲撃され、鈍器で殴られて死亡した。 解放派は、元々は、日本社会党の左派の 青年部の一部だった

 あ、そうだ。今、立憲民主党の党首(代表)をやっている、枝野幸男(えだのゆきお)は、東北大学の革マル派だ。彼は、それから勉強して弁護士になった。だから、私たち8派全学連の、主流派の新左翼からは、「ああ。枝野か。枝野は革マルだからなあ。信用できねえよな」と、なる。そのように、私たちは、うめき声のように、低音で言う。それが、8派全学連、8派共闘 の、私たちの流儀であり、今も持ち続けている、新左翼(しんさよく。ニュー・レフト)としての気風だ。分かってくもらえるかなあ。

 広い世の中からみれば、革マル派 と言っても、かつて存在した証券会社の勧業(かんぎょう)角丸証券 との区別も付かない。□◯(かくまる)と書くと、笑い話にもならない。本当にバカみたいなのだが、こんな世界で、これまでに数百人が死に、数千人の障害者を出し、裁判と犯罪歴を抱えて、苦渋の人生を送った者たちがいるのだ。 今も、警察に追われて、全国に潜伏している者たちが、このセクトだけで数百人はいる。悲惨な話なのだ。

 私、副島隆彦の、新左翼(過激派)としての活動の記録は、日本の公安警察の中にあるだろう。だから、それが明らかになればいいことだ。だから私には隠すことはない。彼らに、その後の人生で、要所、要所で、嫌がらせをされた。このように、新左翼の、党派の話など、若い人あちにいくら説明しても、分かって貰うことはできないだろう。

 1969年、1970年をピークとする大学闘争(東大を頂点として。ここには、やはり学歴、大学差別もあった。日大(日本大学)闘争は、日本刀まで一瞬は、持ち出した、学ラン右翼たちとの闘いだったから低く見られた。日大全共闘の代表(議長)は、秋田明大=あきたあきひろ=だった )と、 70年安保闘争は、丁度、今から50年前のことだから、歴史の一部だ。

 前述したおとり、私、副島隆彦は、逮捕歴がない(すなわち犯罪歴が無い)し、どこのセクトにも入ったことが無い。だから、私は、今もこうして飄々(ひょうひょう)と、一介の評論家として生きている。どこの政治的な組織や団体に所属したことが無い。

 たとえば、日本共産党や、創価学会(公明党)のような大きな全国組織に入会した人たちであっても、その入会(つまり組織員になったということ)の記録は、必ず、公安警察(政治警察)が入手するからバレる。 組織の中で内部対立が起きて、抗争になって、除名とか脱退ということになると、その後も長く、「裏切り者」として、長い争いになる。
私は、そういう暗い過去を引摺(ひきず)ってっていない。自分の体に、焼き印や、入れ済みを入れたような、組織、団体の、活動家だったことはない。

 ただし、あの時代(1970年代)の、政治運動を少しでも経験した人たち、すなわち、今の72,3歳のじいさん、ばあさん、たちと、同時代を生きたことの強い共感だけがある。
私は、彼らに、私の本の読者になって貰いたいし、私の味方勢力の中心だと思いたい。

 私たちの親の世代は、戦争世代だ。戦中派(せんちゅうは)だ。第2次大戦(日中戦争、太平洋戦争、大東亜戦争)の時に青年だ。彼らは(私の父も)、学徒出陣とかで、兵隊となって戦地行かされて、地獄の経験をした人々( 運良く 生きていれば、もう97歳とかだ)は、その時代を生きた者たちとしての、共感があっただろう。人は、すべて時代の子であり、時代の産物だ。自分が生きる時代を、自分で選ぶことは出来ない。自分の両親を、赤ちゃんが自分で選ぶことが出来ないのと同じだ。

 私、副島隆彦は、あの時代を一緒に生きた、今、72,3歳前後の人たちの、思想的なリーダーになりたい、と、常々(つねづね)思っている。彼らに、私の本をもっともっと読んで貰いたいと、思っている。彼らを私の支持勢力の中心にしたい。なぜなら、彼らだけが、まだ書店で本を買って読むからだ。

 若い人たちは、もう、本を買って読む、ということをしない。私の本を、わざわざ買って「この人の本は、おもしろいんだ。ためになるんだ。本当のことを書いているんだ」で、熱心に読んでくれる人たちだけが、私の、お客様だ。私は、言論商売人だから、自分のお客さまになってくれる人たちを、なによりも大事にする。当たり前じゃないか。

 三島由紀夫(1970年11月25日、45歳で華々しく血だらけで割腹自殺。今から考えれば、この人は、自分のすべてを演出して演技にしたのだ。当時、騒然となって、私のような少年を含めてひどく興奮して、騙された)が、1970年の5月に、東大の駒場(こまば)の教養部の900番教室(大講堂)で、1回だけやった、東大生たちへの講演と、討論の テレビ局が撮影した記録フィルムが、、現在、映画となって公開されているそうだ。 だから、三島が死んだのは、それから6カ月のことなのだ。もう自分は死ぬ、と決めていたのだろう。

 この映画の宣伝の画像に写っている、あそこに集まった、見るからに秀才そうな、千人の東大生の学生たちは、「クラス活動家」と言って、危険なことはしていない。よくてデモの隊列の中にいかた、機動隊に向かって、石を投げたぐらいのものだ。機動隊(警察)に捕まったり、大怪我をしたりしたら、それこそ一生涯の経歴のキズになる。

 ほとんどは、クラス活動家だ。あんまり激しい行動をすると、警察に捕まる。だからひとりひとりは、父親から、泣きながら殴られたりしながら、みんな、いい加減なところで、運動をやめていったのだ。そして、彼らは、馬鹿ではない(みんな本当に秀才だった)から、その後、ちきんと大学を卒業して、文科系なら、一般の大企業の他に、多くがテレビ局、新聞社、出版社に入っていった。ちゃんと大学を卒業してさえいれば、何とか新聞社にも潜り込めたのだ。大学教授になった者もたくさんいた。数百人ではきかない。みんな活動家になるぐいらだから、頭はいいのだ。

 出版社に入って20年も経(た)って、1990年代でほとぼりが冷めて、酒の席で、過去の自分たちのことを話し出すと、急に激高して喚(わめ)きだしたり泣き出して、それで、若い人たちから怪訝(けげん)な目で見られる、ということを、した。この人たちも、もうみんな、テレビ局、新聞社、出版社を幹部社員で退職して、今は、70歳代の年金暮らしだろう。私は、今こそ彼らに私の本を読んで貰いたいのだ。私は、暴き立てるように多くの真実を書いている。

 だから、みんな、そんなに激しいことはしていない。本当に激しいことをした少数の者たちは、そのあと犯罪者扱いで、牢屋(刑務所)で苦しむか、身体障害者になるか、長い裁判で刑事被告人となって人生を痛めつけられるか、した。それは、党派(セクト)に所属した人間たちだ。私、副島隆彦は、何でも知っている。きれい事は言わない、書かない。ウソも書かない。 

 私は、自分が生きた、この50年間の日本の各時代の、目撃者であり、観察者だ。それを出来るだけ正確に書いて記録として後世に残したい。それが、知識人という職業の責務だ。

 私が、19歳の時から、自分の強い信念、思想的な確信 にして来たのは、次の吉本隆明の文章だ。

 「・・・身は学生というタテから見てもヨコからみてもプチブル・インテリゲンチャ
以外の何物でもないのに、インテリゲンチャの自立した思想と運動をつきつめるまえに、だらしない革命家気取りに移行してしまう。これがくだらない政治組織に禍された学生の政治意識の墓場である。 
 街のただのおやじでさえ、現実の社会では、学生を青二才(あおにさい)としか総括しないということを骨身にしみて知っているはずなのに、頭の中だけで、喜劇を演ずる」

「・・・ただマルクス主義の文献を読みかじって、こうしてはおられぬという衝動からプロレタリア党を作れなどといい、学生運動や労働運動のなかにいくらかの足がかりをもっているにすぎない。本当のインテリゲンチャの根性も知らなければ、労働者の実体も知ってはいないのだ。・・・「前衛党」に飛び込んだり、出たり、同伴したりする我が国の進歩的なインテリ・・・・」 

( 出典。吉本隆明全著作集 13巻 「政治思想評論集」 1969年刊、勁草(けいそう)書房、P.564 「睡眠の季節 」(注。1961年に書かれた文))

 このように吉本隆明は書いている。この文が、私、副島隆彦の一生涯の指針であり、私の思想の中心にもなったものだ。私は、学生運動、政治運動、思想運動の中にある、地獄の中から、必死で這い出して、生き延びた。そして、「自分は、こんな所では死なない。何があっても生き延びる。そして、知識人として自立する」と堅く決めた。

 この「自立(する)思想」と、「共同幻想論」と「転向論」が、吉本主義者の教条(きょうじょう、ドクトリン)で真髄だ。 知識人となって、自分の文章で、自力でご飯を食べられるようになること。そのために粉骨砕身の努力をすること。甘えたことを言わないこと。弱音を吐かないこと。専門職で身を立てる、とういうことはそういうことだ。言論人、政治知識人で、身を立てる、ということは、それぐらいキツいことだ。これが、自分を支えた堅い信念だ。 このことを分かってください。

 だから、無根拠に、私の人生の経歴を、デマで書いた、東海アマという 人は、私、副島隆彦の冷酷な判断では、1970年ごろの、過去の怨念を背負った、新左翼、過激派の、一番、悪い部分を、ずっと、引き摺った、人間のひとりだ、という厳しい判定になる。 この
過去の怨念を引き摺った、過激派のお化け(悪霊、怨霊)たちからも、私は、これから生まれる清新な国民運動を守らなければいけない、と、ずっと書いて来た。 

 秀作「日本会議の研究」を書いた、菅野完(すがのたもつ)君が、書いていた。日本会議すなわち、統一教会の表(おもて)の団体の、活動家たちは、1970年の過激派の学生運動の
活動得たちとそっくりだ。左翼の学生運動の真似をしながら、自分たち新右翼(しんうよく。反共主義)の運動を作っていった。 

 安倍晋三も稲田朋美(いなだともみ)も、篭池(かごいけ)・・も、統一教会=原理研究会の者たちは、皆、自分のことを、反共(はんきょう)思想の燃えるような情熱の、政治運動の活動家だ、と自分のことを思って生きている、と。本当に、その通りだと、私、副島隆彦も思う。

 だから、私がいつも書くとおり、安倍“統一教会”政権を打ち倒したあとの、新しく生まれてくる日本の 清新な国民運動には、1.統一教会などの反共右翼の狂った宗教集団 。2.潜り込んでくる公安警察官(政治警察)。そして、3.自分たちの1970年の闘争の 過去の暗い怨念を引き摺る、過激派党派の残党たち。

 この3つの集団を、徹底的に、自覚的に、排除しなければいけない。そのために、副島隆彦は、 自ら進んで、新しく出来る、優れた国民運動を防衛するために、上記の3つの人間たちが、内部も潜り込んでくることを、事前に、摘発し、阻止するための「秘密警察長官」(笑い)になる、と ずっと、これまで書いて来た。私のこの書き方の意味が、分かる人たちは、あまりいない。私は本気だ。

 私、副島隆彦が、このように書くことが、日本の、これからの新しい民衆運動、革命運動の、重要な前進、進化、進歩になるのだ。歴史を前の方にグイ、グイと推し進めることになるのだ。私の言論が、過去を引き釣りながら、これからの大きな方針を出している。私は、このことを重々(じゅうじゅう)分かっている。

 だから、今、72,3歳前後の、全共闘(ぜんきょうとう)世代の、じいさん、ばあさんたち、かつては、少しはインテリだった人たちの、思想的なリーダーとなって、彼らからの賛同と支持を貰(もら)わなければいけない。彼らに、まず、私が書いた 「世界覇権国(せかいはけんこく)アメリカを動かす政治家と知識人たち」(講談社プラスアルファ文庫、2001年刊) ” Modern American Political Intellectuals , 1995 ” を読んで貰いたい。私が、42歳の時に書いた本だ。それまで自分が研鑽して収集した知識を結集して、心血を注いで書いた本だ。 

口幅(くちはば)ったい言い方をすると、私は、この本で、吉本隆明と、丸山真男(まるやままさお)を超えた。そのように自負している。まさか、そんな、お前ごときが、と思う人は、私のこの本を読んでみてください。 初版は、1995年から、もう今から25年前の本だ。私の主著だ。

 この本は、今から読んでも、ためになるだろう。これで、現代の世界政治思想の全体像 が分かる。本当に、生来、頭のいい日本人は、全員が読まなければ行けない本だ。バカは、どうせ読んでも分からないから、ほっておく。私に寄ってくる弟子たちでも、今でも、まだ分からないのが大勢いる。

 残念ながら、左翼的な大衆の一部は、現在、ネトウヨ の反対の、 ネトサヨ(とか オサオさん)と、呼ばれるネット人間になっている。彼ら、ネトサヨは、自分の名前を堂々と名乗って、ネットで、自分の意見を表明することをしない。彼らは、背骨の折れた、ネズミのような、言論を書き散らしている。それは、やめるべきだ。人間は、皆、自分の実名で、しっかりと、勇気を持って、自分の意見を書かなければいけない。仮名、匿名、名無しの権兵衛(ごんべえ)で、政治言論を 書いてはならない。

「それでは、自分に禍(わざわい)が降りかかります」という人は、そのように注意書きして、事情がありまして、かつ、小心者(しょうしんもの)なので匿名(とくめい)を希望します、と断り書きしてから、書くべきだ。 私たちの学問道場は、ずっとこの方針で、この20年間、やってきました。

 実は、下 ↓の「2589」番の、投稿をしたのは、田中進二郎君だ。 彼は、早稲田大学の政経学部に入って4年間、大学にいたのに、あと、ほんの僅かの単位を取らないで、中退して、郷里の大坂で、家業の大手の学習塾の講師をずっとしてきて、子供たちに、政治思想の考え方の初歩まで教えて、きっと優れた教育者になっている人だ。

 だが、私から、「どうして、君は、大学をきちんと卒業しなかったのか。両親が心配して、悲しがっただろう」「はい。父に、叱られました」 「他の私のところに寄ってくる弟子たちも、そうだが、君も、どうも性格に偏(かたよ)りがある。自覚して、直しなさい」と、私は、彼を叱った。

 私、副島隆彦に弟子入りしてくる者たちは、生来の知識人、インテリゲンツア(ドイツ語、ロシア語。これの元の英語が、intellectuals インテレクチュアルズ )の素質があって、もの書き(言論人)に、育てることのできる才能を持っているものが多い。ところが、同時に、どうも頭(、知能、思考力)に軽い障害を持っている者が多い。私は、この20年間、ずっと、私の元に寄ってくる、そう言う者たちに、

「君は、自分の頭の、ごく軽度の精神障害を自覚しなさい。そうすれば、そのことを、自分の才能に転化できるのだ。文学者(小説家、今は、漫画家)になるような人は、だいたい、軽度のキチガイ(狂人)だ。そうでなければ、優れた小説(漫画)なんか、書けるわけが無い。だから、その微妙な自分の脳波の乱れを、自覚して、それを、自分の才能に変化させなさい」と。
 
そのように教え諭(さと)すことを、我が学問道場の社是(しゃぜ)、所信として、私、副島隆彦は、弟子たちを育ててきた。それでも、・・・・・なかなか、上手くゆきません。

田中進二郎君は、ここの重たい掲示板にも、よく書いているとおり、今、「戦国時代の大名たちは、ほとんどが、隠れキリシタンだった」という本を書いている。そろそろ編集者が、彼の原稿を纏(まと)めてゲラにする段階に来ている。来週、編集者が私の住む熱海に、そのたたき台を持ってくる。

こういう事情なのに、田中進二郎は、自分の脳の脳波の乱れを、そのまま出して、匿名で、
「副島先生の、過激派としての過去を暴き立てる証拠が出た」と、有頂天になって、以下 ↓の通り、「 副島先生の半世紀前の同志の方のようです 」と書いている。

 コラー! 田中進二郎。お前は、まだ、その曲がった根性が直らないのか。「お前は、すぐに騙されるんだ。まだ、分からんのかー 。お前程度の頭では、すぐに、ヘンな政治集団にひっかかって、そこに嵌まってゆくのだ。利用されるのだ。まだ、分からんのか!」
 ネット上の、精神の歪んだ人間たちが書いた、過去の怨念に満ちた謀略の文章を、みつけて来て、鬼の首(つまり、私、副島隆彦の首)を取ったかのように、勢い込んで、こんな穢(きた)ならしい文章を、いいかと思って、貼り付けた。本当に、お前の精神は歪んでいる。いくら、直しなさい、と言っても、直らないのかな。

 田中進二郎君。このあと、私に電話してきなさい。私に何を言うかは、自分で考えなさい。
私は、君たちを育てる、ということで、あれこれ、本当に苦労しているんだよ。私の苦労も、すこしは分かりなさい。

 会員の皆さん。統一教会を、強く批判すると、このように、おそろしい、巧妙な謀略攻撃が、次々と、襲いかかってきます。私は、覚悟しています。それでも、ここの学問道場を、このように、きたなく汚されるのは、私でもたまりません。何とか、私が全力で、自分の知能の限りを尽くして防御します。 見ていてください。    副島隆彦 記