[2584]当時、最先端の知性で戦争に反対し続けた清沢洌(きよさわきよし)の「暗黒日記」について。

副島隆彦 投稿日:2020/06/15 10:34

副島隆彦です。今日は、2020年6月15日(月)です。

 今日のぼやき に、遠藤誉(えんどうほまれ)女史の優れた中国分析の文を載せて、それに私が、大いに論評(ろんぴょう。コメント)を加筆で加えたものを載せたので、読んでください。

 さらに、これの末尾に、6月10日に、5月22日からの中国の全人代(ぜんじんだい)が、「習近平指導部は、コロナウイルス攻撃を見事に防御し撃退した。それで中国民衆は、習近平体制を、大いに支持している、という重要な記事を載せた。よく読んで、自分の頭で真実とは何かを、考えてください。

 私は、今も自分の狂人日記(きょうじんにっき)を書き続けている。
そのために、清沢洌(きよさわきよし)という、私が、心底、尊敬できる知識人が、戦争中に、憲兵や特高(とっこう)の捜索を警戒しながら、こつこつと書いた「暗黒日記(あんこくにっき)」を丁寧に、読み返している。


暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)

 この本は、彼の死後、随分経(た)った1954年に、東洋経済から出版された。この本を、ずっと読み直しながら、私は、今の自分の歳(とし)で、初めて、清沢たち、日本の温厚な自由主義者(リベラリスト。これはドイツ語からの訳。英語にはリベラル liberals しかない。無いものは無い)が、開戦の前から、ずっと戦争に反対し続けて、どれぐらい苦労したかをずっと丹念に調べていた。

 清沢の同志で生涯の盟友は、東洋経済(とうようけいざい)の中興の祖の、石橋湛山(いしばしたんざん)である。石橋が、どれぐらい優れた人物で、本当の日本の愛国者で、温厚な自由主義者であり、汚れた政治家や軍部を嫌う、堅実な経営者(資本家)たちの厚い支持を受けて頑張り通したか、今の日本人には、ほとんど知られていない。

官僚たちが実質で支配した政治を、強く批判した。官僚主義というコトバは、石橋湛山が使い始めたのだ。  石橋湛山が、書いた、すばらしい文章たち(政策提言)は、私が、そのうち紹介し説明する。

石橋湛山(1884~1973)
 石橋湛山は、1956年の12月初めに、自由党(もう自民党)の総裁選挙に勝って首相に就任した。ところが、翌年の1月末には、政治謀略で病床に倒れ、このあと大(おお)ワルの岸信介(きしのぶすけ)が、1957年の2月末から、首相になった。アメリカのきたない勢力が、岸を選んだ。周知のように、この岸信介の孫が、今の安倍晋三である。
日本は、すっかり政治がよごれた国になった。この時から日本人は、自分たちの運命を自分たちで決めることに出来ない国にされた。

 石橋湛山は、言論人であり、出版人であり、経済政策の専門家である。多くの優れた、そして高潔な日本の有識者たちが仲間、同志として彼を支えていた。それが、たったの3カ月弱で、首相の座を病床から、悪人たちに明け渡した。

 ここには、明らかに、日本人が、自分の足で立ち、自分たちの力で、自分たちの運命を決めてゆこうとする、日本の自主独立路線を葬り去り、「お前たちは、自立なんかしないで、アメリカ帝国の属国のままでいろ」と、押え付けた、アメリカの意志が働いている。

 石橋湛山の、前の首相であった鳩山一郎(はとやまいちろう)も、病気になって、たった2年で、首相を辞めた。鳩山一郎については、私は、自分の著作『日本の秘密』(PHP研究所刊、2010年)で、 鳩山一郎論を書いて、「鳩山は、全方位外交(ぜんほういがいこう)で、(ソ連、中国とも)すべての国と仲良くする外交方針をとった。鳩山は、ものすごく日本国民に支持され愛された」、「・・・・日本の自主独立を目指した、鳩山一郎の無念が、私に伝わってくる」と、最後の1行に書いた。副島隆彦の本の読者だったら、この日本政治論の本を、どうか読んでください。

 私たちが今も尊敬する、真の国民指導者であった田中角栄は、1972年7月に首相になったあと、すぐの9月には、中国に国交回復の話し合いをしに行った。大平正芳(おおひらまさよし)外務大臣と。そして、あの歴史的な日中共同声明(日中国交正常化合意。9月29日)を発表した。 

 田中角栄は、アメリカに虐(いじ)められ続けた。文藝春秋という、アメリカのCIAの手先に成り下がった、出版社の編集長(のち社長)の田中健吾(たなかけんご)と、あの性悪(しょうわる)編集者あがりの、立花隆(たちばなたかし)に、「金脈事件(きんみゃくじけん)」という、スキャンダル攻撃を受けて首相を辞任した。

 角栄は、その後も、ずっと執拗に狙われて、ロッキード事件という謀略で、角栄は、逮捕された(1976年7月27日)。そしてずっと裁判を闘った。田中軍団と呼ばれ、闇将軍と呼ばれながら、最大派閥の自民党政治家たちを率いた。

 この日本の真の愛国者、指導者は、ヒドい目に遭い続けて、脳梗塞を起こし(1985年2月)た。そして、生ける屍となって8年後に逝った(1993年12月16日死)。 田中角栄の日本愛国者としての戦いは、そのまま、私たち日本国民の人生と重なる同時代だ。みんな、自分の目先の生活と、自分の人生目標の実現のために忙しくて精一杯だから、政治のことなど、あまり構っていられない。それでも私たちの日本国の戦後の75年間は、このようにして続いて行ったのだ。

 田中角栄は、1972年9月25日に、首相として中国に行く、その前日に、石橋湛山を病床に見舞った。そして、「湛山先生。今から、私は中国に行って参ります」と、湛山の手を握りしめながら挨拶した。

 湛山は、もうほとんどボケて、痩せ衰えた病床から、うんうんと嬉しそうに頷(うなず)いた。このシーンは、ニューズ報道の記録フィルムに残っている。私、副島隆彦は、自分が自覚して生きたこの50年の日本の政治を振り返り、本当の愛国政治家たちのことを思うと、今も、涙が出る。

 この石橋湛山と盟友で同志だった、清沢洌(きよさわきよし)のことを、日本人はもうほとんど誰も知らない。清沢は、敗戦の直前の、1945年5月に、肺炎で死んだ(55歳)。その直前まで、ずっと暗黒日記(本当は、「戦争日記」)を書き続けている。流石に、知米派の一流ジャーナリストの、文章は、すばらしい。簡潔で要を得ている。

 日本国民は、どのように、あの苦難の戦争中を生き延びたか( 兵隊は、外国の前戦でたくさん死んだ)この本を読むと本当によく分かる。ヘンな偏(かたよ)った、くだらない学者たちの、見てきたようなウソの、歴史の本なんか、読まないで、この清沢の「暗黒日記」を読みなさい。そうしたら本当の日本の私たちの歴史が分かる。

 終戦(本当は、敗戦)間近の、1945年の3月9日と10日の東京大空襲で、焼けただれて、ぼろぼろになって、目を真っ赤に腫らしながら、浅草や領国の方から逃げてくる人々のことも、ずっと、書いている。この一晩だけで8万人が死んだ。暗黒日記を、今から日本人は、読んで再評価しなければいけない。その先頭に副島隆彦が立つ。

全巻3巻の評論社版があるが、一冊にまとまった岩波文庫版(1990年刊)がある。

 清沢洌の、もうひとりの盟友は、中央公論社の2代目社長(社主)の、嶋中雄作(しまなかゆうさく)である。嶋中も偉い人だった。出版人として、格調高く、吉野作造(よしのさくぞう)を表に出して“大正デモクラシー”を闘った「中央公論」の編集長として、ずっと出版業界で重きをなした。 

嶋中雄作(1887~1949)
 東洋経済新社も、中央公論も、今では、すっかり、アメリカのグローバリスト(ディープ・ステイト)の子分に成り下がっている。それでもまだ、温厚な保守で、経済重視の、世の中の堅実な経営者や小金持ち層の支持に支えられている。

 清沢洌は日記に、1943年に入ってからの、日本の苦しい戦局を、ずっと、書き留めている。その主なものを列挙すると。

1. 前年(1942年)の6月5日に、ミッドウエー海戦で、日本海軍は、主力の空母4隻を失っていた。このことは国民には正確には知らせず、誤魔化していた。それでもまだ、1942年中は、戦争の帰趨が見えなかった。そして、ガダルカナル島へ米軍が上陸(1942年8月7日)した。そして、ここで、8カ月が過ぎている。

 1943年の2月1日から7日に、日本軍は、撤退を完了した。これが大きな敗北であることを、日本の指導者たちも、清沢たちも、考え込んでいるが、よく分析できていない。大本営が、ウソの発表をするからだ。

 日記では、この箇所は、2月11日。 「石橋湛山が、吉田茂ら外交官に、すきやきを振る舞う。僕も旧知なり」と書いている。ここで、三土忠造(みつつちちゅうぞう)という外務省の幹部が、「今朝(10日)の「ガダル・カナルよりの転進(てんしん)」の、大本営発表を、三回読みかえしたが・・・何を意味するからよく分からぬ」と言った」 と書いている。

2.4月18日に、ソロモン島上空で、戦線視察に行った、山本五十六・連合艦隊司令長官が、撃墜されて死んだ。 清沢は、5月23日に、「山本神社が長岡に建つ由(よし)。・・・・
情勢の正しい見通しは出来ない。その選択が大東亜戦争最大に弱点だ」

3.アッツ島の守備隊の全滅。1943年5月29日、アリューシャン列島のひとつ。「今朝の新聞でみると、最後には百数十人しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、・・・社会の問題となったろう。・・・・」

4.7月15日、米軍、シシリー上陸。7月25日「ムッソリーニついに辞す。イタリー脱落。・・・皆遠慮して時局の談話には触れず。ただ困ったというようなことを繰り返すのみなり」・・・・9月8日、イタリア(パドリオ政権が)、無条件降伏した。

5.10月19日。 「毎日新聞」に、徳富蘇峰と本多熊太郎(元、中国、ドイツ大使)の対談会載る。開戦の責任は、何人よりもこの二人である。文筆界に徳富、外交界に本多、軍界に末次信正(すえつぶのぶまさ)、政界に中野正剛(なかのせいごう)――これが四天王だ。徳富も本多も客観性皆無。」

6.10月27日。午后の夕刊にて中野正剛(なかのせいごう)の自殺を知る。僕は、・・ショックを受けた。彼に、ローマにてご馳走になれるからかもしれず。・・・僕は、かれのを憎んだ。かれの思想が戦争を起したのである。・・・彼は生一本(きいっぽん)であった。かれは開戦すれば、米国は直ちに屈服すると公言していた。これは謬りであった。・・・」

 副島隆彦注記。中野正剛は、東条内閣の 倒閣の クーデターのようなことを計画していて、東条派から先制攻撃で、中野の東方会、百数十名が、検挙、梗塞されていた。中野は、追い詰められて、自宅での自殺だが、「死ね、死ね」と 強制されて割腹自殺した。 殺されたも同然だ。

7.1944年2月1日。マーシャル群島に米軍、上陸。6日、日本軍6800人、全員玉砕。2月17日、トラック島に、米軍の大空襲。暗黒日記では、「2月5日。マーシャル島に、敵上陸したの旨発表。これは既に3日に外務省畠の人から聞いたところ。石橋和彦君がクエゼリンにいるはずで、果たして無事であるかどうか。」

ずっとこういう感じで、淡々と日記は書かれている。

 石橋湛山の東洋経済新報社は、日本銀行の真向かいに、今もビルがある(日本橋本石町。もといしちょう)。そこで、いくつか研究会を主催して、清沢の友人、同志たちが、戦争中も、ずっと集まって、毎週のように、順番に研究発表をし合っている。

 主な人名を列挙する。
 馬場恒吾(ばばつねご。ジャパンダイムズ編集長。戦後、読売社長も)、嶋中雄作(前述した。中央公論社長 )、谷川徹三、長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)、芦田均(あしだひとし。戦後すぐ、吉田茂への評判が悪いとき7カ月だけ、首相をした)、小林一三(こばやしいちぞう。東宝、阪急鉄道、それから東京電灯のちの東電などの電力会社の創業者。清沢は、小林から、東電の社史を書くことを頼まれていた)。

 片岡鉄兵(かたおかてっぺい。横光利一たちと新感覚派の作家。左翼になる。そして転向)、三木清(みききよし。京大の哲学者。私の先生の久野収=くのおさむ=の先輩。敗戦間近に、策略で捕まり、獄死した。)、田中耕太郎(戦後、最高裁長官になった)高橋亀吉(かめきち。経済ジャーナリストの優れた政策家)、正宗白鳥(まさむねはくちょう。小説家)、

 徳田秋声(とくだしゅうせい。彼も自然主義の文学者)、蝋山政道(ろうやままさみち。東大の行政学の権威)、柳田国男(やなぎたくにお)、正木ひろし(弁護士)・・・・

 彼らが、戦争になる前から、戦争に反対して、戦争中も、しぶとく細々と粘り強く、論陣を張った。多くの企業経営者(資本家)たちが応援した。
 
 優れた経営者(資本家)たちの応援で、東条英機の軍事政権(東条は参謀総長を兼ねた)に反対する言論を、締め付けに遭いながら続けた。しかし、この自由主義者たちは、英米や外国の動きをよく知っている優れた見識を持っていたから、外務省も、内務省警保局(けいほきょく)の特高警察も、必要としていた。 今の、私、副島隆彦からの世界情報を、ペロペロ盗み読みに来ている各省の国家情報官どもと同じだ。

 戦後の日本の官僚政治の支配者であった吉田茂でさえ、清沢の友人だ。1930年のロンドン海軍軍縮(ぐんしゅく。ディスアーマメント)会議のとき、吉田は外務省の交渉官として、清原の博学な知識に頼った。1945年の敗戦の間近には、大磯の吉田の屋敷の床下に、憲兵が潜り込んで、吉田たちの会話を盗聴した。この吉田茂でさえ、「外国と、和平の工作をしているのではいか」と疑われて、捕まり拘留されている。

 石橋湛山や、嶋中雄作から、「清沢さん。あんたは、特高や憲兵隊に狙われているよ。日記を書くのはやめた方が良い」と、再三、この暗黒日記の中に出てくる。

 清沢洌の、最大の敵は、 徳富蘇峰(とくとみそほう)で、彼が、明治、大正、昭和の、3代を生きた、生き方上手の ワルの権化の、言論人の親分で、伊藤博文(いとうひろぶみ)をハルピン駅頭で自分の銃殺隊に射殺させたあと、日本の最高検権力者になった、山縣有朋(やまがたありとも)や、その子分の 桂太郎(かつらたろう)に、べったりとくっついて、御用(ごよう)言論人の筆頭になった、大ワルの男だ。 

 この徳富蘇峰が、戦争突入後は、大政翼賛会の大幹部で、「文学報国会(ほうこくかい)」、言論報国会」の両方の会長だ。徳富蘇峰は、戦後は、戦犯容疑で自宅拘禁(81歳)になった。が、その後も厚かましく、皇国史観(こうこくしかん。天皇中心の国家思想)で生きながらえた。

 徳富蘇峰も、それより27歳下の 清沢も、上記の反戦(はんせん)思想の自由主義者たちも、15歳ぐらいから、当時のハイカラさんである、キリスト教に近寄り、同志社か、内村鑑三の無教会派の聖書購読運動に、強く憧れて、それから、渡米して、苦労して、苦学しなから英語を身に付け、国際的な教養人として、日本で一流の言論人になった人たちだ。

 私、副島隆彦が、彼ら真実の戦争反対の勢力(左翼では無い。温厚な保守だ )の系譜を、今に蘇らせなければ、誰も、もう今の日本の知識人は、彼らのことを知らない。 

 私たちは、コトバだけ激しい、奇妙に歪(ゆが)んだ、ネトウヨ(反共右翼)のコトバにも、その反対で、左翼思想の亡霊を引き摺(ず)った、過去からの怨念をもつ、急進リベラル派(人権絶対主義。無条件での、弱者の味方)の言論にも騙されないようにしないと、いけない。

今、大事なのは、反共バカ右翼では無い、穏健で温厚な、本当に穏(おだ)やかな保守の思想というものから、私たちは、多くを学ばなければいけない、ということだ。だが、私たちは、自分の言論においては、徹底的に反(はん)権力、反(はん)体制でなければいけない。
 私たちは、慎重に、注意深く考えて、目先の軽薄な正義判断(放射能や、コロナウイスルは、ほんの僅(わず)かでも、コワイ、コワイ、キャーキャー ではなく )に、一気に自分の脳を、絡(から)め取られないようにしないといけない。

 私は、このあと、今、アメリカで起きている、黒人暴動の、人種差別反対の、破壊活動を、強く疑い、それを批判し、その背後を探(さぐ)る文を書こうと思った。だが、もう長すぎるので、一旦、ここまでにして載せる。  副島隆彦拝