[2475]大宝三年の粟田真人の遣唐使の意義 2

守谷健二 投稿日:2020/01/13 14:05

 
西暦703年(大宝三年)の遣唐使は、日本国(大和王朝)の由来(歴史)を説明するために唐朝に派遣されたのだ。この時点には既に『日本書紀』の歴史は完成を見ていたのである。これを仮に『源日本書紀』と名付ける。

 その歴史とは「万世一系の単一王朝」の歴史で、日本列島には開闢以来、日本国(近畿大和王朝)しか存在しなかった、と云うものであった。大海人皇子(天武天皇)は、その正統な皇位継承者であるとするものだ。

 その説明を聞いた唐の役人たちが腰を抜かすほど驚いたのは当然であった。つい四十年前、唐と倭国は大戦争を戦っていたのである。倭国にとっては王朝の存亡を賭けての戦争であった。唐朝は、日本列島の内情をよく知っていた。

『旧唐書』日本国伝より
《日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。
 あるいは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
 その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て応えず。故に中国是を疑う。・・・》

 粟田真人たちの言う『日本国の歴史』は、唐朝の役人たち信じてもらえなかった。なお『旧唐書』は、日本列島の記述を「倭国伝」と「日本国伝」の二本立てで創っている。

 また決定的に重要なことがある。粟田真人等が唐朝に行ったとき、もう既に『隋書』が上梓されていたことである。隋の天下は、西暦589年~618年である。『隋書』は「倭国伝」を持つ。つまり六世紀末から七世紀初頭にかけての日本列島の記録は、既に中国正史に記されていたのである。

 粟田真人等は、当然『隋書』を持ち帰った。『隋書』倭国伝のクライマックスは、倭国王・多利思比孤の記事である。

『隋書』倭国伝より
 《大業三年(推古十五年・西暦607)、その王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。使者いわく「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
 その国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す。恙なきや、云々」と。
 帝、これを見て悦ばず、鴻臚卿に言って曰く「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞こするなかれ。」と。・・・》

 聖徳太子の「対等外交の国書」として日本史で教わるものです。粟田真人等は、この記載のある『隋書』を携えて帰朝した。日本史編纂に携わっていた者たちは、この『隋書』倭国(筑紫王朝)の記事を、日本国(大和王朝)の歴史の中に取り込んだ歴史を作る必要があった。日本列島には、開闢以来、万世一系の大和王朝しか存在しなかったのですから。

 粟田真人が帰朝した西暦707年(慶雲四年)から『日本書紀』が完成する養老四年(720)の十三年の間は、大宝三年には完成していた『源日本書紀』を改訂するための時間であった。最大のポイントは、倭国王・多利思比孤を、大和王朝の聖徳太子に移し替えることにあった。