[2473]大宝三年(西暦703)、粟田真人の遣唐使の意義

守谷健二 投稿日:2020/01/07 14:33

明けましておめでとうございます。

相変わらず、7世紀8世紀の日本史を考えています。日本史学者たちは、4世紀頃には近畿大和王朝の日本統一は完成していた、などと云っていますが、とんでもない嘘っぱちです。

日本に統一王朝が成立したのは、西暦668年(天智七年)一月の天智天皇の即位からです。それ以前は、即位せずに政治をとる天智天皇の称制時代と呼ばれています。

天智天皇の日本統一は、倭国(筑紫王朝)の朝鮮半島派兵の大敗北の結果(663年)でした。中国正史『旧唐書』は、倭国軍惨敗の様子をまるでかの有名な『三国志の赤壁の戦い』のごとくに書いています。日本史が「白村江の戦」と教えるものです。

倭国(筑紫王朝)の大惨敗でした。三万もの倭兵が海の藻屑となってしまった。
倭王朝が無事に切り抜けられたはずがないのです。国民の信頼を完全に失った。夫、子供を失った国民の憤怒が王朝打倒に向かわなかったはずがない。王朝人は命の危険に曝されるように成った。
 
倭国の王朝人は、近畿大和王朝(日本国)の天智天皇に援けを求めた。それまでは、倭国が上位で大和王朝は下位でした。
しかし立場は完全に逆転した。倭国の王朝人は天智天皇に命乞いをして援けてもらったのです。天智天皇の臣下となって、以後決して叛意を抱くことはありません、と。

有名な額田王が、最初大海人皇子(後の天武天皇)と結婚し、その間に十市皇女の誕生を見ていた(日本書紀の記事)が、天智七年ごろには天智天皇の訪れを待つ身になっいた。(万葉集より)
この事は小説や漫画にロマンチックに描かれているが、真実は大海人皇子が最愛の妃(額田王)を自ら天智天皇に進呈したに違いないのだ。
 最大に恥辱に違いない。しかし、そこまでして命乞いをして、叛意のないことを示す必要があった。

天智七年正月の天智天皇の即位は、日本列島の初代統一王者に就いた最高の盛儀であった。

 この三年後(天智十年12月)天智天皇崩御。翌年6月「壬申の乱」勃発。
「壬申の乱」の大海人皇子(天武天皇)の勝因は、近江朝(天智天皇の嫡男・大友皇子(明治に追号された弘文天皇))が、美濃尾張国で二万人もの民衆を徴兵していたこと。この兵団を何の抵抗も受けずに手に入れた事。近江朝は、天武天皇の蜂起を考えていなかった。完全な不意打ちであった。

もう一つの勝因は、大和の名門豪族の大伴氏が天武に味方して挙兵したことである。これも近江朝は予期していなかった。天武天皇の蜂起は、完全に謀反であり、裏切り行為である。弁解の余地は全くない。

天武は正統性を欲した。正統性が必要であった。正統性を創り上げねばならなかった。
天武十年(681年)歴史の編纂を命ずる。正統性の創造の開始である。
この歴史編纂は、大宝三年には一応完成していた。粟田真人らは、それを唐朝に報告するために派遣されたのである。

     続く