[2408]『旧唐書』と『新唐書』の間
守谷健二です。2402(5月20日)の続きです。
日本の王朝の万世一系の歴史は、誰によって創られたか?という問題です。
これは、『日本書紀』『古事記』をきちんと読めば、誰にでも解ることです。
両書とも、天武天皇によって編纂を開始された、と明記します。『古事記』序は天武天皇の言葉として
「朕聞きたまへらく、『緒家の齎(もた)る帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年を経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」
有名な「削偽(さくい)、定実(ていじつ)」と呼ばれる文章を残す。天武天皇は、「壬申の乱」と呼ばれる大内戦(1カ月にも及ぶ戦いで)で勝利して即位した天皇だ。平和な禅譲で即位したのではない。
天智天皇の後継者は、天智の長男の大友皇子に決まっていた。その大友皇子を滅ぼして皇位に就いたのである。天武は、簒奪者であった。それ故に「正統性を創造する」必要があった。
天武の勝利の要因は2つある。
一つは、大友皇子が、美濃尾張を中心に二万人もの百姓を徴集していたこと。この大集団を、何の抵抗も受けずに一夜にして手に入れた事。
もう一つは、大和の古い名門貴族の大伴氏が天武に付いて蜂起したことである。
大友皇子(近江朝)は、天武の決起を全く予期していなかった。天武が美濃尾張の大集団を手に入れ、不破関(関ヶ原)を封鎖し手から、初めて異変を知ったと云うのだ。
近江朝が、異変に対応すべく準備を始めたら、いきなり大和で大伴氏らが蜂起した、と『日本書紀』は記す。近江朝にとっては、全くの不意打ちであった。騙まし討ちと云ってもいい。
では、大友皇子は五月、六月の農業に大事な時期に二万もの百姓の徴集を開始していたのだろう。
この年(西暦672)の五月の末日まで、唐の使者・郭務宋が筑紫に滞在していた。前年の十一月に二千の兵を率いて来ていた。
朝鮮半島では、668年に高句麗を滅ぼすことに成功するが、半島経営をめぐり唐と新羅の戦争になっていた。新興の新羅の前に唐軍は苦戦していた。
唐は、倭国に対し派兵を求めたのではないか。しかし倭国は、既に日本国(天智天皇)の臣下になっていた。倭国は交渉を日本国に丸投げするしかなかった。郭務宋の半年にも及ぶ異様に長い滞在は、日本国との交渉を物語っているのではないか。
大友皇子は、唐の要請を受け入れ美濃尾張で徴収を開始していたのではないか。天智天皇は、百済からの亡命者(数千人)に美濃・尾張に荒野を与え自活を促していた。彼らを中核とする新羅討伐軍を編成していたのではないか。
天武は、初めからこの一団を手に入れることをめざして決起したのである。其れに運命を掛けていた。天武の決起は、明らかに謀反、騙まし討ちである。
故に、天武はどうしても正統性を欲した。正統性を創造する必要があった。