[2398]『旧唐書』と『新唐書』の間

守谷健二 投稿日:2019/05/03 16:01

 守谷健二です、2019年5月3日

『旧唐書』は、日本記事を、「倭国伝」と「日本国伝」の併記で創っている。『旧唐書』は、「倭国」(筑紫王朝)と「日本国」(近畿大和王朝)が日本列島に並立していた、と認識していた。
 
 西暦663年に朝鮮半島の南西部の白村江で、唐・新羅連合軍と戦ったのは、倭国であった、と明記する。倭国はこの戦いに三万余の大軍を派兵し大敗を喫したのであった。 倭国はこの戦いに、王朝の総力を注ぎ込んでいたのである。

『旧唐書』に初めて登場する日本国記事は、703年(大宝三年)の粟田真人の遣唐使の記事である。

 その記事は、日本国が倭国を併合したことを伝えている。しかし、日本国の使者たちの説明は矛盾が多く、中国の史官たちを納得させることが出来なかった。

 ―その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・『旧唐書』より

『旧唐書』が上梓されたのは、945年である。それから百十五年後の1060年に『新唐書』が上梓されている。両者とも正式には『唐書』であるが、区別するために『旧』『新』とつけられているに過ぎない。

 『旧唐書』が既に成立しているのに、何故『新唐書』が編まれたのだろう。
通説は、唐末の混乱で、唐末期の資料が失われたので、『旧唐書』の記事には不備があった。
 宋の時代になって、唐末期の資料が多く発見された。それ故、『旧唐書』の不備を補いより完全な「史書」を作ることが、勅命(皇帝の命令)でなされた。と通説は伝える。

 しかし、『新唐書』は、史料の扱いが杜撰で、誤りも多く、『旧唐書』よりも信頼性に欠ける、と云うのが後世の学者たちの一致した見解である。

 『新唐書』の日本関係記事も、誤りが目立つ。特に阿倍仲麻呂の経歴を誤っているのは納得できない。
 『小倉百人一首』天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かもーの阿倍仲麻呂である。

 仲麻呂は、十六歳で唐に留学し、科挙に合格し、微官から出発し、秘書監(従三品)、左散騎常侍(従三品)、鎮南都護(従二品)と、唐朝に重きをなした人物で、李白、王維、杜甫など詩壇のスターたちとの詩文の応酬も多く残されていた超有名な人物である。まともな歴史家であったら、間違いようがない人物なのだ。

 この『新唐書』であるが、
 
―日本国は、古の倭奴なり―出始められている。日本国の連続性を認めている。日本には王朝の交代がなかったと書く。
『旧唐書』の見解を否定する。
              つづく