[2317]『古事記』偽書説について

守谷健二 投稿日:2018/05/14 12:54

 ご無沙汰しています。

小生の関心は、もっぱら七世紀、八世紀の日本にあります。この時期に日本の根幹(天皇信仰)が創り上げられた、と確信している。
 西暦662年、倭国は唐・新羅連合軍に惨敗します。倭王朝は三万もの大軍を朝鮮半島に送っていた。まさに倭国の存亡をかけていたのです。
 この惨敗で倭王朝は熱望の坂道を転がり落ちた。

 当時日本に君臨していたのは倭王朝だけではなかった。近畿には大和王朝があった。半島で惨敗するまでは倭王朝が上位者でした。
 中国正史『旧唐書』が七世紀の半ばまで日本列島の記事を「倭国伝」で創っているのは、倭国を日本の代表と認識していたからに他ならない。
 近畿大和王朝の存在を知らなかったわけではない。大和王朝も独自に使者を唐朝に送っている。
 それでも「大和王朝伝」を立てなかったのは、唐朝が大和王朝を倭国内の一地方王朝と認識していたからである。

 『旧唐書』に「日本(大和王朝)伝」が登場するのは西暦703年(大宝三年)の粟田真人の遣唐使の記事からである。
 唐朝は、ここで初めて大和王朝(日本国)を日本の正式な代表と認定したのだ。七世紀の後半に日本の代表王朝の交代(革命)があったと唐朝は認識したのである。

 粟田真人たちは、一所懸命に日本の歴史を説明したが、唐の史官たちを納得させることが出来なかった。

 「日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となす。
 あるいは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
 その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。」『旧唐書』日本国伝より

 遣唐使の説く説く日本の歴史が、唐朝が持っていた史料とあまりにもかけ離れていたので、唐の史官たちがあれこれ質問しても、粟田真人たちは毅然として「我らが説明する歴史に間違いございません」と繰り返すばかり。唐の史官たちは呆れかえるしかなかった。
 「入朝する者自ら矜大、実を以て対えず。故に中国是を疑う。」

 粟田真人たちは、唐の史官たちを納得させることに失敗した。
 天武天皇の命で開始された歴史編纂は、第一の読者に「唐朝」を想定して創られたのだ。その唐朝の説得に失敗したのである。
 天武朝に始まり、持統朝、文武朝で創られた歴史の訂正・修正を余儀なくされた。

 703年の粟田真人の遣唐使の時には歴史編纂はほぼ完成していた。それを唐に認定してもらえば真の完成であった。それに失敗した。
 『古事記』は、和銅五年(712)に書かれたとの序文を持つ。それに対し『日本書紀』は養老四年(720)に撰上されたと『続日本紀』に記される。
『古事記』と『日本書紀』を比べると、『古事記』の方がはるかにコンパクトにまとまっている
 それ故に、『古事記』は『日本書紀』を参照にして『日本書紀』より後に創られたという『古事記』偽書説が後を絶たない。

 しかし、粟田真人の遣唐使の前に修史作業は一応完成していたとしたら『古事記』は、その訂正・修正作業の指針として書かれたのではないか。
 私の見解では、修正作業の目玉は、大業三年(607)隋の皇帝・煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」の対等外交の国書を送った倭国王・多利思比子を大和王朝(日本国)の歴史の中に取り込むことである。
 何故なら、この多利思比孤こそが唐朝で最も有名な日本人だったからである。
703年には、最新の正史として『隋書』が既に上梓されてた。

 「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。『隋書』倭国伝より

 『隋書』の描く多利思比子の姿である。仏教に深く帰依し、僧数十人も隋に送り仏法を学ばせていたのである。この多利思比子を取り込んで大和王朝の聖徳太子は造形された。