[2082]法と「正しさ」について

関本克良 投稿日:2017/02/06 03:05

初めて投稿いたします。私立大学の専任教員をしておりますが、学士は中国研究、法学修士、学術博士を取得しました。

中国の社会福祉を研究していますが「福祉」とは何かの研究から、人権研究を進めたのですが、現在の「人権」概念がなかり根拠のないものであると考えています。権利とは何かについても重要ですが、まずは、権利(主観的法)を客観的に規定する客観法としての法について書いていきます。

参考文献は、法哲学者の水波朗(1922年10月3日(大正11年) – 2003年(平成15年)7月31日)九州大学名誉教授、元久留米大学教授、専門は法哲学)の著作です。

私は、自然法について論じる際に、ホッブズが人間の自然状態(人間の本性)を「戦争状態」と定義していることに批判的な意見をもっています。

ホッブズは『リバイアサン』などで、人間の本性=戦争状態であることから、自己の生存のためにあらゆる手段をとることが「自由」として認められ、これが「自然権」であるとしています。このあたりが、自由=権利、自由権的基本権こそが、権利の本質であるように語られる論拠になっているように理解しています。

人権の概念がよく分からないのは、ホッブズが人間を「戦争状態」と定義したことによって、どうしても人間の本性である「戦争(生存競争)」と「人権(特に社会権)」とが整合性をもてないことにあると考えています。基本的に、権利の本質が「自由」であることにも疑問をもっています。

水波は「自由」とは「法が禁止していない範囲の自由」であるとして、法が禁止しない範囲とは、法規範の外にある範囲となるために、自由という権利は法的には存在しないと言っています。つまり、自由という権利はないと。既存の法学からすればかなり破壊的な意見で、こうした論文を書こうとしてもどこも受け付けてくれそうにありません。

ホッブズが人間を「戦争状態」と言ったことも論駁しなければならないのですが、自然法を考える際には、法とは何かをまず考えなければなりません。

水波の自然法論は、一般的にトマス主義自然法と呼ばれますが、トマス・アクイナスがとった伝統的な立場をとるようです。水波門下では、人間の自然状態は補完性原理であり、共同善をその目的とするようです。なぜ、補完性となるのかというと人間の本性は「家族関係」であり、家族関係は決して「戦争」ではなく、補完性(隣人の不足分を補い合う関係)であると考えています。私は補完性原理のほうが、人間本性の定義として正しいと考えます。

ホッブズがどうして人間本性を「戦争状態」としたのかは不明ですが、ホッブズは、人間の定義において、肉体と霊魂の二元論をとったデカルトの影響を受けて、ホッブズが人間を「過度に肉体的な存在」として捉えたことにあると考えています。

ここから、ホッブズ以降の哲学者が、人間に対する学問を快楽主義(功利主義)、経験主義に向かわせ、経済学では効用学説がおこり、法学では人定法主義(法実証主義)がおこった、その源流はホッブズにあると考えています。

私は、ホッブズの人間本性論=戦争状態の批判が現代社会科学において大変重要であると考えています。功利主義に対しても批判的な意見をもちますが、同じ意味でホッブズの影響が大きいと考えています。つまり、人間=肉体とし、生命=最高善、死=最高悪とする快楽と苦痛のみを基準とする哲学に対する批判が必要ではないかと。

トマスアクイナスは、水波の意見に従えば、人間とは肉体と霊魂の完全なる結合であるとして、この両者は不可分であると考えるようです。デカルト以降の哲学では、どうも両者が分離しており、肉体(経験主義)と霊魂(理性論・観念論)が分離して、イギリス経験論とドイツ観念論の流れを形成したと理解しています。つまり、ホッブズは、デカルトの肉体的な哲学のみを採用したと。

もう一つというか、最も重要な点のみを書きます。それは、「正しさ」とは何かについての自然法論の意見です。

トマスアクイナスはアリストテレスからアイデアを得て、自然法を確立したようですが、最も重要なことは、アリストテレスが「正」と「正義」を分けた点にあるようです。ここでは「正=事物の本質」が決まらなければ「正義(正しさ)」が生まれないと考えます。私は学生にはよくこういいます。ここにペットボトルがある、ペットボトルの本質は「液体を入れる」ことであると、これがペットボトルの本質(正)である。ペットボトルの本質(正)が決まれば初めて、ペットボトルにとって、液体を入れることは「正しい」と言えるのだ、と。

ここから、事物の正(本質)が特定されなければ、その事物にとって「正しさ」が決まらないのだということに気づきました。この点が、自然法の最も重要な点のようです。

トマスアクイナスは、これを受けて「法」と「法律」を分けています。つまり、「法」とは「事物の本質」であり、「法」が決まれば初めて「法律(正しさ、~すべき、当為)」が生まれるのであると。この思考方法は演繹になるので、哲学や倫理について論じるには、演繹法がやはり重要ではないかと思っています。

余談ですが、王陽明の陽明学の「致良知」も演繹であり、朱熹の「格物致知」が帰納の思考法ではないかと、王陽明は事物の本質が各物によって異なるという、帰納的思考(正義の相対化)を批判したのではないかと、直感的に考えています。

思いつくまま書かせて頂きました。
論理の細部に間違いもあるかと存じますが、宜しくご批判ください。