[1999]『明治を創った幕府の天才たち』誤記訂正。執筆者のひとりより

田中進二郎 投稿日:2016/09/19 02:11

新刊『明治を創った幕末の天才たちー蕃書調所の研究』の誤記訂正  筆・田中進二郎
2016年9月18日

本日は副島隆彦先生の金融セミナーに参加できず、誠に残念でした。副島先生ならびにスタッフの方々お疲れさまでした。次回の鳩山由紀夫・元総理をお招きする定期講演会には必ず出席いたします。大いに楽しみにしております。

さて、成甲書房刊・SNSI第8論文集『明治を創った幕府の天才たち』が発売されてから1週間がたちました。すでに、この本を読んで頂いた方々、ありがとうございます。
↓の清野眞一様の誤記訂正を読みまして、私田中進二郎も、執筆陣の一人(第3章を担当)として、この本に間違いは他にないか、よく見直してみました。以下、明らかな誤記または事実誤認と思われるところをあげておきます。(1~4章まで)

第1章石井利明氏 ー「尊王攘夷」から「開国和親へーその歴史の秘密」ーより

清見眞人氏の指摘された個所については省略。そのほか明白な間違いは見つからなかった。

第2章六城雅敦氏 ー明治の国家運営を担った旧幕臣の数学者たちーより

P95 「江戸時代の蘭学者の系譜」の図より
×古河謹一郎 →○古賀謹一郎(こが きんいちろう)

P99 ・・・逃走した榎本(武揚)の開陽丸(幕府の主力艦)は、残念ながら、×小樽沖で座礁し沈没してしまった。・・・
→○江差(えさし)沖で座礁し沈没してしまった。

(田中進二郎注 この開陽丸の謎の沈没については、本書の姉妹編『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』成甲書房2014年刊 の長井大輔氏の『榎本武揚』の章で論じられています。榎本脱走艦隊は、勝海舟に説得されて、江戸の品川沖で待機を続けた。奥羽越列藩同盟の敗色が濃くなったところで、敗残兵を仙台で拾って、箱館に向かった。
開陽丸を温存したのちに、戦略的に意味のない江差攻撃に向かわせ、これを沈没させた。)

P83 ・・・(千利休の)茶の湯にはキリスト教(それもプロテスタント)の影響があると言われている。たぶんそうだ。・・・

ーここは、六城さんの見解であり、間違いというわけではないが、かなり唐突に思える。千利休は当時急速に信者を増やしていた、キリスト教(イエズス会)の洗礼の儀式を真似て、茶の湯の作法を作った、という説が近年注目されている。ローマのバチカンには、日本の茶道成立についての文書が保管されているそうだ。
千利休はイエズス会の巡察使・オルガンティーノのつながりが疑われる。副島隆彦先生著『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』(PHP刊)には、本能寺の変(1582年)の直後、オルガンティーノがポルトガル語の手紙を高山右近に送った。そこには「明智光秀につくな。光秀を討て!」と書かれていた。高山右近は、大返しをしてきた秀吉軍の先陣をつとめ、光秀本隊を撃破した。と副島先生はお書きになっている。これは、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 431年目の真実』を下敷きにしている。
でこの時、高山右近の茶の湯の師であった千利休(宗易 そうえき)はどこにいたかというのを調べてみると、山崎の天王山のすぐ南にいた。合戦後、秀吉から山崎の土地を拝領している。ということは、高山右近をはじめとするキリシタン大名とイエズス会と秀吉の間の連絡係を務めていたのではないか?と私田中は考えている。
ということで、千利休がプロテスタントという根拠を六城氏に示していただきたかった。

第3章 田中進二郎 -蕃書調所の前身・蕃書和解御用(わげごよう)と初期蘭学者たち
より

P108 ・・・徳川吉宗自身が、江戸の×浅草(鳥越)に天文台を作って天体観測を行った。
    
→吉宗自身が天文台を○神田・佐久間町に新たに設計し、移した(1746年)。また江戸城内にも天文台を設計した、といわれている。浅草(鳥越)に天文台が移されたのは、前章・六城氏が記述されているように、1782年である。
つまり、幕府の天文台(天文方)は、新宿牛込~神田~神田佐久間町~浅草鳥越と移転している。

P110 松平定信は8代将軍吉宗の×息子といわれている。

→松平定信は、徳川吉宗の○孫である。吉宗の子・田安(徳川)宗武の三男(あるいは七男)である。

P139 (山田方谷は) ×1876(明治9)年に没するまで毎年、閑谷(しずたに)学校で陽明学を講義している。
→「1877年に没するまで」に訂正。

P140  海老名弾正(えびな だんじょう 明治時代のプロテスタント)は、横井小楠の肥後実学党で学んだことについて、のちに次のように述懐している。

→海老名弾正はクリスチャンになってから、横井小楠の実学精神をまなんだ。そして肥後実学党の設立者・小楠の教えを次のように述懐している。
( 田中進二郎注 横井小楠は1869年に京都で暗殺されている。当時まだ海老名弾正は13歳なので直接の面識はなかった、と考えられる。)

第4章 津谷侑太氏 ー幕府の科学研究所・蕃書調所で起きていた権力闘争ーより

P160  古賀謹一郎(蕃書調所の初代所長)の父親の×(古賀洞庵の影響が強い。
→○古賀侗庵(とうあん)

P160 ×鳥居輝蔵
→鳥居燿蔵(とりい ようぞう)

この章については、津谷氏の言葉の使い方、あるいは記述方法に疑問を感じざるを得なかった。
津谷氏の論文には、これまでの彼の「今日のぼやき」掲載論文と異なり、大げさな形容が多い。そのことで論旨が見えにくくなった。前半部分の古賀謹一郎が昌平坂学問所と蕃書調所の両方で活躍した才人であったことを、もっとシンプルに書けばよかっただろう。これは彼の大きな発見である。私田中が趣旨をまとめると、こうなる。

ー寛政の改革を行った老中・松平定信は、最近では評価が低い。重商主義政策を行った老中・田沼意次の評価が近年高まっているので、緊縮政策を実施した松平定信は旗色が悪い。
定信は「寛政異学の禁」を行って、昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じた。幕府体制の引き締めだ。だから徳川家の支配を強化しただけのように見える。

しかし、定信は、確かに徳川吉宗のDNAを受け継いでいた。さすがに吉宗の孫だけのことはある。彼は吉宗と同様に蘭癖(らんぺき)大名の一人だった。
1790年に定信が江戸の昌平坂学問所を正式に幕府の学問所とした。このとき、林羅山以来の官学の権威であった林家(りんけ)のほかに、全国から優秀な儒学者(漢学者)を招いた。この中に古賀精里(せいり)がいる。彼は佐賀藩から招かれた。佐賀藩は長崎の防衛役にまかされるなど、海外の状況に鋭敏であった。長崎に入ってくる輸入の漢籍を読むのが、古賀精里の仕事だった。この中には、漢訳洋書も含まれていた。長崎経由の漢籍を通じて、西洋の情報がもたらされていた。古賀精里はただの儒学者ではなく、国際情勢に通じている知識人だった。

古賀精里ー侗庵(とうあん)-謹一郎の三代が、昌平坂学問所の教官として、漢訳洋書の研究を行っていたのだ。林家の朱子学は、表向きの昌平こう(学問所)の姿であって、奥では教官たちが洋学を学んでいたのである。実は、昌平こうの内部が『陽朱陰王』(ようしゅいんおう 昼間は官学を講義し、夜になると人が変わったように陽明学を教える)だったのである。
この流れは西洋列強の脅威が増すにつれて、本格的になる。

蕃書調所ができると、そこで翻訳された書物は昌平こうで教えられていたのである。
だから、儒学者たちが蘭学者(洋学者)とどんどん交流を深めている。そして、1856年古賀謹一郎が初代蕃書調所の頭取になっている。これは、勤一郎が押しも押されもしない洋学者であったことを意味している。

(以下は田中進二郎の考察)

1854年に幕府の能吏・川路聖謨(かわじ としあきら 当時勘定奉行)が日露和親条約の交渉のために、長崎に行った。そして、ロシア人プチャーチンと交渉した。その後、川路聖
謨は通訳だった箕作阮甫(みつくり げんぽ)とともに、魏源の『海国図志』を見つける。これは、当時最先端の東アジアで最初の地政学の書物だった。この書物の意義を察知した川路は、江戸に持ち帰ると、漢文で書かれた『海国図誌』に訓点を打つように儒学者・塩谷宕陰(しおのやこういん)に命じた。塩谷は昌平坂の教官であった。蘭学者・箕作阮甫と塩谷が仲良く仕事をして、『海国図志』が出版されている。

この例のように、昌平こうの教官たちが漢訳洋書を翻訳できたのは、昌平坂学問所内で、古賀謹一郎たちの指導のもと、西洋学問が学ばれていたからだろう。
蕃書調所との知的な分業体制があった、ということだ。そのことを津谷侑太氏が明らかにした。

冷静な津谷君に早く戻って、斬新な論文で刺激を与えて欲しいと思っている。
最後に皆さん、『明治を創った幕府の天才たち』をどうぞよろしくお願いします。

田中進二郎拝