[1958]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/07/28 11:34

   人麿の正体(その6)

 激動する現代で、相も変わらず七世紀の話を投稿していることに、少々気兼ねするこの頃です。
 しかし、なぜ日本人は『万葉集』を読まないのか?
 何故『万葉集』を粗末に扱うのか?

 もし日本教(天皇教)に聖典(ユダヤ教に於けるモーゼの十戒、キリスト教に於ける福音書、イスラム教に於けるコーラン)が在るとすれば、『万葉集』こそ聖典に値するのです。
 『日本書紀』や『古事記』は、その補助に過ぎません。こんなことは、これまでの研究者が誰も言っていません。

 解っていないのです。
 日本の学者は、歴史学を専門にする者は『日本書紀』『古事記』をもっぱらに研究し、『万葉集』は文学者の領分だと決め付け『万葉集』をあまり読んでいないのです。
 『懐風藻』の扱いも同様です。『懐風藻』の研究は、文学者の領域で、歴史学者はその聖域を侵してはならない、と云うようなつまらない縄張り意識に囚われているのが日本の学問の世界であるらしい。

 日本の歴史学者は、『日本書記』『古事記』には詳しいが『万葉集』は読まない。
 一方、文学者は『万葉集』には詳しいが、『日本書紀』『古事記』を読まない。
 特に文学者では、当時の社会状況を知らなくとも『万葉集』の理解は可能であると、芸術至上主義のように考えている人が多数のようです。
 しかし、『日本書紀』『古事記』『万葉集』この三書は、同時期に編まれた物です。お互い無関係であったはずがないのです。
 当然中国の正史『隋書』『旧唐書』とも無関係であったはずもない。
 それらすべての史料を相対化して「日本史」を研究する必要があります。
 しかしながら、日本の学問の現状は、自分たちの学説(主張)に合致しない史料は、史料の方が誤っていると決め付け、無視する。
 日本の歴史学では、四世紀には大和王朝の日本統一は完了していた。天皇の万世一系は侵すことの出来ない神聖な真実である。と云う事が絶対のドグマ(教義)です。
 日本国は、このドグマを中心に据えることで明治期以来近代国家を作ってきた。

 神話、宗教なしには近代国家の成立・維持は難しい、と云うのが世界の学問の常識であるらしい。
 日本での天皇崇拝は、明治維新後急速に強化されたのです。古代史研究も天皇崇拝の宗教の中に包含されてしまった。未だ宗教の呪縛の中でモガイテいるのが現状です。
 日本の歴史学・万葉学は、未だ宗教の中にいる。
 
 『万葉集』の真の理解は、当時の社会状況を知ることなしには不可能なはずです。つまり、『日本書紀』『古事記』『懐風藻』『旧唐書』を同時に知る必要があるのです。
 
 私は、市井のど素人の研究者に過ぎません、しかし今の日本で『万葉集』の真実に辿り着けたのは、私以外に居ないと自負しています。
 私が何故『万葉集』の真実にたどり着けたのか、それは「壬申の乱」というのは、倭国(筑紫王朝)の大皇弟(天武天皇)の大和王朝乗っ取り事件であった、と気付けたからです。
 『日本書紀』は、天武天皇の正統性を強調しますが、真実は簒奪者です。だから「壬申の乱」は「乱」と呼ばれてきたのです。当時の人々は、天武天皇に正統性がないことを、みんな認識していた。
 天武の正統性を全面的に否定してのは『懐風藻』です。
 『懐風藻』は、天平勝宝三年(751)に上梓されています。東大寺大仏の開眼供養の前年です。天武の血を引く天皇(天武の王朝)が在位している真っただ中で編まれた『書』です。
 その『懐風藻』は、天武の正統性を、真っ向から否定している。
 この史料に、日本史学界は真正面に対決していないのです

 もし、私の拙論を読んでくださる人があれば、感想でもこの重たいブログに寄せてくだされば幸せです。