[1944]天武天皇の正統性について
柿本人麿の正体(その2)
久しぶりに書きます。目が衰えて長時間パソコンに向っているのが困難になりました。でも今日は頑張って書きます。
中国正史に書かれている「倭国」とは、全て筑紫王朝の事です。近畿大和王朝(日本国)が日本列島の代表王朝と認知されるのは、『旧唐書』の記す長安三年(西暦703、大宝三年)からです。
しかし日本の史学会は、『旧唐書』の記す、「倭国伝」と「日本伝」を別条に立て、七世紀半ばまでの日本列島代表を「倭国」で創り、八世紀初頭から「日本国」で書いていることは、『旧唐書』編者の体裁の悪い誤りと決め付け無視しています。
『旧唐書』を誤りと決め付けるしかなかったのです。公認の「日本史」は、四世紀ごろには近畿大和王朝の日本統一はほぼ完了していた。日本列島には大和天皇家以外の王朝は存在しなかった。この二つの原則で創られているのです。
この二つの原則に、科学的根拠など何もないのです。こうあって欲しいとの願望でしかありません。明治国家が、国の求心力として天皇を神に祭り上げた時の国家的要請として「日本史」は創り上げられました。
このため、中国正史に書かれている「倭国」は、何が何でも近畿大和王朝とするしかなかった。日本の実情に会わない「中国正史」の記載は、全て「中国正史」の勘違い、誤りと処理して来たのです。
例えば、『隋書』の記す倭国王・多利思比子(たりしひこ)の記事です。この王は、かの有名な「日出処の天子、書を日没するところの天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」で始まる国書を隋の皇帝・煬帝に送ったと『隋書』倭国伝は書きます。
しかし「日本史」では、これを近畿大和王朝の聖徳太子の対等外交の国書と説きます。御承知のように聖徳太子は、国王ではありません。当時の大和王朝の国王は、推古天皇、女帝です。
しかし『隋書』は、倭王を男性と書き、妻の名前まで記すのです。
大宝三年、唐の都・長安を訪れた遣唐使・粟田真人は、日本国の由来(歴史)を唐朝の史官たちに説明しました。天武天皇の命で開始された歴史編纂は、この時完成を見ていたのです。粟田真人は、必死に日本の歴史を説明したのですが、唐の史官たちを納得させることが出来なかったのです。
「・・・あるいはいう、日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら傲大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・」(旧唐書・日本国伝より)
『旧唐書』は、粟田の真人を次のように記しています。
「・・・真人好んで経史を読み、文を属するを解し、容姿温雅なり、・・・」と。
日本の王朝は最も優秀な人物を選んで唐朝の説得にあたらせたのでしょう。しかし、唐朝に納得してもらうわけにはゆかなかったのです。
当時『隋書』が最新の正史として完成を見ていました。粟田真人は、その『隋書』を譲り受けて帰朝したはずです。
当時唐朝で最も有名な日本人は、隋の煬帝に「対等外交の国書」を送り付けた倭国王・多利思比子でした。
天武天皇の命じた歴史編纂の原則は「日本列島には、近畿大和王朝以外存在しなかった」と云うものです。倭国の大皇弟(天武天皇)を、大和王朝の天智天皇の「同母の弟」と挟み込むことで、天武天皇の正統性を創造した歴史です。
唐朝を納得させるためには、中国で最も有名であった多利思比子を如何にかして処理しなければなりませんでした。聖徳太子のモデルは、倭国王・多利思比子です。
法隆寺の、再建・非再建問題は、移築問題として検討しなければなりません。そう、筑紫から移築されたのだと。
明治十七年(1884年)、フェノロサにより法隆寺夢殿が開扉され、埃に埋もれ、布で分厚くくるまれ横たわる秘仏・救世観音像が発見された。その発見時の異様さから様々な説が戦わされている。例えば、蘇我入鹿の怨霊を封じ込めるためだとか。云々。
そんな事よりもっと素直に考えれば良いのではないか。大事な仏像を、布でぐるぐる巻きにしたのは、運搬時の破損を恐れたからではないのか。何らかの理由で、夢殿の救世観音だけが運搬時のまま捨て置かれたのではなかったか。
法隆寺は、聖徳太子信仰の中心である。その聖徳太子は、倭国王・多利思比子なのだ。天武天皇は、倭国の大皇弟であった。法隆寺の移築問題は、真剣に検討されねばならない。