[1889]副島隆彦先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』を読む①

田中進二郎 投稿日:2016/03/27 17:46

副島隆彦先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は爆殺された』を読む

・人気の明智憲三郎著『本能寺の変・431年目の真実』で踏み込まれなかった、畿内のキリシタン大名、仏教勢力とイエズス会のつながり
・秀吉の死に、キリシタン大名・高山右近、前田利家が関わっていた?
・イエズス会の主要構成メンバーは、改宗ユダヤ人(converso コンベルソ)
・インドのゴアでイエズス会のザビエルはユダヤ教徒・ヒンドゥー教徒を火あぶりにしていた。
・信長、家康の大河ドラマの英雄像は、明治大正の大ジャーナリスト・徳富蘇峰によって作られていた

副島隆彦先生の御著書『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』(PHP 2016年1月刊)を2カ月ほど前に、読みました。従来の歴史書の真偽の区別がはっきりなされており、信長、秀吉、家康の三大英雄の時代の真実が分かる力作でした。
『今日のぼやき』(会員制)でも、この本についての副島先生の詳しい解説があります。

良い本というのは、その本だけを読んで終わりにならず、次々と他の書籍を調べてみようとなるものです。私田中進二郎も、副島先生の『信長はイエズスに爆殺され・・』から、明智憲三郎氏の明智本、故・小室直樹博士の『信長ー近代日本の曙と資本主義精神』、村岡素(そ)一郎著『史疑(しぎ)』、徳富蘇峰の『近世日本国民史(織田信長)』などを読み、三大英雄にどのようなウソがまかり通っているのかを調べています。

私の塾の教え子たちにも、この本を勧めたところ、頭が柔軟な子たち(中学2年生)5、6名が読了しました。その中の一人は、『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫 2013年刊 以下明智本と略する) を何度も読んでいたのですが、副島先生の本と比較していくうちに、やはり信長はイエズス会に爆殺されたのは正しいのだ、と納得した、と言っていました。
彼ともうひとりの塾生と、学問道場の会員の方と四名で、副島本と明智本を比較する読書会を行いました。(京都からわざわざきていただきました。ありがとうございます。)
やはり、イエズス会の幹部(巡察使)だった宣教師・ヴァリニャー二(1539-1606)が信長に献上した、彌助(ヤスケ)という黒人小姓(インド人だっただろう)が本能寺の変の謎を解明する上で、重要だと見解が一致しました。
日本語を解する彌助が信長の小姓として仕えるふりをしながら、彼の情報をヴァリニャー二に逐一報告していただろう。本能寺の変(1582年6月2日)での唯一の生き残り、が彌助であったことは、かれがイエズス会の諜報要員として、インドのゴアで仕込まれていたことを示している。
(副島本p92-95を参照)
このことは、明智本が最初に指摘した重要なことだ。彌助は信長が斃(たお)れた本能寺から、嫡子・信忠のいる二条城に移動して、信忠が死ぬところを見届ける役割を果たしたのであろう。
その後、明智光秀の軍に投降して行方を絶った。私田中の教え子は、ヴァリニャー二はこのあと、「琵琶湖の小島に隠れていた」というが、安土城を焼く工作を実行したのではないか、と推測していた。

また、イエズス会の巡察使・オルガンティーノ(1530-1609)が、キリシタン大名・高山右近に「明智光秀を裏切って、羽柴秀吉に味方せよ。」とポルトガル語で書いた手紙を送っていたことも、明智本のp225で書かれている。
高山右近は、イエズス会の手先として働き、明智光秀を「信長殺しの主犯」として抹殺する作戦に最も忠実に動いた。右近は、「中国大返し」をしてきた秀吉軍の先鋒を勤め、光秀の本隊
を鉄砲隊で撃破した(1582年6月13日)。

秀吉は、信長の後継者としての地位を手に入れた山崎の戦いで、最大の功績を立てた高山右近に3万石のみ加増しただけだった。それは、右近が決して秀吉に忠誠心があるわけではなく、イエズス会ーローマカトリック教会につながっていることを、秀吉自身が知っていて、警戒したためだろう。

山崎の戦いの時に、もうひとり重要な人物が戦場に近いところにいて、合戦の趨勢を見守っていた。それは千利休(宗易)である。利休は、高山右近の茶の湯の師として、密接な交流があった。利休がキリシタンであったということは、今も日本ではタブーとされている。
しかし、利休の茶道が、当時畿内のキリスト教会で行われた洗礼の儀式を取り入れたものであることを確証する史料が、ローマ・バチカンの図書館に残っているという。

(引用元ー武者小路千家14代目家元 ラジオ番組の録音
http://manga.world.coocan.jp/sadou-iemoto-musyakouji.html

また利休も、山崎の戦いの後、山崎(京都府)の地を秀吉から与えられている。そして、待庵という茶室を建てている。これは、国宝として、茶道の愛好家たちの間では、聖地とされている。
 秀吉は、イエズス会と、明智光秀、細川幽斎、高山右近らキリシタン大名の動きをつかみながら、光秀を討伐し、信長の後継者としての地位を固めていったのだろう。

このほかにも当時はキリシタン大名が、ゴロゴロいた。高山右近が彼らに洗礼を施していったのは有名である。蒲生氏郷(がもう うじさと)、黒田官兵衛(如水 秀吉の軍師)
、前田利家、宇喜多秀家・・・。前田利家は表向きはキリシタンであることを隠していたが、秀吉がバテレン追放令(1587年)を出して、高山右近の高槻(大阪府)の領地を没収したあと、右近を加賀領内で保護していた。そして、金沢城の一角に菱櫓(ひしやぐら)という、京都の南蛮寺を模した建物を作らせている。「信長を爆殺した」イエズス会の南蛮寺を高山右近と前田利家が密かに作っていた、その真意はいかに?

(金沢城菱櫓と南蛮寺↓
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1793168/1802629/84392511
 
また、金沢から少し離れた七尾(ななお)には、前田利家、嫡男・利長が保護した寺院群があるが、この中に、利家と正室・まつがひそかにおがんだ十字架が日蓮宗の本行寺(ほんぎょうじ)に残されている。

 高山右近もこの寺にしばしば滞在したことが分かっている。日蓮宗・本行寺は、浅草、下関、高槻などにも点在しているが「隠れキリシタンの本山」である、ということである。
右近は高槻(大阪府北部)の領内にカトリック教会の教えを広め、仏教寺院を徹底的に破壊した、といわれている。その高槻にも本行寺が存在しているのは、耶蘇教を密かに伝えるためであったろう。
 右近はこの寺の敷地内に設けられた茶室で、南蛮渡来の耶蘇教や建築技術などを教えていたらしい。金沢市に今も残る辰巳(たつみ)用水も、右近から学んだ板屋兵四郎(いたや へいしろう)がわずか1年で正確に工事を完成させたのだという。彼らは高度な数学の知識を有していたのだ。

前田利家、利長は右近の最大の庇護者となり、二十余年にわたって右近が領内で布教するのを許していた。家康が禁教令(1612、13年)を出して、右近は内藤如安(じょあん)らとともに、フィリピンのマニラに追放された。そこで熱病にかかり没するのであるが、右近と前田利家には、さらに大きな疑惑がある。それは、朝鮮出兵を続行していた豊臣秀吉を大坂城で暗殺したのではないか?というものだ。
 これは、テレビ番組『歴史ミステリー』で取り上げられている陰謀説である。
 朝鮮出兵の停戦交渉に朝鮮側からは、沈惟敬(しんいけい)が日本にやって来る。
副島本(p91)にも、小西行長と沈惟敬の停戦交渉について書かれている。
国内では、前田利家が伏見城で沈の接待を行っていた。このあと、沈は秀吉と話し合ったが、その際に万能薬と偽ってヒ素を飲ませ、秀吉を毒殺した、ということが朝鮮の史料に記載されている、という。

(引用元ー歴史ミステリー
▲裏・歴史▼ 豊臣秀吉暗殺に新説!黒幕はあのキリシタン大名だった!?[ミステリー#84]: http://youtu.be/LNEYF5hT-W4

これを、学問道場で論じるのはどうかな、とも思うのであるが、前田利家が右近に洗礼を受け、長きにわたって指導されていたとすると、秀吉を殺そうとするイエズス会ー高山右近ー前田利家という指令系統があった、としても不思議ではない。これより前に、高山右近は師である千利休が、秀吉の怒りを買って切腹をさせられている(1591年)。

そして、秀吉の大阪城での死の2年前ー1596年には、長崎で「26聖人大殉教」が起こっている。この時、日本人の信者だけでなく、フランシスコ会士、イエズス会士たちもあわせて9名処刑されているのである。
これは、ローマ・カトリック教会を震撼(しんかん)させた出来事だった。上の歴史ミステリーの動画でも、イエズス会の書簡に「秀吉を葬り去ることを決定した」というものが存在している、と言っている。
イエズス会と、朝鮮、国内の大名の利害が一致して、秀吉暗殺計画が実行されたのではあるまいか?そして、その計画の黒子(くろこ)として動いたのは、本能寺の変の時と同様に、高山右近であっただろう。
イエズス会ーローマ・カトリック教会の周到さ、執念深さ、というものは、やはり震えあがるほど、おそるべきものである。
田中進二郎拝