[1830]社会に壊された人々へ③

松村享 投稿日:2015/11/06 11:38

 松村享です。今日は2015/11/06です。

 アメリカの日本研究者たちは「共同体communityは、こんな進化をするのだ」と、その研究心をムラムラさせたのである。

 未知の進化が、極東にあった。日本の『共同体community』とは、キリスト教の概念たる『社会society』と、対極をなす進化のかたちである。

 日本人は、『共同体community』を発達させた民族である。空気を読みあう日本共同体の中で、もっとも強迫的な観念は、『恥』だという研究結果が、アメリカでなされた。

 「恥を知れ」と、日本人はよくいう。「恥ずべき行為だ」ともいう。もっとも、これらの言葉は、現代日本において、あまり力をふるわなくなっているようにも私は感じているが。共同体が希少種となった現代日本においては。

 「ヨーロッパ人の『罪』にたいして、日本人は『恥』が、その行動に決定的な影響を与えている」として著名な本がルース・ベネディクト(1887~1948)の『菊と刀』だ。日本国内でも、かなり有名な作品である。ただし、『菊と刀』は、ルース・ベネディクトが、一般用に書き改めた、いわば商業用の作品であり、国家戦略用のレポートとはいえない。

 『菊と刀』には、国家戦略版のレポートがあるのだ。それはナンバー25と付された報告書であり『Japanese Behavior Pattens』と名づけられたものである。『Japanese Behavior Pattens』は1997年になって、ようやく日本でも出版された。『日本人の行動パターン』(ルース・ベネディクト著 福井七子訳 日本放送出版協会 1997年)である。

 『日本人の行動パターン』訳者の福田七子氏は、さらに貴重な翻訳を行っているので、そちらもあわせて紹介する。それはルース・ベネディクトに先立つ、イギリスの文化人類学者・ジェフリー・ゴーラー(1905~1985)の『日本人の性格構造とプロパガンダ』(ジェフリー・ゴーラー著 福井七子訳 ミネルヴァ書房 2011年)である。

 こちらの日本における出版は、なんと2011年だ。つい最近である。21世紀に入って、やっとアメリカからのゴーサインの出た著書である。70年前には、日本人には知りようもなかった著書だ。

 ゴーラーの『日本人の性格構造とプロパガンダ』が重要なのは、『菊と刀』のベネディクトら日本対策班に多大な影響を与え、なおかつ『恥』こそ日本共同体の核であると、ベネディクトに先立って見抜いていた点である。『恥』は、日本共同体の中では、もはや強迫観念であるとゴーラーは指摘している。

 『恥』こそが、日本人の信じがたい行動の源なのだ。一流企業に就職できないから、と自殺するような現代日本人には、このことが実感としてわかるのではないか。

(引用はじめ)

『日本人の性格構造とプロパガンダ』(ジェフリー・ゴーラー著 福井七子訳 ミネルヴァ書房 2011年)p45~p46

あざけりの不安や恥ずかしさのとてもいやな感情は、「恥ずかしい」と呼ばれている。
そしてこのあざけりに対する不安は、日本人のふるまいにおける主要な動機づけとなる。

社会学上、あざけりによって行動が規制されるという重要性は完全に確立されているが、
肉体的苦痛よりも恐ろしいものになるという心理的メカニズムは解明されていない。

(引用終わり)

 松村享です。

 上記の引用文には、動物を観察、分析している響きがある。文化人類学者として、素晴らしい文章だ。これがサイエンティストscientistの文章である。そして、動物としてあつかわれているのは日本人である。ここで「この野郎!」と、いきりたつべきではない。自分を動物と思えない、思いたくないところに人間の悲劇がある。自分に肩入れせず、動物だと思って対処していれば、うつ病にはならない。

 だから、日本人という動物の共同体には『恥』が巣くっていて、『恥』こそ共同体を育成する核なのだという事実が、ここに提示された。文化人類学やら心理学やら政治学やらを動員して、至った結論である。社会科学social scienceの成果として、「日本共同体の核は『恥』」だと決定した。

 我々は、カテゴリーに収められることを嫌がってはならない。「日本人をなめるな」と主張したところで、学問の裏打ちのない言説は、犬が吠えているのと変わらない。

 ゴーラーの言説の影響力は、はかりしれない。『日本人の性格構造とプロパガンダ』に書かれた分析と占領政策は、ほとんどそのまま戦後日本に適応されている。ゴーラーが『日本人の性格構造とプロパガンダ』を書いたのは、1941年から1942年にかけてである。終戦は3年も4年も後だ。私は、驚愕しながらこちらの著書を読んだのである。

 「天皇を愚弄すべきではない」、「代わりに軍人のリーダーたちを見下げ果てた愚か者としてあつかうことで、これら何人かのリーダーたちを儀式的に自殺させることも可能かもしれない」ーーなどなど、その後の日本がたどった歴史を、すでに、この著作は書き記している。「これは日本、勝てるわけがない」というのが、率直な私の感想だ。

 ゴーラーは『日本人の性格構造とプロパガンダ』(ジェフリー・ゴーラー著 福井七子訳 ミネルヴァ書房 2011年)で、戦時中に敵国にむけるプロパガンダの目的を語っている。p69の説明によるとその目的は

①軍事的な混乱を生みだすこと
②軍のあいだで戦闘心を失わせ、市民のあいだで戦闘を支持する気持ちを少なくさせること
③国内的な分裂を起こすこと
④対戦国と軍事的に同盟関係にある国とのあいだに分裂を起こすこと
⑤戦勝後、大方の住民たちとの関係に従順さと協調性が得られること

である。

 私が注目するのは「③国内的な分裂を起こすこと」の分析だ。ここでゴーラーは、日本国内の不満分子として、世間から捨てられたエタ(穢多非人のエタだ)、リベラル知識人、小作農民、の3つをあげている。

 ゴーラーの視野にリベラル知識人が入っている。1945年の日本の敗北後、日本のリベラル知識人は、科学万能主義者のニューディーラーとともに、社会の前面に現れた。

 彼らは、自分たちの理想とする『社会society』をつくりたかった。日本的な古い共同体を憎むリベラル知識人たちは、新しい社会を夢見ていた。

 しかしそれは、大きくいえば「③国内的な分裂を起こすこと」でしかなかったのだ。理想を利用されたかたちだ。こうして見ると、理想的なリベラル知識人よりも、人間を動物として分析する文化人類学者の方が格が上であることがわかる。

 ハーバード・ノーマン(1909~1957)という人物がいる。彼は、戦後日本の統治に辣腕をふるった人物であり、科学万能主義者であるニューディーラーの教祖のような存在である。ノーマンは、マッカーサーの右腕だった。

 ノーマンは、日本で生まれた。長野の軽井沢が出生地である。なんで軽井沢かといえば、キリスト教圏のエリートたちの、日本における本拠地が、軽井沢のような避暑地だったからである。

 このことは、SNSI研究員・石井利明氏が、『【避暑地と権力者】日本の縮図、避暑地・軽井沢』(ウェブサイト『副島隆彦の学問道場・今日のぼやき会員ページ』)という論考で述べている。石井氏によれば、ニューディーラーであるノーマンの父親の名は、ダニエル・ノーマン、1898年、軽井沢にてユニオン・チャーチの布教を開始した。

 かなりイケイケの宣教師だったようである。いまもノーマン通りというのが、軽井沢にあるらしい。この宣教師のおぼっちゃまが、ニューディーラーの教祖・ハーバード・ノーマンである。
 
 『さらば吉田茂 虚構なき戦後政治史』(片岡徹哉著 文藝春秋 1992年)p43~p44によると、ハーバード・ノーマンの理論は、ニューディーラーの戦後日本統治に、イデオロギー的正当性をあたえた。

 つまり、キリスト教圏に特有の、めくるめくような美しさを信者たちに与えた、ということだ。日本生まれのノーマンは、日本共産党・講座派の理論をもちいて戦後統治にあたったのだという。

 講座派の理論は、『二段階革命論』に集約される。つまり、日本における『社会societyの構築』は、二度の革命を経て達成される、という理論だ。フランス革命を二度に分けて実施する、ということである。片岡徹哉氏の説明を、そのまま引用しよう。

(引用はじめ)

『さらば吉田茂 虚構なき戦後政治史』(片岡徹哉著 文藝春秋 1992年)

二段階革命というのは、最初にブルジョワ民主主義革命をやって、
その次に共産革命をやるということである。

ブルジョワ民主主義革命の典型はフランス革命である。
スターリンと講座派によると、日本の明治維新はフランス革命にまで到達しなかった。

本物のブルジョワ民主主義革命にならないで、多くの「封建的残滓」が残された。
天皇制と華族制度は、その残滓のさいたるものだという。

だから本当のブルジョワ民主主義革命を実行して、
この残滓を取り除いてから、
初めて日本は社会主義革命に進むことができるというのである。

ノーマンは、徹底的なブルジョワ民主主義革命、
つまり、フランス革命を売りにしていたので、ニューディーラーにうけたのである。

もっとはっきりいえば、
ルイ十四世(※引用者より。ここはルイ十六世のまちがい)のように
天皇をギロチンにかける政策に、学術的な理論体系を提供したから、うけたのである。

(引用終わり)

 松村享です。

 フランス革命の、日本における再現こそ、ノーマンを筆頭にしたニューディーラーの切なる願望だった。なににも代えがたい、美しい理想だったのだ。『自由・平等・友愛』のもとに、天皇をギロチンにかけたかったのである。

 だが結局、天皇がギロチンにかけられることはなかった。マッカーサーは、実行部隊たるニューディーラーよりは格上の、ルース・ベネディクトやジェフリー・ゴーラーの提案を受け入れた。

 理想に燃える人間は強い。実行部隊の行動力としては、これ以上ない情熱をニューディーラーはもっている。が、裏返していえば、すべてを瓦解させるイデオロギーの過激さをも、もちあわせているということだ。イデオロギーの過激さをここでは排し、冷徹な分析結果として、天皇の処刑は、執行されなかった。執行する必要がなかったからだ。

 戦後日本統治の目的は、「地域共同体を破壊すること」である。日本人の凶暴さは、地域共同体を破壊すれば封印できる、とジェフリー・ゴーラーとルース・ベネディクトが、喝破したのだ。

 だから、わざわざ天皇を殺して日本人の反感を買う必要はなかったのである。見事な統治だ。完璧な合理ratioである。『戦後日本はアメリカ社会科学の最高傑作』なのだ。(続)

松村享拝