[1806]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/08/11 11:25

  大伴氏の立場

 天武天皇の「壬申の乱」での勝利の第一の要因は、近江朝・大友皇子(明治に追号された弘文天皇)が、美濃・尾張国で二万の民衆を徴兵していたこと。その徴兵されていた二万の民衆を、何の抵抗を受けることなく手に入れたことである。
 第二の要因は、大和古京で名門大豪族の大伴氏が一族を結束して天武天皇(大海人皇子)に付いたことです。
 西暦672年六月二十四日、大海人皇子一行、吉野を脱出して東国(尾張・美濃国)を目指す。
 六月二十五日早朝、伊賀国にて高市皇子(天武天皇の長男)合流する。
   二十六日、不破(現在の関ヶ原)を塞ぐことに成功したとの報告を受ける。高市皇子を不破に派遣し、軍事を見させる。
 近江朝、この時にやっと大海人皇子等が東国に入ったことを知る。
   二十七日、近江朝の徴収していた二万の兵を手に入れる。
   二十九日、大伴氏、大和古京で蜂起、武器庫を襲う。大伴安麿等を不破に派遣し、大伴氏の蜂起の成功を、高市皇子に報告。

 七月二日、不破より近江大津京を目指して全軍出撃、高市皇子総指揮をとる。

 守谷です。天武の勝利に、大伴氏は大きく関与していました。大伴氏と天智天皇の間に対立があったようです。名門大伴氏は、天智の王朝に人材を送っていなかったようです。大伴氏と天智天皇の対立は、孝徳天皇(在位645~654)の朝廷で、大伴長徳が右大臣に就いている。孝徳天皇と皇太子・中大兄皇子(天智天皇)の間に対立が生じ、中大兄皇子が実権を奪い、孝徳天皇を難波宮に残し、皇后らを引き連れて明日香に帰ってしまい、孝徳天皇は難波宮で孤立して憤死する事件があった。
 大伴氏は、最後まで孝徳天皇を支持していたのではなかったか。また孝徳天皇と中大兄皇子の対立は、時期的に見て朝鮮半島情勢と無関係であったはずがない。おそらく、孝徳天皇は、倭国(筑紫王朝)に協力し新羅討伐軍の派遣に積極的だったのではないか。
 西暦六五〇年には、倭国は新羅討伐を決意していたのである。それが六六一年まで派兵開始できなかったのは、近畿大和王朝の協力を得るのに手間取っていたからである。
 大伴氏は、氏の総意として大海皇子に味方した。これが天武勝利の大きな要因であった。このことがその後の大伴氏の運命を決定付けている。
 また大伴氏は、『万葉集』との関係で重要である。『万葉集』は、ほとんど大伴氏の「私家歌集」と言って良い性格を持っている。大和古京出の大伴氏の蜂起の成功を、不破の高市皇子に報じた大伴安麿の子供が、大宰府で多くの優れた歌を残した大伴旅人、また女流歌人として最も多くの歌を残した大伴坂上郎女であり、『万葉集』の最終編者と云われる大伴家持は、旅人の嫡男、安麿の孫である。
  以下次回につづく。