[1738]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/01/05 20:41

  『日本書紀』の中の倭国

 『日本書紀』は、倭国の存在を隠しているわけではない。後世の日本人が天武の創り上げた「神の子孫である万世一系の皇統、日本に君臨したのは、大和王朝以外になかった」と言う大和王朝一元史観に酔ってしまい『日本書紀』の二重性を認識することが出来なくなったのだ。
 次に掲げる記事は、明らかに倭王朝の出来事である。

 天智三年(西暦664)二月九日、天皇、大皇弟に命(みことのり)して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部(かきべ)・家部(やかべ)等の事を宣(のたま)ふ。・・・・・・・
・・・・その大氏の氏上には大刀を賜ふ。小氏の氏上には小刀を賜ふ。その伴造(とものみやつこ)等には干楯(たて)・弓矢を賜ふ。亦其の民部・家部を定む。

 天智三年二月は、前年八月「白村江の戦」で壊滅的惨敗を喫した時から僅か半年後である。
 この記事は、古くから問題にされてきた。何故なら、大和王朝にはこの時、天皇は不在であったからである。斉明天皇が崩御されたのは、西暦661年七月、天智天皇の即位は668年正月である。この間、皇太子であった中大兄皇子が、皇太子のまま政治を見た称制と言われる時代である。
 故に、この記事は『日本書紀』の編者の勘違いで天智三年に書かれたとされてきた。「天智紀の重出記事」と言われている問題である。
 しかし、この記事が天智三年(664)に置かれているのは、本当に誤りなのだろうか。
 記事の内容は、冠位を大幅に増やし、民部・家部を認め、氏上に大刀、小刀、楯、弓矢を与えた、と言う事だ。
 民部、家部は、私有地、氏の私的な奴隷と言われている。つまり、この記事は、公地公民の律令中央集権体制の大幅な後退を示しているのだ。
 官位の大幅な増加も、戦死、殉死に対する二階級特進などと同じ考えから行った事ではないのか。
 倭国は、三万もの兵士を壊滅させたのである。奈良時代初期の日本列島の総人口は六百万人ぐらいと言われている。倭国の受けた打撃は、第二次世界大戦の敗北で蒙った打撃に匹敵するものがあったはずだ。
 倭王朝は、国民を繋ぎ止めることに必死であった。この記事は、そのことを伝えているのではないか。天智三年二月にあってこそ、この記事に臨場感があるのではないか。

 この年の五月十七日、唐の武将・劉仁願と官吏・郭務宋が軍勢を率いて筑紫に来た。当然、唐朝に歯向かった責任を問うためである。敗戦国処分である。
 帝国の流儀として、敗者である倭国王は、唐の京・長安に連行された。

 『冊府元亀』が記すには、唐の高宗は、麟徳三年(666)正月、泰山で封禅の儀を挙げることにした。麟徳二年十月、高宗は洛陽を出発する。この時従駕した諸蕃酋長の中に、東西アジア諸国王と共に倭国王の名もあるのである。

 奈良時代、平安時代初期の人々は、天智天皇と天武天皇が別の家系の人物であることを自覚していた。奈良時代末期、天武の血は、強制的に皇位から排除され、天武の血の混じらない天智天皇の後胤が擁立され平安時代は始まっている。