[1727]思想対立が起こした福島事故[第一章終わり]
みなさんこんにちは。相田です。
南部に続く朝永の弟子筋として、福田信之(ふくだのぶゆき)という物理学者を取り上げます。「ヘルツ(心臓)」という異名を持つ福田は、年配の物理関係者ならば知らない者がいない有名人物だったようですが、今では「そんな人のことは忘れてくれ」「そもそもいなかったことにしてくれ」と、思っている方々がほとんどだと思います。特に筑波大の関係者に多そうです。
私が福田について書くのは、キャラ的にユニークなだけではなく、原子力分野にも重要な影響を与えていると思えるからですが、それについては次回(後編)に回します。それにしても福田のような人物までもが、若かりし頃には武谷三男の弟子だったという事実は、武谷という人物のスケールの大きさを思わずにはいられません。
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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」
第1章 素粒子論グループの光と影
1.10 そしてユダ- 福田信之
南部の話は左翼思想とは関係がなく完全な脱線であるが、ここからは本題に戻る。湯川グループに武谷と坂田がいるように、朝永の弟子にも彼らに勝るとも劣らない逸材がいるのである。名前を福田信之(ふくだのぶゆき)という。朝永の弟子には福田博(ふくだひろし)というもう一人の東大出身の「福田」がいるが、問題の「福田」は北海道大学の出身の別人である。
福田信之は北大卒業後に戦前の理研に就職して、朝永の理論物理グループに所属することになった。当時の理研には関西から移ってきた武谷がいた。既に戦時体制に巻き込まれていた理研で福田は、武谷と二人で原爆の原料となるウラニウム235の熱拡散による分離方法に関する理論計算に取組んだという。この時期に武谷の薫陶を強く受けた福田は、若い頃はバリバリの共産党員として活動していたらしい。武谷の回想によると、武谷が特高警察による2度目の逮捕を受けた時に、福田は警察まで逮捕の理由に関する質問書を持って、留置場まで面会に来てくれたそうである。
戦後に朝永が理研から東京文理科大に教授として移る際には、福田を含む朝永の弟子たちも一緒に移籍した。朝永が「くりこみ論」の勉強会を行う際には、福田も参加してラムシフトの計算に協力したらしい。この文理大の朝永の勉強会には、南部陽一郎も参加していたことは前に説明した通りである。
東京文理科大学は旧制の東京師範学校の流れを組む伝統ある大学で、歴史学者の和歌森太郎(わかもりたろう)や、後の教科書裁判で有名となった家永三郎(いえながさぶろう)、東京都知事となる美濃部達吉(みのべたつきち)等の、実力も名声もある学者達を数多く揃えていた。そこに湯川と同格の朝永をリーダーとする理論物理グループが加わることで、理学部も看板学部として一躍名を馳せることになった。
戦後の大学改正により、東京文理科大学は東京教育大学と名を変えることとなり、1956~62年までの6年間は朝永自身が学長を務めた。学生との対話も大切にした朝永の学長時代は、東京教育大学の黄金期と言われている。しかしそのことが、後の大きな悲劇の引き金になることには誰も気づく者はいなかった。
東京教育大学は学部キャンパスが都内3ヶ所に分散しており、敷地も手狭であったため、かねてから全キャンパスを統合して郊外に移転する検討が進められていた。1962年頃に府中や八王子等の候補地が挙げられたものの、移転合意には至らなかった。それに先立つ1956年に政府は、東京の急激な人口増加に伴う過密状態の緩和策として、首都圏整備委員会を設置し、首都機能の一部を移転する検討を開始した。
本委員会の提言により1961年に「首都への人口の過度集中の防止に資するため、先ず機能上必ずしも東京都の既成市街地に置くことを要しない官庁(附属機関及び国立の学校を含む。)の集団移転について、速やかに具体的方策を検討するものとする。」とした閣議決定がなされ、都内の大学の郊外への移転に関する具体的な検討が始まった。
その後の1963年には、官庁移転の候補地の中から筑波山麓が最適であると閣議決定された。しかし当時の文部省には大学新設の意図はなく、都内の国立大学の移転しか選択肢は無いことから、筑波に移転する大学の最有力候補として東京教育大が挙げられることとなった。
一方で、1962年の朝永の任期満了に伴う教育大の学長選挙において、理学部出身で植物学専攻の三輪知雄(みわともお)が新学長に選出された。政府から東京教育大に提示された筑波への移転計画に関して、三輪新学長に代表される理学部教授会は施設・設備の老朽化から賛成したが、もう一つの看板学部の文学部教授会は、研究上の利便性が失われるとして移転に強く反対した。文系学部の先生方にとって、研究場所を文化の中心である東京の都会から田舎の山奥に移すとなると、猛反対することは至極当然ともいえる。
学内の意見が纏まらない状況で、三輪学長と理学部教授会グループは賛成、反対派の意見の妥協点を探ることなど一切せず、筑波へのキャンパス移転を強行したことから学内は紛糾した。混乱は学生達にも波及し、1967年頃から移転反対派の学生による抗議のストライキが頻発するようになった。学内の混乱から1969年の入試が中止され、責任を取る形で三輪学長が辞任した後に、学長代行として理学部物理学科の宮島龍興(みやじまたつおき)が就任した。
東大理学部出身の宮島は、理研で朝永の指導を受けた愛弟子の一人である。しかしその宮島は、就任直後の69年1月に学生へのキャンパスからの退去を命じ、2月にはキャンパス内に機動隊を導入してロックアウトを強行し、学生を強制的に排除した。「キャンパス奪還」を試みた学生達は、機動隊に逮捕されてその多くは退学処分にされたという。
1年余り続いたロックアウト体制の混乱した中で、大学側により筑波への移転が正式に決定され、1973年には筑波大学法案が国会で可決したことで筑波大学は開学した。以後は東京教育大の各学部の定員は徐々に減少し、1978年3月に東京教育大学は完全に消滅した。
このように、東京教育大の筑波へのキャンパス移転は理学部教授会を中心として強行されたが、移転推進派の中心人物として活動したのが福田信之であったという。
教育大の筑波移転問題に関しては、教育大OBの前沢研璽(まえさわけんじ)氏が管理人を務めるHP上で詳細に解説されており、上記は前沢氏の記載から多くを参照している。その中の「東京教育大学の筑波移転問題(管理人私見)」という論考から、福田に関する箇所を引用する。
―引用はじめ―
問題は、文学部が移転に慎重な態度をとったことに対して、理学部出身の三輪知雄学長を中心とする大学執行部がまったく相手側(文学部教授会側)の立場にたって物事を考えようとしなかったことである。問題発生の初期の段階において、学長が移転に慎重な文学部に対して、和歌森太郎文学部長を罵倒するというような態度をとったことは、はなはだ遺憾である。相手も子供ではなく、プライドの高い大学人なのだから、罵倒して言うことをきかせようなどということは、良識ある(はずの)大学人のすることではない。このようなことでは対立の溝はますます深まるばかりで、まとまる可能性のある話もまとまらなくなってしまう。
結局のところ、学長を中心とする大学執行部は、力ずくで移転を推進することしか考えようとせず、これでは何の妥協点も見出せるはずもなかった。何しろ、推進派の参謀役とされる福田信之教授の言うところによれば、紛争解決の3原則は、話し合いはしない、妥協はしない、遠慮なく機動隊を使うことだというのだから、恐れ入った話である。互譲の精神の欠片もない。
相手がこういう思想の持ち主では、文学部教授会を中心とする反対派や学生自治会がどんな運動をしたところで、まるで無意味でしかなかったということになる。実際に、移転をめぐる紛争の最終局面では長期間にわたりキャンパスに機動隊が常駐するという異常事態となったが、警察権力の力を借りて新大学を作って一体何が面白いというのだろうか。
反対派が弾圧されるのを楽しんでいたのかもしれないが、この間、全学闘の集計によれば累計で110余人の学生が逮捕され、また奨学金停止などの措置もあって総数は不明だが多くの学生が中途退学を余儀なくされて大学を去って行った。そのなかには、のちに漫画家として著名となる池田理代子(いけだりよこ)氏もいた。また、多くの学生が無期停学や退学などの処分を受けて大学を去った。推進派は闘争収拾に動いていた民青系の理学部自治会幹部まで退学処分にしたのだから、どうかしている。(学籍簿が筑波大学で管理されているため、当時の退学者がどの程度の人数に及ぶかは今日に至るも集計されていない。)
この世に正義があるならば、福田教授のような人物の方こそ、機動隊を私的に濫用し、多くの学生に損害を与えた罪により刑務所に行くべきであったろう。
―引用終わり―
相田です。福田が上記のような強行的な態度を取ったことには理由がある。福田は1960年代のとある時期に、統一教会および国際勝共連合の日本の初代会長である久保木修己(くぼきおさみ)という人物と懇意となり、あろうことか統一教会の熱烈な信者となっていたのである。反共の旗手と化した福田は、左翼活動の影響下にある移転反対派の学生達の主張を一切受け入れることなく、逆らう学生達を機動隊の力を使って全て退学処分とした。同じHP中の「東京教育大小史」という論考からも一部を引用する。
―引用はじめ―
移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之教授であると言われていたが、彼はある雑誌の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。
福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。
―引用終わり―
相田です。理研時代の福田は武谷と懇意にしており、熱心な共産主義者だったことは前述したとおりである。しかしどういった心境の変化からか、その思想を180度変えた福田は、一転して左翼活動家に牙をむくことになった。昔の言葉では「転向右翼」、もう少し新しい名称では「ネオコン」と呼ぶのがふさわしい人物である。福田のもう一つの特徴は、自らは先頭に立たずに他の人物を傀儡として持ち上げて、黒幕として陰から権力をふるうことである。
筑波移転活動の際に福田に持ち上げられたのが、理研時代からの同僚の宮島龍興である。宮島は物理学者として非常に優れた業績を上げた人物であるらしいが、大学学長としては影が薄く、機動隊導入等の決断が出来るような度胸など持ち合わせていなかったらしい。宮島の裏ですべてのシナリオを描いたのは福田であり、福田の「3原則」により教育大の筑波移転が実現したのである。
(以下続く)
相田英男 拝