[1715]『フィレンツェ・ルネサンスは、イスラームの覇者バイバルスから見なければならない(その3 これで最後)』

松村享 投稿日:2014/11/11 02:28

(副島隆彦が、以下の松村享くんの文に、整序と加筆をしました。 )

松村享(まつむらきょう)です。 今日は2014年11月11日です。

私は現在、ルネサンス関連の論文を書いています。
論文は『隠されたヨーロッパの血の歴史~ミケランジェロとメディチ家の裏側~』(2012年、副島隆彦著 、kkベストセラーズ刊)に触発されたものです。

 進行中の論文の中から一部を抜粋、加筆して、こちらに掲載しています。今回が3回目で、最後です。
前回は、1340年代からマムルーク朝(エジプトが中心の 軍人奴隷=マムルーク=が王になった王朝 )が急激に勢力が落下したところまでを記述しました。

 この事がなにを示すのか。いまのところ資料を探(さぐ)っても、パッとしない情報ばかりです。
ペスト病 をきっかけとして、マムルーク朝の力が下落した、と受け取れるような記述が多い。たしかにペストが席巻していたのは事実だが、よくよく調べると、ペストの蔓延以前に、マムルーク朝の属国都市であったと観察できるイタリアの商業都市 フィレンツェにおいて、バルディ商会、ペルッチ銀行、といった、当時の大銀行が倒産している。 (1345年バルディ商会、1347年ペルッチ銀行 の 倒産 )

 ペストがフィレンツェのトスカーナ地方に上陸したのは、1347年~1348年 だ。
それよりももう少し時間をさかのぼる必要がある。その10年前の1340年前後になにがあったのか。ある著作、それを私はちょっと図書館で拾い読みしただけだったので、著作名は失念した。それらの著作には、「フィレンツェの銀行の、イギリス国王への債権が焦げ付いた」 という記述があった。そのときは、私にはなんだかピンと来なかった。

『中世の産業革命 』( ジャン・ギャンペル著、 ・・年刊)には、ヨーロッパにおける銀不足、いわゆる通貨危機の発生がフィレンツェの二大銀行を一気に墜落させた、との記述がある。ただ、これでも私にはまだピンと来ない。 銀不足とは、なにを指すのか。銀不足とは、オスマン朝の勃興の事ではないか、と私ははっと考えた。

 オスマン朝(13世紀から始まる)は、トルコのアナトリアを出自とする。アナトリア地方は、今の首都アンカラを含むトルコの中心地帯であり、クルッカレやカッパドキアの遺跡がある。鉄器とともに興隆した古代のヒッタイト(ヒッティー)王国(紀元前1700年から1300年ごろ)の中心都市もあった。このアナトリア地方は古来、莫大な量の銀の産地だ。
『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』( p49~p50 永田雄三/羽田正著 中央公論社、初版・・・年)から引用する。

(引用開始)

 オスマン朝が基礎を固め、国家らしい体裁を整えるうえで大きな契機となったのは、1326年にビザンツの要都ブルサを獲得したことである。 (中略)
 
やがてここはオスマン朝の最初の首都として大きく発展し、アナトリアにおける一大商品集産地となった。(中略)

 オスマン朝はさらに、ニカエア(1331年)とニコメディア(現イズミド、イズミール、1337年)を征服した。オルハンはブルサ征服の直後にはじめて銀貨(引用者の割り込み加筆。このことが重要。)を鋳造し・・・

 (引用終わり)

松村亨です。このようにオスマン朝が銀貨を鋳造している。この銀貨は、アクチェ銀貨と呼ばれ、17世紀まで広く中東世界で基軸通貨(キー・カレンシー)として使われたという。このオスマン・トルコ帝国のアクチェ銀貨が、以後300年以上に渡って、使われ続けたという事だ。 このことが、私たちが注目すべき重要な事実だ。

 どんどん大きくなっていく帝国の、莫大な交易量を賄(まかな)うだけの銀を、オスマン朝は確保していた事にななる。しかもおそらく、その初期から。 同じ通貨が300年以上も使われたという事実は、普通の国家の歴史では見られない。最初から綿密に設計されて作られた強力な通貨だったのだろう。ウルトラ級の優良貨幣だ。

 中央銀行もなしに、14世紀から17世紀まで300年も使用できた、交易の決済手段となった良質な銀貨が、中東と地中海世界に当時すでにあったという事実を、我々は記憶にとどめる必要がある。

 なので、帝国であったマムルーク朝とその属国のイタリアの大商業都市が、1340年前後に、恐慌に陥った原因は、オスマン朝の勃興にある。私はこのように言いきる。

 オスマン朝によって通貨の発行権が独占され、それ以外の国々は、それに従うしかなくなり、自国の独自の通貨の発行権が弱体化してしまった。 それが、オスマン家によって1299年から除々に築かれたトルコの国家は、帝国になっていった。だから時代が下って、17世紀からは、ヴェネツィアの「ドゥカート(ダッカート)金貨」が、ヨーロッパの基軸通貨になっていった。黄金の国ジパングは、いまだ発見されていない。通貨の発行権とその信用を守るためには、なみなみならぬ努力を要した事だろう。

 1300年代の中期・後期は、恐慌の時代だ。ヨーロッパでは、教会大分裂(シスマ)、イギリスとフランスの百年戦争、フィレンツェの八聖人戦争と、それに連なるチオンピ(職人階級の下層民)の乱、などなど、なにひとついい事ありません。それでも、中東世界につながる東方ルートだけが長く持続した。

 南方ルートの終焉、つまりマムルーク朝(エジプト)とイタリアの、帝国ー属国関係の終焉は、ずば抜けて優勝なルネサンス人であり、フイレンツエ最大の銀行家となった コジモ・デ・メディチ(”老コジモ”、1389~1464 )の時代に入る。

 フィレンツエの最大の実力者になった老コジモ(コジモ・イル・ベッキオ)は、「ヴェネツィアは侵略者である」などと、当時、伝統的に同盟を組んでいた ヴェネツィアを敵にまわす発言をしている。それで同じフィレンツェの商人仲間たちと民衆から猛烈にブーイングを食らっている。『メディチ家ーその勃興と没落』( p98~p99 クリストファー・ヒッバード著) にその記述がある。

 まさしく当時のヴェネツィアこそは、マムルーク朝(1250-1517年)とほとんど表裏一体と化している国家だった。

 だが、当時、ビザンチン帝国(=東ローマ帝国、 帝都コンスタンチノープル)の隆盛が始まっており、ヴェネツィアはビザンチン に取り入り、ビザンチンの地中海の支配領域で上手に立ちまわって貿易利益を独占し始めた。

 だからフィレンツェの覇者コジモ・デ・メディチの 14〇〇年の発言は、世界覇権国が、マムルーク朝(エジプト)からオスマン朝(トルコ)へと移り変わる時代の、過渡期の情勢の正確な認識から発せられたものだといえる。
つまりルネサンス運動とは、帝国の属国であったイタリアの商業都市での、過渡期の現象だったのだ。

 1347年、恐慌によって潰れたフィレンツェのペルッチ銀行(名門家族ベルッチ家が経営)は、その100年後のメディチ銀行(その後の名門一族、メディチ家が経営)よりもずっと大きな銀行だった。フィレンツェは結局、100年前の、当時ヨーロッパ最大の金融の実力を回復できなかった。 (前掲、『中世の産業革命』ジャン・ギャンペル著p252 、 岩波書店 刊 から)

 マムルーク朝の絶頂が、そのままフィレンツェの絶頂だったのだ。だからその100年後に爆発したルネサンス運動は、経済成長の終わった国家の現象だったのだ。ルネサンスとは、1436年から1531年にフィッレンツェを中心に起きた、ミケランジェロを14歳の時から育てた”偉大なるロレンツオ”、ロレンツォ・デ・メディチの時代とその死後30数年である。自由都市フレンツェの陥落まで。 

 そんな時代に、ローマ・カトリック教会への、とくにその「原罪(げんざい)」のドグマ(教義)への激しい反逆を始めた、コジモ・デ・メディチの アッカデミア・プラトニカ(プラトン学院運動。新プラトン主義の称揚 )に重大な意味がある。

( ここで、副島隆彦が割り込みで書き込みます。 ルネサンス=新プラトン主義の運動とは、その中心思想は、「人間は、皆、罪人(つみbと、ざいにん)である、罪を背負ってこの世に生まれた。だからカトリック教会の僧侶たちにひたすら膝まづき、生きている限り屈従せよ。死後もずっと永遠に屈服せよ 」という残虐な洗脳思想との闘いだ。私たち人間は、何も罪など背負っていない。罪人ではない。罪人として生まれたわけではない。

 カトリック教会が今も人類に押し付けているこの奴隷化の思想に気付いて、だからこそ、激しいカトリック批判の根源的な思想闘争を始めたのが、人類史上の偉大なる思想家 フリードリヒ・ニーチェ(1900年死去)である。 その前に、ゲーテがいる。その前に、同じことに気付いた、偉大なるモーツアルトがいる。そして、その前に、
ルネサンス時代に、この大きな真実を少年時代に、偉大なるロレンツオたちルネサンス( Renaissance,
イタリア語なら リナシメント ) の戦闘的な先鋭な知識人たちから教えられて、88歳の生涯を芸術家として、闘い続けた偉大なるミケランジェロ である。

  私、副島隆彦は前掲自著を、フィレンツェの都市を調べて回って、書いて、この巨大な真実に、60歳になってようやく気付いた。日本人として初めて、ようやく到達した。その先人、先駆者は、羽仁五郎(はにごろう)であった。 他のヨーロッパ文化史の専門家の日本人学者、文芸家たちの多くは、密かにカトリック信者であるか、バチカン=ローマン・カトリックに育てられた走狗(そうく)、手先( paw, ポー)たちである。
このことに、私、副島隆彦は気付いた。 副島隆彦注記終わり) 

松村亨です。だから、このポイントこそは、私が書いている論文『日本人とルネサンス人』の出発点だ。

 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峡(きぼうほう)ルートの航海成功が、後のヨーロッパ覇権の原点となったた。このことは日本の中学校の社会科(歴史)の教科書でも書いている。陸の時代から、海の時代への「大航海(ザ・グレイト・ナビゲイション)の時代」の到来だ。 この時、それまでの古代の ユーラシア・ネットワークをひっくり返した。

 その11年後の 1509年には、ポルトガルは、マムルーク朝と戦争し、勝利した。
1517年、オスマン朝は、マムルーク朝を滅ぼした。

 イスラームの覇者、マムルーク朝の創設者、バイバルスは、遠い過去の人間になった。と同時に、アッバース朝(正統のイスラームの帝国。1258年、モンゴルによってバグダッド陥落で滅亡 )以来の、イスラームが営々とつくりあげたユーラシア・ネットワークは、完全に過去のものとなった。

 これがネットワークの地殻変動だった。このネットワークの、再度の地殻変動が、500年の時を越えて現代21世紀前期、ついに起こったようです。

こうなってきますと、来たる 11/16(日)学問道場定例会の主題である 『2015年、世界は平和か、戦争かの帰路に立っている』とも結びついてきます。

ネットワークの地殻変動、という視点から、定例会にご出席なさってもいいと思います。

あ、そうだ。それと、定例会の会場である、上野の東京国立博物館『平成館』のすぐそばに、東京都美術館があって、そこに今なんと『ウフィツィ美術館』が、やってきているそうです。

ウフィツィ美術館は、ルネサンス期の美術を展示します。悲壮の芸術家・ボッティチェリの作品を生で見れるチャンスです。

皆さん、定例会は13:00 からで、ウフィツィ美術館は、どうやら午前の9:30から開場しているそうなので、
午前はルネサンス、昼から世界動向、というフルコースを体験できますよ。私もスタッフとして、会場でうろちょろしております。 それでは。 (終)

松村享 拝

   参考文献

○ 板垣雄三監修『世界に広がるイスラーム(イブン・バットゥータの世界)』 悠思社
○ 岡田英弘著『世界史の誕生』筑摩書房
○ クリストファー・ヒッバード著『メディチ家ーその勃興と没落』 リブロポート
○ 小室直樹著『日本人のためのイスラム原論』集英社インターナショナル
○ 佐藤次高著『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』 中央公論社
○ ジャネット・L・アブー・ルゴド著『ヨーロッパ覇権以前ーもうひとつの世界システム』 岩波書店
○ ジャン・ギャンペル著『中世の産業革命』岩波書店
○ ジョナサン・ウィリアムズ著『図説・お金の歴史全書』 東洋書林
○ 副島隆彦著『あと5年で中国が世界を制覇する』 ビジネス社
○ 永田雄三/羽田正著『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』 中央公論社
○ パラグ・カンナ著『3つの帝国の時代ーアメリカ・EU・中国のどこが世界を制覇するか』講談社
○ 前嶋信次『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』講談社学術文庫
○ マキャヴェリ著『フィレンツェ史』 岩波文庫
○ 宮崎正勝著『イスラム・ネットワーク』 講談社選書メチエ18
○ 宮崎正勝著『世界史の誕生とイスラーム』 原書房
○ 牟田口義郎著『中東の歴史 オリエント五000年の光芒』 中公新書
○ ウェブサイト『副島隆彦の論文教室』
 鳥生守著
 125・126『論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の『無法と実力』の文明である⑤⑥』