[1650]旧日本軍による戦場慰安婦(せんじょういあんふ)の 強制連行を含めた 諸事実について
副島隆彦です。 今日は、2014年9月1日です。
下 ↓ の 「1648」番の 私たちの会員である田中三郎氏の 投稿文に反論します。
第二次大戦(1941年から1945年の 3年半の間 )の間の 中国戦線 や南方戦線で、どれぐらいの 慰安婦が、徴用されて、戦線の兵士たちのための 性欲処理の 犠牲にされたか、の問題は、徹底的に 事実の検証 が、これからも行われなければいけない。
戦場に 連れて行かれて日本兵士、軍人の 性行為の相手をさせられた女性の総数は、 8万人から 20万人であるようだ。
私たち学問道場としての、会員が、皆で、文献、証拠を、ここに持ち寄って、徹底的に事実の検証を行わなければならない。傍観者でばかりいないで、多くの会員が、証拠の文献をここに 書き写して 公表してください。
私、副島隆彦は、まず手始めに、以下に載せるが 、女性たちの強制連行を含めた、証拠の文献として、『従軍慰安婦』 吉見義明(よしみよしあき)著 岩波新書 1995年刊 から 8か所を、引用、転載する。
私、副島隆彦が、自説をいくら説いても、どうせ 田中三郎氏を、すぐに説得することはできない。 人間が、他の人を、ある考えや、事件で、考えの相違を克服して、同じ考えに至る、ということは至難の業だ。 だから、事実に語らせるしかない。
私は、説得(パースウエイジョン、 persuasion )することさえ、今は、控える。ただひたすら、諸事実を書いて、読み手たちに、歴史の事実(ファクツ facts ) を書き写して 読んでもらうことにした。
この 吉見義明(よしみよしあき)中央大学教授の 本の 他に、秦郁彦(はたいくひこ)千葉大学教授(現在、歴史家)の 本を、 このあと、須藤よしなお君が、ここに 、その中から、数か所、転載するはずである。
下の 田中三郎氏が、鬼の首を取ったように、書き写して転載している、小室直樹(こむろなおき)先生の、文章 の 中にも出てくる、 秦郁彦 (はたいくひこ) 氏の「慰安婦「身の上話」を徹底検証する」(「諸君!」平成八年十月号) なども、もっと正確に 全文を、田中三郎氏は、読んで、そして、ここに書き写さなければいけない。
私の先生だった 小室直樹は、右翼であった。敗戦時に 会津中学の中学生だ。長じて、フルブライトで大繁栄の アメリカに留学して、経済学や社会学を修めて帰ってきた。 その前には、日本も原爆を作って、もう一度アメリカと戦争して、今度は勝たなければいけない、という まっとうな 右翼の、本物の愛国者の思想を持っていた。
今の、日本の右翼たちは、背骨の曲がった、卑屈な、アメリカへの屈服右翼である。そういうの、ばっかりである。私、副島隆彦は、吐き気がする。 欧米白人どもの への 悪口は一切言わない。 おかしな右翼どもだ 。本当の、 アジア人の団結と平和と、欧米列強からの解放を 説いた、 大(おお)アジア主義の右翼が、ほとんど、いなくなった。皆、アメリカに、上手に洗脳されているのだ。 いかにも知恵のたちない、アメリカの手先どもだ。 田中さん、このことを分かりなさい。
あなたが転載した、小室先生の 以下の文は、 ごく局所での、済州島(さいしゅうとう、チェジュド)での、「200人の 韓国人女性を、強制連行に関わった、と証言した、吉田清治(よしだせいじ) という元、軍属(ぐんぞく)の証言は、ウソ、虚偽、でっちあげであった」という たったひとつの事実を挙げて、それで、 朝鮮半島での、日本軍=日本政府 が、関わった 戦場に送り込む 慰安婦たちへの、 強制連行は、一切、なかった、と 強弁(きょうべん)しようとする、 ズルい、ゆがんだ、精神から発している。産経新聞、WILL誌一派の、きたならしい精神をした、者たちの、謀略行動だ。 田中さん、あなたも、その仲間なのか、と、私、副島隆彦は、はっきりと 詰問(きつもん)します。
この 8月5日に、朝日新聞が、右翼たちの猛攻を受けて、この 「済州島の慰安婦調査の件での、吉田証言の虚偽」のことで、「読者に答える」で、誤報の謝罪文を 公表したようである。 この件も、詳報しなければいけない。
以下の分で、小室直樹は、「・・・秦(はた)教授は、念には念を入れ、裏には裏を取って、「日本の官憲による強制連行はなかった」という決定的結論に達した。」 と、書いている。これは、小室直樹の、誤り、間違い、思想の間違いである。 彼の思想は、この場面では、徹底的に批判され、撃滅されなければならない。 私、副島隆彦は、このようにはっきりと書きます。
秦郁彦(はたいくひこ)氏 ( 追加で、副島隆彦が書きます。 2014年9月3日。彼は、アメリカの国務省の 慰安婦問題、および 南京大虐殺問題の 担当高官ともつながり合意している人だ。 南京大逆説 では、4万人の中国兵捕虜を殺した説だ。私もこの説を支持している。だから、日本国内の バカ右翼、反中国保守派から、秦郁彦は、評判が悪い。歴史の真実しか書こうとしないものだから、獅子身中の虫のように扱われている) の 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年刊) も重要な 証拠の本だ。
この、吉見義彦の『従軍慰安婦』(1995年刊)の 本を 右翼たちが叩(たた)くことから、1996年から、慰安婦問題は、始まった。テレビの深夜討論会などで、大騒ぎで騒がれることになった。あれから、18年だ。
問題の発端の、初源(しょげん)となった、この本の ところにまで、私たちは立ち戻らなければならない。そして、この本の内容が、全く、今も崩れていない( =真実である)ということの確認もしなければいけない。
ということは、この本を激しく攻撃した者たちの、この18年間の 文献証拠を 明確に列挙しながら、その虚偽と、謀略の言論を、 徹底的に 叩きのめさなければいけない。
私、副島隆彦は、他の、あれこれの「慰安婦」についての綿密な調査報告書の本で、どれぐらい、たくさんの 慰安婦の実態を書いているか、これから、どんどんここに 書き写して行きます。 待っていなさい。
田中三郎氏へ。 この9月25日に、私たちは、東京都内のミーティングルームで、 この 「第二次大戦中の 日本軍が 管理し設営した、戦場の 慰安婦 の問題」を討論します。 それは、会員ページに 「ケンカ道場」の 録音として、音声で配信します。 これに参加したい会員は、会員ページでもうすぐ募集しますから、遠慮しないで、参加してください。
その際には、以下の、『従軍慰安婦』 吉見義明(よしみよしあき)著 岩波新書 1995年刊 と、秦郁彦 (はたいくひこ)の 前掲本 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年刊)を テキストにします。 吉見義明の『従軍慰安婦』だけは、なんとか読んできてください。 募集案内を待っていてください。
田中三郎氏も、かならず、最低、この2冊は、読んで、それから、その内容を、引用しながら、再反論をしなさい。
私、副島隆彦は、 この吉見義明の すばらしい、世界基準の本である、『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)まで、問題を、すべて、さかのぼらせて、文藝春秋 の 仙頭寿顕(せんとう としあき)、という 薄汚い、編集者 ( つぶれた時の『諸君』誌の編集長。あまりに 偏向した記事を扇動的に書かせ、中国ビジネスをする大企業の団体である経団連まで攻撃したので、日本の財界人たちが怒って、廃刊にさせた 。仙頭は、責任を取らされて社内で冷や飯を食っている。 )たちや、産経新聞右翼たちが、 「日本は、中国で、何も悪いことはしてない」とか、 「南京虐殺(なんきんぎゃくさつ)は無かった」と、今も、吠(ほ)えている。この愚劣な人間たちとの 闘いを、私は公然と、始める。 徹底的にやる。 事実と証拠をすべて開示しながら、すべて、名指しでやる。
以下が歴史の大きな真実である。
(転載は付け始め)
吉見義明 (よしみよしあき) 著 『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年
刊 )
P110~P112
Ⅲ.女性たちはどのように徴集されたか
大陸で徴集された三名と、朝鮮で徴集された一名(朝鮮人)をのぞく四四名の徴集のされ方をみると、だまされた者は二二名で、半数に達している。
そのほとんどは、「〔軍事関係の〕食堂或は酒屋で料理を運び、雑事またはお酒の付きいだけで体は売らない」と周旋人(しゅうせんにん)から聞い て、応じている。看護婦になるとだまされた人や、洗濯・炊事などの仕事とだまされた人もいた。
つぎに多いのは、強制的に集められたケースで、一〇名いる。五名は役場から割り当てられたという。三名は、看護婦の名義で強制的に行かされた が、強制したのは、周旋人と叔父だったり、周旋人や病院の看護士長だったりした。養父と周旋人が強制したケースもあった。これとは別に、看護婦と して戦地に行き、しばらく看護婦をしていたが、途中でむりやり慰安婦にされたという人が二名いた。
慰安婦であることを承知で応じた者は三名、だまされてブローカーによって売られた者が三名であった。残る六名はどのように徴集されたか不明であ るという。
四四名の慰安婦のうち、九名が一〇〇円から五〇〇円の前借金をもらっている。これを身売りと解すれば、人身売買は一〇名となる。うち三名は、現地に着いたとき、性的奉仕をさせられることを知って、拒否しようと思ったが、前借金を返せないのであきらめるほかなかったという。
契約を結んでい るのは四名で、その期間は一年・一年半・一年八カ月であった。一年八カ月の契約であった女性は、期間が満了したとき代わりの台湾人が来たので帰国 できたが、他の二人は満了しても帰国できなかったという。
以上のうち、看護婦の仕事だとだまされて応募したある女性は、東京に来てつぎのように証言している(前掲『世界に問われる日本の戦後処理』第一 巻)。彼女は、公学校(日本の小学校に相当するが、義務教育ではない)を卒業した後、台湾の病院で看護婦として四年間働いていた。四三年、日本人 が南方で働く看護婦を募集しているという話を友人が聞いて来た。
ここで働いていても将来性があるわけではなかったので応募し、一〇人以上の女性た ちといっしょに、チモール島に送られた。彼女は、看護婦の仕事だと思っていたのに、まず性病検査をされ、ついで、将校から強姦され、軍慰安所に入 れられたという。彼女は当時一七歳だった。
5.東南アジアの場合
P121
● 軍による徴集
近衛師団通信隊の将校総山孝雄(ふさやまたかお)(戦後、日本学士院会員)の回想によれば、二月二七日に軍慰安所が開設されている。
『昭南日 報』の広告はあるいはこれと関わるのであろうか。ともあれ、第二五軍司令部の後方担当が慰安婦を募集すると、それまでイギリス軍を相手にしていた 女性が続々応募したという(総山『南海のあけぼの』)。シンガポールでは、占領直後、慰安婦が公然と募集され、最初は売春婦など生活に困った女性 たちが応募したのだった。
しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五 人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず「女性の手足を寝台にしばりつけ」でつづけさせたと いうことを兵士から聞いている(同上)。このような強制もあったのである。
P124~P125
● フィリピンでの暴力的連行
フィリピンでは、多くの元慰安婦が名乗り出ているが、その証言により浮かびあがるのは、軍による暴力的な連行が非常に多かったことである。「訴状」によれば、四六名の被害者のほとんどが軍により暴力的に連行されており、年齢は最低一〇歳、最高三〇歳で、未成年者(一〇代)は三三名だっ た。筆者がヒアリングをおこなうことができた典型的なケースをみると、つぎのようだった(「訴状」とヒアリングによる)。
マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンは、父がルソン島アンへレスの大地主、母がそのメイドであった。日本軍侵入後の一九四二年、疎開していた村で、薪を集めていたとき、日本兵に強姦された。当時一四歳だった。翌年、アンヘレス市で、抗日ゲリラのメンバーといっしょに、水牛のひく荷車に乗って日 本軍の検問所を通過しようとして呼びとめられ、彼女だけが連行された。
日本軍が宿舎にしていた病院に監禁され、つぎに精米所であった建物に移され て、日本兵の相手をさせられたという。週一回程度、性病検査があったというから、やはり軍慰安所のひとつと考えていいだろう。
ロシータ・バカルド・ナシーノは、パナイ島イロイロ州で生まれたが、日本軍占領中の四二年に母が死亡し、翌年父が餓死した。彼女はイロイロ州の キャンディー工場で働いていたが、四四年に工員をやめて祖母のいるエスタンシアに帰る途中、祖母の家の近くで日本兵に拉致された。家から二〇分く らいのところに日本軍の兵営があった。
彼女は、エスタンシアの旧製氷工場に連れていかれ、将校と下士官・兵につぎつぎに強姦されたという。彼女は この工場に約一カ月監禁されていたが、中には約一五名の女性がいたようである。
このように、日本軍に対するゲリラ活動が活発であり、日本軍が住民を敵視していたフィリピンでは、とくに軍による暴力的な女性の連行が多かった のである。
● インドネシアでの暴力的連行
・・・・・
P134~P135
Ⅳ 慰安婦たちが強いられた生活
● 部屋の模様
前線に近い軍慰安所はこれとはまったく異なっていた。長沙(ちょうさ)郊外にある慰安所では部屋は三畳で、半畳の土間の奥に布団が敷きっぱなし になっていたという(細川忠矩(ほそかわただのり)『戦場道中記』)。また、野砲兵第一一〇連隊副官の当番兵の回想によれば、一九四一年二月頃の 中国石家荘の軍慰安所の部屋内部はつぎのようだった。
部屋は個室になっていて、扉を開けると狭い土間がちょっとあるだけで、座が設けられていた。慰安婦はそこで生活しているので、身の回りの品や 家財道具が所狭しと置いてあった。そして、一種異様な臭いが、狭い部屋にしみついていた。(佐藤寛二(さとうかんじ)『赤いチューリップの兵隊』)
このように、慰安婦が押し込められている部屋は、布団またはベッドとわずかな家財道具を入れると、一杯になるような広さのものが多かった。中に は八畳位の部屋もあったが、普通は二、三畳から四畳半程度だった。
もっと前線に近いところでは、破壊された民家ならいい方で、「簡単な板囲いに、 中はアンペラ敷き、まるで簡易共同便所」のようなところもあったという(柳沢勝『オレはまんねん上等兵』)。
P141~P142
2.慰安婦の日常はどのようなものだったか
● 性交の強要
一九四一年のことで、彼女は満一七歳だった。以後、彼女は毎日午後に軍人の相手をさせられることになる。討伐(とうばつ)作戦が終わった後にはとくに人数が多く、一日に七、八人の相手をしなければならなかったという。
慰安婦が一日に相手にしなければならない軍人の数は、将校用慰安所では多くなかったが、下士官・兵用の慰安所では、多い場合は二、三〇人にも なった。ビルマで軍慰安所を経営していた業者香月久治によれば、ある日、慰安婦が一日に六〇人の相手をしたことがあったが、この女性は三日ぐらい 休まなければならなかったというから(筆者のインタビューによる)、これは例外としても、女性にとって大変な苦痛であったことはまちがいない。
「何度も性器が腫れ」た(李英淑)という状態でも、彼女たちは拒否することができなかった。性に飢えた軍人たちは、殺気だっており、拒めばひど い暴力をふるわれるからである。
このような軍慰安所のありさまは、軍人の側からみても異様であった。ある将校は、ベトナムのナトランの軍慰安所のようすを、つぎのように記している。
かねがね噂には聞いていたピー屋だが、そのあまりにも無造作な現実は、刺激というより、異様な世界を見せつけられる思いがした。白昼堂々立ち 並んで順番を待つ者の鼻先へ、コトを済ませ、半袴(はんこ)〔半ズボン〕の紐も締め終わらぬままつぎつぎ出てくる姿の生々しさ。はしゃぐわけでも なく、ある種の緊張の中に、コンベヤーシステム然と進行する儀式は、禁断の木の実を知らぬ私をたじろがせた。(南原幸夫『遥かなる仏印』)
P178~P180
V国際法違反と戦犯裁判
● オランダ人慰安婦問題
●ジャンヌ・オフェルネの体験
慰安所に連行された彼女たちはどのような目にあったのか。ジャンヌ・オフェルネとエリー・コリー・ファン・デル・ブローグの場合をみてみよう。
ジャンヌ・オフェルネは、スマランの近くの砂糖農園の裕福な家庭に生まれた。両親はオランダ人で、彼女は五人兄弟の三番目だった。修道女になる ためにフランシスコ会の教育大学で学んでいるとき、日本軍が侵入し、強制的にアンバラワ抑留所に入れられた。
当時、二一歳だった。抑留所は、悪 臭・汚物・ネズミ・下水などにまみれ、重労働・飢え・暴力・病気が横行するひどい所だったという(オフェルネ「レイプされた女の叫び」、以下これによる)。
一九四四年二月のある日、日本軍将校がやってきて「一七歳以上の独身の女性は整列しろ」と命令した。不吉な予感がした彼女は、できるだけ目をひ かないように、地味な身づくろいをして出て行った。
将校らは、整列した少女を上から下まで見て、仲間うちで笑いあった。彼女の記憶によれば、一六 名の少女が選別され、所持品をまとめてトラックに乗るよう命令された。少女たちの母親をはじめ、抑留所の女性たちが抗議したが、押し切られてしまった。
スマランに着いて、七名が降ろされ、一人ひとりに部屋があてがわれた(「裁判資料」によれば、約三五名の女性は市内のホテルに集められ、まず将 校倶楽部用の女性七名が選別され、ついで他の三つの慰安所にふりわけられたという)。
開館の夜には、多くの将校がやって来た。食堂に集められ、恐 怖に震えてうずくまっていた少女たちは、泣き叫び、抵抗する中で、食堂から一人ずつ引きずりだされていった。自分の番がきたとき、彼女は激しく抵 抗したが、
「蹴っても、叫んでも、抵抗しても、無駄」だった。怒った軍人は、刀を抜いて、身体につきつけ、彼女を裸にし、刀で身体を撫でたという。
窮地に追い込まれたねずみと猫のように、男はわたしをもて遊びました。ゲームをしばらく続けた後、男は自分も裸になりました。殺す気などまったくなかったのです。
……重い体でわたしにおおいかぶさり、押さえつけました。必死になって抵抗し、蹴ったり、引っかいたりしましたが、相手はあ まりにも強すぎます。レイプされるわたしの目から涙がとめどなく流れました。まるでずっとこれが続くように思えました。……やっと男が部屋から出 て行ったとき、わたしは全身震えていました。
その辺にある服をまとい、体からすべての汚れと恥辱(ちじょく)と傷を洗い流そうと、浴室に走りました。浴室には、他の少女たちもいました。みなショックで泣いていましたが、どうしてよいのかわからず、ただお互いに慰めあうだけでした。今起きた すべてを洗い落すかのように、わたしたちはごしごし体を洗いました。
身体を洗った後、彼女は裏の部屋に隠れたが、すぐに見つかり、その夜、別の数人の軍人にも強姦された。翌日も夕方から、同じような目にあわされたという。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 田中三郎さん。本気で、あなたもいろいろ書き写してきなさい。 私たちの学問道場は、日本で一番、優れた知識人集団だから、一切の 虚偽の言論を 許さない。
副島隆彦拝