[1623]フリーメイソン研究の二冊の最新刊の本について

田中進二郎 投稿日:2014/07/14 04:23

秘密結社フリーメイソンの世界史的役割を明らかにした最新刊二冊
投稿者:田中 進二郎
投稿日:2014年7月14日
 
7月初めに成甲書房から、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』がリリースされました。最初は大書店の副島先生の本のコーナーだけに置いてありました。が、十日ほどたった現在は、関西私鉄などの駅の中にある書店の店頭でも平積みされています。
この本の人気に火がつくのはまさにこれから、というところでしょうか。
 共同執筆者の一人(西周 にし あまね の章を担当)として、自分の塾の教え子に十冊ほど配布したところ、彼ら(中学生たち)は学校に持っていって、「読書タイム」に皆で読んでいる、とのことです。
「難しい。」と言いつつも、彼らはがんばって読もう、と思っているらしいです。

 この『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』の発刊とほぼ、機を同じくして、フリーメイソン(リー)の歴史的役割を考察したもう一冊の研究書が出されています。
書名は『ロシアを動かした秘密結社 ― フリーメーソンと革命家の系譜』 植田樹(うえだ しげる 1940年生まれ)著 彩流社 2014年5月刊 です。タイトルも似ています。
 フリーメイソンリーが、17世紀後半のロマノフ王朝、すなわち、ピョートル1世(在位1689~1725年)の治世から1917年のロシア革命に至るまで、ロシアに大きな影響をふるっていたことを、フリーメイソンリーおよびその他の分派の秘密結社の研究によって、明らかにした本です。
 
 ピョートル大帝については、西欧化を推進させるため、貴族たちのアジア的な髭(ひげ)を強制的に剃らせたりしたということが知られている。高校の世界史の教科書(山川出版社)にも、その絵が載っている。著者植田樹氏は次のように書いている。引用します。

(『ロシアを動かした秘密結社』より引用開始)

 ピョートル大帝にとってフリーメイソンとは西ヨーロッパ文明そのものだった。彼はロシアの近代化=西ヨーロッパ化にまい進した。アジア的な後れたロシアを短期間に近代化するには、西ヨーロッパの文物の大胆な導入と模倣が一番の近道だと考えた。彼は何よりも富国強兵をめざした。それは同じく脱亜入欧による近代化と富国強兵を目指した日本の明治維新より約200年も前だった。
 
ピョートル大帝は1697年、総勢数百人の大使節団を西ヨーロッパに派遣した。(中略)ピョートル自身は低い身分の随員の下士官に身をやつし、偽名でこの使節団に加わった。彼はこのとき25歳だった。
 
 フリーメイソンの一人、ドイツの著名な数学者であり法学者でもあった、ゴッドフリード・ライプニッツ(1646~1715年)は、西ヨーロッパにおける合理主義や啓蒙思想の先駆者だった。その彼は東方の後進国ロシアを啓蒙し、西欧化することに強い関心を抱いたのだ。(中略)彼はピョートルのこの視察旅行を利用して若い皇帝を感化することを考えた。

 ピョートル帝はブランデンブルク大選挙侯国に立ち寄ったあと、1689年イギリスに渡った。そして、イングランドのオラニエ公ウィリアム3世(1650~1702年)に会った。(彼はイギリス名誉革命の後にオランダから国王として迎えられた人物である。-田中注)
ウィリアム3世もまた熱心なフリーメイソンであった。そこから、このときにピョートル帝がフリーメイソンになった、という説もある。  (田中注-このあと、ウィリアム3世はピョートル帝とともに、オランダにわたり、旅案内役までしたそうである。Wikipedia[ウィリアム3世]の項を参照した。)
(中略)
 ヨーロッパの上流社会で発展したフリーメイソンは団員を「兄弟」と呼んで、国籍や民族を越えた友愛と相互扶助の精神で連帯していた。それはフリーメイソンの「コスモポリタニズム(国際主義)」と呼ばれたが、根底では王族や貴族たちの国境を越えた家族的結びつきの延長線上の感覚だった。 -p48~51より

(引用終わり)

 田中進二郎です。以上のように、ロマノフ朝のピョートル大帝は、秘密結社フリーメイソンリーのネットワークから、西欧の何たるかを学んだのだ。ピョートルの視察旅行は、このあと、ロシアの保守派の大貴族たちの反乱が起こったので、終わりになる。帰国したピョートルは反乱鎮圧後、直ちに西欧化政策を断行した。貴族たちの髭もこのときに剃られたのである。
 さらに、ロシア正教会こそが、保守反動の牙城、アジア的因習の巣窟であるとして、主教にフリーメイソンの人物(フェオファン・プロコポヴィチ)を任じた。
 このような開明的な政策の陰には、反対派に対するピョートル大帝の秋霜烈日な弾圧もあった。イワン雷帝(4世 1530~1584年)や日本の織田信長のような残忍な側面も残していたのだ。だから、ピョートルはヨーロッパの皇帝の肩書きである「イムペラートル」と東方的な「ツァーリ」を併用したのだ。

 それから約一世紀を隔てて、啓蒙専制君主として知られるエカテリーナ2世の治世(在位1762~1796年)が到来する。ドイツ人であるエカテリーナ2世をクーデターで皇帝に担ぎあげたのもフリーメイソンたちであった。エカテリーナ2世即位まもないころのロシアの宮廷には、プロイセン国王フリードリヒ2世(大王)の威光が強く働いていたようだ。
啓蒙専制君主の彼はまた、プロイセンのフリーメイソンリーの総長でもあった。(前掲書 p63)
 
 これよりさきに、フリードリヒ二世は七年戦争(1756年~63年)でハプスブルグ=オーストリア、フランス、ロシアに囲まれ、苦戦を強いられた。
 フリードリヒ二世は、プロイセン王国を包囲する三人の女性による同盟(ペティコート同盟というものがあった)を打破するために、ロシアの宮廷内のフリーメイソンたちに女帝エリザベータを殺害させたのではないか、と私田中は考える。
 だからその後、ロシアの皇帝には、フリードリヒ二世に心酔するドイツ人皇帝ピョートル3世が即位している。が、彼はフリーメイソンではなく、ただフリーメイソンの総長の地位を得ようとしていただけだった。そのように植田樹氏は指摘している。だから、再びフリーメイソンは宮廷クーデターで、皇帝を抹殺したのだ。こうして、エカテリーナ2世の治世が始まった。

 このような具合に、ロシアの近代史はロシア革命に至るまで、実に多様に、連綿と、秘密結社フリーメイソンリーに動かされてきたということが、『ロシアを動かした秘密結社』を読めば納得できる。
 また、ロシア革命のくだりでは、19世紀後半からテロも辞さないロシア社会主義の活動家、革命家たちが、いかにフリーメイソンリーの会員規約を研究し、模倣したかの考証がなされている。
 ロシアの社会主義者は、フリーメイソンリーの結社精神から、個人主義を取り払い、秘密主義・集団主義の組織論を作り上げた。そして、ロシア革命ではフリーメイソン政権であった、ケレンスキー臨時政府が、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ二世を廃位させるのを待っていたかのように、彼らが主導権を奪い取った・・・。

 新刊『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』を読まれた方は、こちらの本も読まれてみてはいかがでしょうか?

田中進二郎拝