[1515]柿本人麻呂の正体を暴くⅪ

守谷健二 投稿日:2014/01/10 14:22

  石川郎女の再婚相手  

 “石川の貝”とは“石川郎女”であり、大津皇子殺害後の石川郎女の生涯を知ることが出来るなら、必ずや柿本人麻呂にたどり着くことが出来るだろうと、私は考えた。知ることが出来るのです、万葉集は石川郎女のその後の人生を書き残している。 

   大納言兼大将軍大伴卿の歌一首
 神樹にも 手は触るとふものを うつたへに 人妻と言へば 触れぬものかも(517)

   石川郎女の歌一首“即ち、佐保大伴の大家(おほとじ)そ”
 春日野の 山辺の道を 恐りなく 通ひし君が 見えぬころかも(518) 
 
 (517の大意)御神木でも手を触れるというのに、人妻と言うだけで、絶対に手を出してダメなのだろうか。(未亡人への求愛)

 (51
8の大意)春日野の山辺の道を恐れることなく通っていらしたあなた、この頃さっぱりお見えになりませんね。

 大納言兼大将軍大伴卿とは、和銅七年(714)、正三位大納言兼大将軍で亡くなった大伴安麻呂のことです。石川郎女と結ばれたのは990年代の前半でしたからこんな大げさな官位に付くはるか前でした。
 大伴安麻呂は“壬申の乱”で、乱の口火を切った大和古京での天武に味方する大伴氏の蜂起を成功させ、その結果を不破関(現在の関ヶ原)に陣を敷いていた天武軍の総大将高市皇子に報じた人物です。高市皇子は、この報告を待っていたかのように、安麻呂の報を聞き全軍に進撃を命じている。高市皇子と大伴氏の間には、事前に約束が出来ていたのだろう。大和の大豪族で、氏の総意で天武に付いたのは大伴氏だけであった。天武勝利の切り札は、大伴氏を味方に引き入れたことであった。その大伴氏の中で、最も活躍したのがこの安麻呂であった。
 天武朝・持統朝は、壬申の乱と言う大戦争で成立した王朝で、軍事政権の性格を強く持たざるを得なかった。軍を掌握していた高市皇子が、実質的な最高権力者であった。大和古京での蜂起の成功の報を齎した安麻呂への高市皇子の信頼は強く大きなものとなっていた。安麻呂は、最高権力者高市皇子の片腕であった。

   石川郎女の歌一首
 春日野の 山辺の道を 恐りなく 通ひし君が 見えぬころかも(518)

 石川郎女とは、石川氏の娘さん、ご婦人と云う事だ。石川氏は、壬申の乱以前の蘇我氏である。春日野周辺は、蘇我氏の勢力圏であった。大和王朝(天智勢力)にすれば、大伴氏が天武に付いたことは裏切り行為であった。蘇我氏と大和天皇家は一心同体であった。春日野周辺には、大伴氏に対する強い怨み、怒りが渦巻いていた。しかし、安麻呂はそんなことをものともせず、堂々と石川郎女に求婚したのであった。
 ただ、安麻呂の次男の田主が、この結婚に危惧を持った。田主と石川郎女の興味深いやり取りを万葉集は書き残している。安麻呂の息子は三人確認でき、石川郎女に求婚した時点で、三人とも成人に達していた。石川郎女が、安麻呂の求愛を受け入れた時、安麻呂の三男・宿奈麻呂に贈った歌を紹介する。

  古りにし おみなにしてや かくばかり 恋に沈まむ 手童(たわらは)のごと(129)

 (大意)年老いた老女であるのに、このように激しく恋に落ちるとは、まるで幼い少女のように。

 万葉集の女流歌人で最も多数の歌を残した大伴坂上郎女は、安麻呂と石川郎女の愛の結晶である。また安麻呂の長男は、筑紫太宰の帥として華やかな筑紫歌壇を開き、多くの優れた歌を残した大伴旅人である。そして大伴家持は旅人の息子である。安麻呂の三人の息子は、安麻呂の最初の奥さんとの間にできたこどもである。
 次回は、安麻呂の最初の奥さんを検証する。大伴安麻呂が柿本人麻呂であることが鮮明に浮かび上がってくるのである。