[1407]日本書紀と天武の正統性の問題

守谷健二 投稿日:2013/10/12 12:01

1404の続きです。
   額田王、近江天皇(天智)を偲ひて作る歌
  君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く(488)

   鏡王女の作る歌一首
  風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ(489)

額田王と鏡王女は姉妹であると云われています。二人は、白村江の敗北の後、大海人皇子と共に大和王朝に身を寄せていました。額田王が、秋の風のそよぎに恋しい人の来訪を感じているのに対し、鏡王女の方は「風を良き人の来訪の予兆と感じるあなたがうらやましい、私には誰も訪ねてくる人がいないのですから」と歌い返している。 
額田王が天智天皇と既に結ばれていたのに対し、鏡王女は孤閨をかこっていた。彼女には次の歌もある。

  神名火の 伊波瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ わが恋ひまさる(1419) 

鏡王女は、恋しい人と別離の状態にあった。
私が二人の女性の動向に注目するのは、壬申の乱の起因に、鏡王女が関係していると確信しているからです。和歌に興味のない方には、退屈で煩わしいでしょうがもう少しおつきあい願いたい。

   天皇(天智)、鏡王女に賜ふ御歌
 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを(91)

   鏡王女、和たへ奉る御歌
 秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思ひよりは(92)

お互いに敬意をもち、相手をやさしく気遣っている挨拶歌である。鏡王女が大和へ身を寄せていた時、夫と別離していた、その夫とは何者であったのか。倭国の国王である、と言うのが私の確信です。何故なら、倭国王は不在でした。唐に連行され、唐の都長安で捕虜になっていたのです。誰も指摘しませんが、これは日本書紀から判明する事です。天智天皇も倭国王に敬意を払い、鏡王女に失礼の無いように接していた。
ところがです、あろうことか天智の片腕である中臣鎌足が、鏡王女を所望したのです。 

   内大臣藤原卿、鏡王女を娶(よば)ふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌
 玉くしげ 覆ふを安み 開けて行かば 君が名はあれど わが名惜しも(93

   内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌
 玉くしげ みむろの山の さねかづら さ寝ずはついに ありかつましじ(94)

   内大臣藤原卿、采女安見児を娶(ま)きし時作る歌
 われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすといふ 安見児得たり(95)

(95)の歌は、采女安見児となっているが、鏡王女に違いない。あまりにも露骨すぎるので万葉集の編者が配慮したのに違いない。
鎌足の勝ち誇っている雄叫び「誰もがものにするのは難しいと云っている倭王朝の皇后を、俺はついにものにしたんだ」と。
鏡王女の口惜しさにじっと唇をかみしめ耐え忍んでいる歌と好対照である。鏡王女と中臣鎌足の間には子供の誕生を見なかったが、鏡王女は藤原氏の氏母として藤原氏の社寺に祭られている。大海人皇子は、土を舐めるような屈辱に耐え忍び延命を図らねばならなかった。