[1391]『日本書紀』と天武天皇の正統性の問題、Ⅱ

守谷健二 投稿日:2013/10/03 10:07

1388の続きです。
『懐風藻』は、秘密の書でも禁書でもありません、白日晴天の下で堂々と受け継がれてきたのです。それは、奈良時代の半ば『日本書紀』の正統性を全面否定することが許されていたことを意味します。反天武勢力(天智系勢力)が、天武系勢力を圧倒していた、と云うことです。事実、奈良時代末期天武の血は皇位から完全に排除され、天武の血が一滴も交じっていない天智の後胤(光仁天皇)が探し出されて擁立された。光仁天皇の子が、平安京を開いた桓武天皇です。
奈良時代の通奏低音は、天智系勢力と天武系勢力の深刻な対立抗争にあります。しかし、考えるとこれは可笑しな事と気付きます。何故なら『日本書紀』は、天智と天武は実の兄弟(両親を同じくする)と記す。天智と天武は同じ母体から出てきたと云う。それなら、天智系、天武系の違いなど発生するはずがない。
私は、はじめ天武の決起を「乱」と言い始めたのは、皇位から天武の血が一掃された平安の王朝になってからだろうと思っていた。『懐風藻』に天武の行為を「乱」と明記してあるのを見た時には、正直ショックを受けました。また『万葉集』にも「壬申の年の乱」の表記がある。それに、天智と天武が実の兄弟であったなら、壬申の乱は、叔父と甥の相続争いに過ぎないのです。それが日本を真っ二つにし一ヶ月にも及ぶ古代最大の内戦に発展している。その説明がつかないのです。七世紀日本の最大の事件は、この「壬申の乱」と、その十年前の「百済救国の役の失敗」(白村江の敗北)です。倭国は、三万二千もの大軍を朝鮮半島に送り、世界帝国である唐と真正面から戦って敗北したのです。三万もの兵が壊滅した。この影響が深刻でなかったはずがない。「壬申の乱」は、その僅か十年後の事件です。二つの事件が無関係であったはずがないのです。
次回は、二つの事件の関連を検討します。