[1354]「中国人の本性」を読んで 朱舜水が日本にもたらしたもの

田中進二郎 投稿日:2013/08/15 22:04

水戸藩の尊王攘夷思想について  「中国人の本性」を読んで  田中進二郎

皆様、猛暑お見舞い申し上げます。今年の正月にオーストラリアが猛暑で50度近くになったということを知ってから、日本も今年は暑くなるのかなあ、と思っていたら想像以上ですね。クーラーがなくて、大都市の中心に住んでいて、お年寄りの方が毎日のように熱中症で亡くなっていますね。みなさまのご健康をお祈り申し上げます。

さて、アルル中田さんが「今日のぼやき」(広報・1396)で、副島先生の新刊『歴史・思想・宗教で読み解く 中国人の本性 副島隆彦vs 石平』(徳間書店)を紹介しています。私も拝読いたしました。

昨年の『隠されたヨーロッパの血の歴史』では、ビザンツ帝国からやってきたゲミストス・プレトンとヨハンネス・ベッサリオンがフィレンチェにやってきて、コジモ・ディ・メディチにプラトンの思想を伝えた。(1439年プレトンのプラトン講義)そしてイタリア・ルネサンスがここから始まっていく、と、副島先生は書かれています。

このプレトンとちょうど対応するのが、『中国人の本性』では朱舜水(しゅ しゅんすい・1600~1682)という中国から日本への亡命知識人であることがわかります。
p49には、肖像画つきで、「幕末維新を動かした生みの親は朱舜水である」と大書されています。
p47~p51より引用します。
(『中国人の本性』より引用開始)

石平: 水戸光圀は朱舜水からそれほどの影響を受けたのですか?

副島: 影響などというものではありません。水戸光圀は朱舜水から、司馬遷の『史記』の書き方を教わったわけです。隠元禅師は江戸時代、1654年の63歳のとき、弟子たち20人を引き連れて日本へ渡ってきました。その5年後に朱舜水も日本に永住を求め、日本国学の思想も吹き込んだ。

石平: その国学が水戸学につながって、幕末維新を動かしていったわけですね。

副島: つながったどころか、この国粋思想(排外主義 ショービズム)しかなかったと思います。日本の「尊王攘夷」は中国知識人から教えられたものです。それなのに、「中国から最高級の亡命知識人たちが日本に来た」という真実を、日本の右翼言論人たちは隠そうとしている。日本の各宗派の僧侶たちもこの真実を隠して、地力で高度の仏教思想を築きあげた振りをしています。
(中略)
副島:朱舜水は楠木正成の息子である正行(まさつら)との「桜井の訣別」とか足利尊氏に敗れて自害した「湊川の決戦」の故事を初めて日本の正史として高く評価した人です。
二・二六事件の青年将校たちも、水戸学が築いた「日本の国体」なるものに心酔しました。
(中略)
だから戦争中に狂ったように崇拝して、今でもあちこちに楠木正成の碑と銅像があるのです。

石平:神戸市にある湊川神社には楠木正成の墓碑がありますね。

副島:その墓碑の裏面には、朱舜水のつくった賛文が書かれています。今は誰も読めません。この湊川の墓碑の建立(1692年 元禄五年)によって、楠木正成の威徳が極端にまで宣揚されるようになりました。後の幕末勤皇思想の発展につながり、明治体制の精神的指導力にまでなりました。さらに、神がかりといえるほど軍国主義の本尊に祭り上げられました。そして敗戦でアメリカに打ち倒されました。
(引用終わり)

田中進二郎です。この本には残念なことに朱舜水の碑文の原文が載っていませんでした。
よって、探してみたところありました。↓をごらんください。

朱舜水「楠公碑陰記」
http://www.geocities.jp/sybrma/208syusyunsui.nankouhiinki.htm

最初にどんと漢文が出ていますが、下のほうに書き下し文を作ってくださっているので、ありがたい(涙)。
江戸時代には、今の湊川神社には、この碑文だけがあって、社殿などはなったことが名所図会(めいしょづえ)に描かれています。つまり、水田や松林などの中にこの碑文だけが屋根で囲われてあった。頼山陽(らいさんよう)がここを訪れて、漢詩を読んだ。
これが「七たび生まれ変わって、朝敵を討つ」の「七生報国」(しちしょうほうこく)となった。

また太平洋戦争末期に、アメリカから「きちがい兵器」とよばれた人間魚雷「回天」は「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転する」という意味がこめられている。これも楠木正成神話からきている。アメリカがヨーロッパの亡命科学者を狩り出して、原爆を製造を完成させつつあった時期に、日本は人間魚雷を開発した。これは「神がかり」以外のなにものでもない。
だから、GHQのニューディーラーたちは、楠木正成を教科書から削除するように命令した。
(ちなみに人間魚雷「回天」は今でも靖国神社の遊就館(ゆうしゅうかん)に展示されている。)

話を朱舜水に戻します。
山本七平(しちへい)著『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』(文芸春秋 山本七平ライブラリー12 1997年刊)にも朱舜水について考察した章があります。
山本七平(1921~1991年)は次のように書いています。
『現人神の創作者たち』p48より引用します。

(引用開始)
楠公を発見し、これに賛を書いたのが中国人だなどということは、戦前の日本人にありえざることだったのだろう。
(中略)
楠公碑は、講談にも副読本にも歴史教科書にもでてきて、私たちの世代の人間はいやおうなく覚え込まされたが、その表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」が光圀の自筆であることは語られても、裏面の文章は朱舜水であることはこれまたまったく語られなかった。と同時に、そのすべては戦後に消されてしまった。
(引用終わり)

田中進二郎です。戦前のこうした状況が幕末の尊王攘夷運動とどのように、つながっているのであろうか。それと水戸学イデオロギーを奉じた水戸の天狗党の乱(1864年)の結末にも関心がある。
というのも、吉村昭著の「天狗争乱」(新潮文庫)では、尊王攘夷を唱えた天狗党のリーダーたち、すなわち藤田小四郎(こしろう 1842~1865 藤田東湖の子)や武田耕雲斎(こううんさい 1803~1864 水戸藩家老)が、雪中行軍の末に敦賀(つるが 福井県)で幕府や諸大名の包囲網の前に屈し、360名が処刑されるところで小説が終わるからだ。
その先はむごたらしい水戸藩内での激しい内ゲバが起こったのが、史実だ。吉村昭でも触れえなかった悲惨な結末は、水戸人をして「藤田東湖さえ生きていれば、こんなことにはならなかった。」と嘆かせたという。

水戸藩は天狗党の乱からの内乱で5000名の死者を出したとされる。
これを戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い~函館五稜郭 1868年1月~69年6月まで)の戦死者とくらべると、旧幕府軍が約8600名(うち会津藩が2400名でもっとも多い。)、新政府軍が約3600名(薩摩が約500名、長州が約400名)とされている。(靖国神社で招魂されている戦死者の数である。)
この数をみただけでも想像ができようが、殺し合いがあんまりひどいので、みんなが真相を語りたがらなかった、という。純粋・過激な政治イデオロギーの先頭を突っ走った水戸藩は、新政府にだれも高官につかなかった。みんな死んでしまったからである。最後に起こったことは集団的アノミー(規律喪失)だったのかもしれない。
このことについて、私も本当に知っているわけではないので、そろそろ筆をおかなければならない。
田中進二郎拝