[1340]表現の自由は守られるのか?
これからはいよいよ『言論の自由』もなくなるのか? 投稿者田中進二郎
参議院選挙が終わりました。私は小沢一郎先生の付き人をつとめられていた方からのフェイス・ブックを毎日見ておりました。日本中を演説して回っている、小沢氏のあの姿をよく覚えておこう、と思いました。
私は、自民党の政治家たちは今日という日をずっと、何十年も待っていたのだと思う。もうブレーキをかける、国内の政治勢力はなくなりましたから、どんな非民主主義の政策もどんどん押し通すことができる。
消費税率も来年中に8パーセントはおろか、10パーセントまで上げられてしまうのではないでしょうか。
日本国民の愚かしさを思うと、北方ルネサンスの画家ピーター・ブリューゲルが描いた一枚の風刺画が、脳裏をよぎる。「盲人に導かれる盲人たち」という一枚の絵。
旧約聖書に題をとっているということだが、今の日本を一枚の絵でたとえるなら、ずばり、これだ、と思う。
「今日のぼやき」(1389)で中田安彦さんが書かれた記事の中で、もっとも私が恐ろしいなと思ったのは、自民党の改憲原案の「表現の自由への規制」の箇所です。引用します。
(引用開始)自民党改憲原案 第21条(表現の自由)1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。現行日本国憲法 第21条1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdfhttp://satlaws.web.fc2.com/0140.html(引用終わり) 田中進二郎です。上の自民党改憲原案 第21条の第2項は、戦前の治安維持法とあまり変わらないではないか?
1925年(大正14年)に制定された治安維持法は次のように書かれている。
第1条 国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は 情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す。
前項の未遂罪はこれを罰す。
第2条 前項第一項の目的を以って其の目的たる事項の実行に関し協議したる者は七年以下の懲役又は禁錮に処す。
・・・以下略
(中公新書『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』 中澤俊輔著 2012年刊より引用した。)
田中進二郎です。上の治安維持法の条文では「国体を変革し又は私有財産を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りてこれに加入したる者」を罰するとあるが、
治安維持法が、加藤高明内閣の下で成立するまでには、条文の文言がいくつか変更された
経緯がある。上記の『治安維持法』(中公新書)を参考にしながら、解説を試みてみる。
まず、明治政府が自由民権運動を取り締まるために1875年に新聞紙条例が出された。これは1909年に新聞紙法となるが、その第41条に「安寧秩序紊乱」(あんねいちつじょびんらん)にあたる罪、第42条には「朝憲紊乱」(ちょうけんびんらん)にあたる罪を罰する規定が存在した。「安寧秩序」と「朝憲」(後者がのちの「国体」に近い意味である。)の違いははじめはあいまいであった。
ところが、1920年(大正9年)森戸辰男(もりと たつお)事件が起こる。これは東大経済学部助教授であった森戸辰男が『経済学研究』創刊号に掲載した、クロポトキン(1842~1921年 ロシアの無政府主義者)に関する研究論文が「朝憲紊乱」にあたるとして起訴された事件である。
第一審では、「朝憲」とは国家の基本的な政治組織、つまり内閣、議会、裁判所制度であり、「紊乱」とは暴力や不法手段をもって破壊することを指す、とされた。
そして森戸論文は私有財産制度の廃止を理想とするものの、廃止する手段を示していないから、「朝憲紊乱」ではない、として「安寧秩序紊乱」違反で有罪とした。
だが、第二審と大審院は、国家の存立を危うくする恐れがある場合は、手段の如何を問わず朝憲紊乱にあたるとして、森戸と編集人の大内兵衛(おおうち ひょうえ)を朝憲紊乱罪で有罪とした。
(上書p16、17より引用・要約した。)
この事件は学問・表現・出版の自由を脅かす事件として記憶された。一方で社会主義思想に対する政府・検察の取り締まりの強化が始まった。
これが治安維持法が成立する上での、第一歩となった、と著者の中澤氏も書いている。
私が思うに、この「安寧秩序紊乱」と自民党の改憲原案の第21条の第2項がほぼ目的が同じであるだろう、ということだ。
日本国憲法の柱である「基本的人権の尊重」も一文を加えるだけで、ガタガタになってしまうのだ。このような緻密な破壊を企てたのは一体誰なのだろう?これも「顔なしの官僚の世界的同盟」の仕業なのか?それとも自民党のタカ派なのか?私には前者であるように思われる。
自民党改憲原案にある『公の秩序』とはなんだろうか、それは現在の日本にあっては、治安維持法の第一条にあるような、『私有財産制度』ではないだろう。
なぜなら、国民の私有財産をむしりとり食らうリヴァイアサンと化しつつあるのが、日本国家の今の姿だからだ。
副島先生が雑誌FLASHに連載されている「金持ちをいじめると、日本は滅びる」の第1弾を読みました。その最後のところに、「いつから日本は共産主義国家になったのか」と先生が書かれているところがあります。
自民党安倍政権のもとで、「貧富の差をなくす」という美辞麗句を用いて富裕層から税金を取り立てる国家官僚。彼らが思うままに国家を操縦しようとする現代日本は、私田中には関東軍の作った「満州国」に国家官僚が群がって、五ヵ年計画(計画経済)などを遂行していったありさまとダブってきてしかたがない。日本の国家官僚は満州事変後、次々と大陸に渡って本国で働くよりも高給をとって、満州経営を行ったのである。
(岩波新書『中国侵略の証言者たち-認罪の記録を読む』 岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕(ゆたか)編 2010年刊を参考)
話が前後してしまうが、戦前戦中の日本国内で、治安維持法でつかまった思想犯に対して、小林多喜二に対する拷問のようなむごいことがおこなわれたことは事実であるが、また一方で共産党員も「転向」するであろう、それは日本の国体に共感しえない日本人などはいないから、と特高警察が考えていたことも事実なようだ。であるからこそ、転向者が大量に戦前の共産党員から生まれたのだろう。拷問に対する屈服からだけとは、考えにくい。
だが満州国では、1932年「国憲を紊乱し国家存立の基礎を危殆(きたい)もしくは衰退せしむる目的」の結社に、死刑を含む重刑を課すことを定めた暫行懲治盗匪法(ざんこうちょうちとうひほう)が出され、41年には「満州国」の治安維持法が施行された。泥沼化した日中戦争では、血も涙もない処罰(処刑や拷問)が認められ、満州人、朝鮮人、中国人(漢人)に加えられたという。
(『中国侵略の証言者たち』p84より)
私は、今の日本の国家官僚が日本国民に対して、当時の特高警察と日本人共産党員の間におけるほどの人間的な情を感じているかどうか、についてはだはだ疑わしいと思う。
田中進二郎拝