[1303]日本国憲法に国民の『義務』は不要と考える

六城 雅敦 投稿日:2013/05/24 12:40

会員番号2099 六城雅敦です。

田中進二郎氏の現代思想の系譜を読んで、少しは会員として自分も発言すべきだと思い投稿いたします。
メディアに点在するいまいち論点があやふやな憲法改正論議批判を読んで、その感想を書きます。

私の主張は「日本国憲法に国民の『義務』は不要と考える」です。

5月21日の朝日新聞に自民党、産経新聞、そして東浩紀ら思想家によるゲンロン草案の3つの案の簡単な解説が掲載されていました。憲法に対する各執筆群の考えがよくわかるので掲載しておきます。

ゲンロン草案にはネットでは批判が目に付きますが、私には憲法とは「国家に対する法律」という前提で読めば一番すっきりします。

国民側が国家という集合体を規定したものが憲法であるとすれば、なぜそこに自ら義務という文言が入るのかは疑問に思っていました。

一方では各法律群の土台に憲法があるという考え方(自民や産経案)では血縁の義務にまで言及しています。現代においてはとても古臭く感じます。はたして明治憲法でさえこんなこと書いてあったのでしょうか?

私はリバータリアンですから、ゲンロン草案のいう「義務」をすべて削除するというすっきりした提言に賛同します。記事にあるように「国家には個人に課す権利を認める」と明言した方がよほどいいです。

duty(義務)をOxford Dictionary onlineでひくと、冒頭には(意訳すると)法律に基づいて強要される行為もしくは道徳的な使命感による行為と説明されています。
http://oxforddictionaries.com/definition/english/duty?q=Duty

これが自民党や産経新聞の草案の血縁者での扶養の義務などがもし盛り込まれると、その義務から派生した法律が生えてきてしまいます。オックスフォードの辞書にあるDutyの説明を読むと全く逆で、憲法で義務を強要することは本末転倒であることがわかります。

日本のタブー(悪魔の用語辞典2)では副島隆彦先生による近代思想への過程が説明されています。(P41~52)

16世紀にマルチン・ルターが始めたローマ教会へ対決姿勢(プロテスタント運動)が200年後にモンテスキュー、ヴォルテールらにより近代思想として定着し、その前に17世紀あたりでジョン・ロックやトマス・ホッブスが人権思想(本当は自然権:ナチュラル・ライツ)が誕生していると書かれています。やがて封建社会において貧乏人用の自由(freedom)と貴族用の自由(liberty)という発想が生まれ、ユダヤ人達の思想「レッセ・フェール(laisser-faire)英語では「Let us free (俺を自由にしろ)」に結実していきます。

「儲かったら王様に分け前(tax:税)を払いますから、どうか自由に商売させてくださいという穢(けが)らわしい本性が自由思想なのだと喝破されています。

宗教によるローマ教皇の支配を嫌い、合理性(Rational:ラチオナル、根本はユダヤ思想)をGodの代替(だいたい)に据えたのが近代思想であると示されています。

一方では日本国憲法には元々からLaw(ロー:法律)とRights(ライツ:権利)とLiberty(リバティ:規制という束縛からの「自由」)の区別がなされていないのではないか。

ヨーロッパに息づく自由思想に倣うのであれば、合理性を見いだすことができますし、義務という言葉など入る余地はないはずです。