[1174]シュテファン・ツヴァイクを読みながら

田中進二郎 投稿日:2013/01/02 04:09

あけましておめでとうございます。旧年中は副島学問道場の皆様のご厚情賜りましてありがとうございました。入門して一年が過ぎました。副島先生の執筆活動、講演活動のものすごい勢いに圧倒された一年でした。

これまで書かなかったのですが、『隠されたヨーロッパの血の歴史』を読んだときに瞬間的に思い出した本が、シュテファン・ツヴァイク著の『魔神との戦い』(1925年刊、邦訳は秋山英夫 角川文庫)でした。「ニーチェのローマ・カトリック教会に対する批判を理解できてこそ、日本人は土人(どじん)から卒業することができる。」というテーゼの過激さはどこからきたのか?副島先生のこの主張も真の反逆精神をもたない日本人にとっては、『馬
の耳に念仏』ではなかろうか。さてツヴァイクのニーチェ評はこうだ。

(『魔神との戦い』p59より引用開始)
「ニーチェとともに初めて、黒い海賊旗が、ドイツの認識の海洋上にあらわれる。肌合いの違った、別の種族の人間が登場してきたのだ。英雄主義の新種、もはや学者らしい教授服をまとわぬ哲学、戦士のように甲冑(かっちゅう)で武装した哲学である。彼以前のほかの哲学者たち、同様に大胆で英雄的だった精神の航海者らも、いくつもの大陸や国々を発見していた。しかし、その意図は、いわば開化主義、実利主義を出でず、それらの土地を人類のために征服し、思惟の未知の国に踏み入って、新しい地図を加えようとしたに過ぎぬ。彼らはその新領土に、『神』あるいは『精神』の旗を打ち立てて、この新しい未知の土地に、都市や寺院や新しい道路を作る。そして、彼らの後から、総督や管理人、註釈者や教授たち、教養の人間たちがやってきて、獲得されたものを耕し収穫する。ところで、彼らの労苦の究極の意味は、いつでも休息、平和、安全であった。(中略)

これに反し、ニーチェがドイツ哲学に闖入(ちんにゅう)していったありさまは、16世紀の末、スペインの領海に出現した海賊さながらなのだ。眼中、国家も支配者も、王も旗も、故郷も居住地もなく、野生的で向こう見ずな、放縦で命知らずな暴徒の群れ。この海賊一味と同様、ニーチェが征服するのは、自分のためではない、自分に続く後世の人のためでもない。(中略)鈍い褐色の睡眠が平和の徒輩には貴重なように、同じように彼にとって貴重なものである覚醒を、炎と威嚇をもって広めることだけである。大胆にかれは出現し、道徳の要塞を攻撃し、信仰の柵に殺到する。どこに行っても、人の命など助けてやることはない。

彼の通ったあとには、かの海賊一味が通り過ぎたあとのように、教会は破り開かれ、数千年をけみした聖堂はけがされ、感情は凌辱され、確信は虐殺され、倫理の囲いは破られ、地平線に火の手はあがる、大胆と力との巨大な狼煙(のろし)である。・・・(以下略)」
(引用終わり)
『隠されたヨーロッパの血の歴史』も『隠された歴史』(仏教とは何ものか?)もこうしたジャンルに属する書物である。これらの書物は惰眠をむさぼるあらゆる階層に向けて放たれたミサイル攻撃である。(ルネサンスの時代は書物が武器であった。活版印刷術の発明によってルネサンス運動、宗教改革はヨーロッパ全土に広がっていった。とはいえ現在、日本では書籍の売り上げががた減りしているようですが・・・)

同じくツヴァイクの『エラスムスの勝利と悲劇』(みすず書房)には活版印刷術の登場とともに、ヨーロッパ精神界(知識人)の帝王の座についたエラスムス(1466-1536)の執筆活動のものすごさが書かれている。エラスムスは『痴愚神礼賛』、『キリスト教兵士提要』、『ヴルガタ聖書注解』
の三書によって、エラスムスはその時代を制覇した。当時の名声は数百年このかた、ヨーロッパが知らなかったほどであった。デューラー、ラファエロ、レオナルド、パラケルスス、ミケランジェロなど、同時代人のいかなる名前も、彼の名声には比肩しなかったという。16世紀初頭の20年ぐらいである。しかし、1517年にルターが95か条の論題をヴィッテンベルクの教会を掲げて闘争を開始する。ビラが手から手へわたされ、一夜にしてドイツにルターの名がとどろく。エラスムスのライヴァルが登場する。シュテファン・ツヴァイクはこの二人の対決の時代を『人類の星の時間』と名づけている。

文人エラスムスの栄光の座は本来なら、ピーコ・デラ・ミランドラが長生きしていれば手にしていただろう。けれどもピーコはロレンツォ・ディ・メディチの死(1492年)により、庇護を失いローマ・カトリック教会の陰謀によって、砒素を盛られ死んだ。(1494年)わずか31歳だった。
『隠されたヨーロッパの血の歴史』では「ルネサンスという思想運動の戦闘隊長」と名づけられている。「ピーコのような人間に私の脳は自然に同調しようとする。」と講演会でも副島先生は本音をもらされた。戦いが常であると、そういう風に瞬時に判断できるのであろう。戦いというのはもちろん言論を通しての戦いのことである。

ピーコとエラスムスは、ルターに先立って宗教改革の先駆者とよべる二大知識人だろう。けれども、エラスムスとルターが性格的に対極であったのと同様、ピーコとエラスムスもまた両極の言論人であった。エラスムスは高邁な世界普遍精神(ヨーロッパ普遍思想)を、現世をオブラートに包みながら痴愚神の舌を借りて教会権力を批判した。ローマ教皇権力にとってこれは痛くもかゆくもないものとうつったことだろう。だからこそ、教皇や王侯貴族はエラスムスを「偉大なる教師」とあがめたて、競って彼を晩餐に招待しようとした。
人文主義(フマニスム)の栄光に少しでもあずかりたいと殺到したのである。これは一時代のファッションの側面も強い。

もちろんエラスムスは偉大な教師であった。といってもひ弱なからだに鞭打って一日に3、4時間しか睡眠をとらず、残りの20時間を六本目の指になったペン先に集中させて書いた
書物は、ルターが引き起こした宗教改革と宗教戦争の時代の間は静かに身を潜めていたが、やがてスピノザやレッシング、ヴォルテールにその批判精神を継承され、詩的な文体はハイネに継承されたという。(『エラスムスの勝利と悲劇』p20より)

しかし本当に現世を揺さぶったのは『雲上帝国』の皇帝エラスムスではなく、やはりルターであった。エラスムスが謝肉祭の仮面の裏側で仕組んだ爆薬は、ルターの主導する民衆の怒りとなって爆発する。言い換えれば、エラスムスの蒔いた種をルターが収穫したのである。ルターの人物像についてもツヴァイクの筆は生き生きとしているが、ハイネの著した『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)のルターも面白い。ドイツのシュマルカルデン同盟が戦闘に入る際に軍歌をつくって、民兵を鼓舞したとある。このゲルマン民族の魔性こそローマ・カトリック権力がもっとも恐れたものであった。

日本でいえばやはり浄土真宗の中興の祖、蓮如(れんにょ)だろうか。ルターの軍歌の内容は一向一揆の筵旗(むしろばた)に書かれていることと同じである。でも親鸞(しんらん)の和讃(わさん、短い章句で布教したもの)の中にも、やはり民衆を突き動かしていく音楽的なものを私は感じております。やはり人間というものは呪術的な音楽性にはひきつけられていくのではないだろうか。

羽仁五郎著『ミケランジェロ』(岩波新書p216~220)でドイツ皇帝カール5世が外征にむかわせたランドスクネヒテ農民兵がフィレンチェ攻撃をやめてローマを攻撃したローマ劫掠(ごうりゃく 1527年の春)が描かれている。副島先生は11月講演会でも「この農民あがりの傭兵、言ってみれば足軽だ。彼らがローマのサンタンジェロ城に逃げ込んだ教皇クレメンテ7世を追って城を囲み『ルターを教皇に』と叫んで選挙を行ったこと、ここが重要だ。」と力説されていた。「時代を動かすのは熱狂である」という副島熱狂史観である。
もちろん『隠されたヨーロッパの血の歴史』でも特筆されています。

ちなみに、先月の中ごろに『ミケランジェロの暗号』について書きましたが、この本にはミケランジェロもフィレンチェ自治共和国の最後の戦い(1530年)ののち、プロテスタントの秘密結社「スピリチュアル」に加入していたようです。だから、ピーコだけでなく、『最後の審判』にはその指導者たちも複数描かれているそうです。

というわけで敗れても敗れても、「敗北を抱きしめて」雄雄しく前に進む一年でありたいものです。どうぞ今年もよろしく。
田中進二郎拝