[1113]羽仁五郎著「ミケランジェロ」を読んで

田中進二郎 投稿日:2012/10/20 07:00

羽仁五郎著「ミケランジェロ」を読む(1)
こんにちは 田中進二郎です。前回につづいてミケランジェロをとりあげてみたいと思います。そして、副島先生が「羽仁五郎(はに ごろう)先生の『ミケランジェロ』と『都市の論理』に帰らなければならない」と言った意味について可能な限り深く考えてみたい、と思います。

『ミケランジェロ』(岩波新書 赤版 1939年3月初版)、この本については、古書で手に入らないひともおられるだろうと思います。この本の冒頭は次のような言葉から始まる。
略しながら紹介します。

(引用開始p1~6より )
ミケランジェロは、いま、生きている。うたがう人は『ダヴィデ』をみよ。・・・(略)・・
ミケランジェロの『ダヴィデ』は、ルネサンスの自由都市国家フィレンチェの中央広場に、その議会の正面の階段を守って、はっきりと立っている。・・・・(略)・・・見よ、彼の口は固く閉ざされ、美しい髪の下に理知と力とに深く刻まれた眉をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。・・・(略)・・・フィレンチェ自由都市国家の繁栄と喪失とのすべての起き伏しをフィレンチェ市民と一緒に身をもって戦ってきたこの『ダヴィデ』は、その失われた歴史をひとびとがどんなに忘れ去ろうとしようと、かればかりはそのかつてのたたかいを今のことのように、いな、将来の希望のように語ってやまないのである。・・(略)・・   
『ダヴィデ』をながむる人は、現代の人は現代の心のかぎりをこめて、この像を見つめることが許される。『ダヴィデ』を、ミケランジェロを、近代的にあまりに近代的に理解すべきでない、などという凡庸歴史家たちに対しては、ミケランジェロ自身が彼の言葉を投げつける、「十世紀も後になってみよ」!と。

『ダヴィデ』のように美しい芸術はどうして作られたのだ?ミケランジェロのような天才はどうして出てきたのだ?・・(略)・・
それはフィレンチェを中心としたルネサンスが生んだのだ。それでは、ルネサンスのあの  
美、あの力強さ、それらは、どこから来たのだろう。

ルネサンスとは何だ。いわゆる自称歴史家たちの歴史の本などは、こういう問題に浅薄な理解しかもたぬものが多い。いわゆる歴史家たちの中には、美術のどういうところがよいのかもわからない人たちが少なくないのだ。美術史の本などをひっぱり出しても、美術史家などの中には、フィレンチェの歴史も知らない人が少なくないのだ。そんなことより、まず、諸君がすでに大体知っているところだけでも、いわゆる専門家たちなどよりははるかに健全な、諸君自身の見識によるルネサンス観をつくることができる。
(引用終わり)

 ところで、われわれ日本人も写真でおなじみのダヴィデ像(ピアッツァ・デラ・シニョリーア広場に立つ複製と、アカデミア美術館に保存されている実物。)であるが、一般の人がほとんど知らない、というより隠されていることがある。それはダヴィデ像の顔の正面から見た表情である。一般に流布されている『ダヴィデ像』は裸身を正面下から写したものであり、ダヴィデの顔は左を向いている。その横顔は明朗なアポロンを想起させるだろう。
さらに顔を見ようと右に回ると、眉間にしわを寄せた険しい彼の顔を確認することができよう。ところがダヴィデの顔を真正面からとらえようとしても、アカデミア博物館の柱があってそれが邪魔して見られないのだという。
これは観客にミケランジェロの真意を見せまいとする伝統主義者の右翼の政治的意図(viewed from the traditionalist politically right)であると指摘し、隠されている正面からのダヴィデの顔をヴァーチャルで再現した画像がありましたので、ここに紹介します。「殺人マシーン(remorseless killing machine)」のダヴィデの顔です。ローマのバチカンに向かって、「お前ら、殺すぞ、コラ」という声がいまにも聞こえてきますよ。一見の価値ありです。
http://www.amnation.com/vfr/archives/011603.html

権力者たちは今もミケランジェロの芸術が持つ、破壊的な影響力を恐れているのだ。
まさに「十世紀もあとになって見よ!」である。
(上記のサイトの文では、1504年にミケランジェロが完成したあと、1873年まで広場にあったが、アカデミア美術館の中に移され、代わりに複製が同じ場所に置かれた。だが向きが少し変えられているために、正面からのダヴィデをみることは難しいという。私は英語力がまだあやふやなので、ちょっと間違っているかもしれません。ご宥恕ねがいたい)

羽仁五郎氏の『ミケランジェロ』に話を戻します。引用した個所の続きはどうなっているか。
・ルネサンスはイタリアから始まり、北方に中心が移ったという理解は間違いである
「ルネサンスは特にイタリアに限られた発展であったろうか。事実についてみると、第一義的にはそういうようなものではなく、世界的なものであった。イタリア・ルネサンスはもちろんイタリア的の外見をもっていたが、ルネサンスの本質においては、それはフランス、オランダ、イギリス、ドイツ、イスパニアなどのルネサンスおよびその他の諸方面におけるルネサンス的の発達に共通するものがあった。」(p12)
「自然科学、文学、美術、宗教、思想の発達は、同時期に世界の先頭を進んでいたあらゆる地方に一斉に起こった運動なのである。」(p16)

・ルネサンスの成功は、「西洋のあらゆる種類の貴族的ないし封建的独占を打ち破って出現した民衆の近代的成長が、全く新しい解放された真理の美と力との源泉をなしたからである。」(p20)
「当時識者はドイツについて言った。多くの有能なる職工、優秀なる芸術家、学者および思想家は、いずれも封建主義の抑圧のもとに侮蔑されていた農民および町人市民からでた。」
(p20)
・ルターの宗教改革の成功も原動力は、封建支配、教権に抗して立ち上がった農民の動きにあった。フス戦争(1420-1434)からドイツ農民戦争(1524-1525年)にまで続いた
「封建支配および教権の抑圧に対して新しい福音を説く」運動の流れ、これに支持されてルターが登場する。(P21)
 当時のドイツのことわざに「農民は牡牛とかわらない、ただ角がないだけだ。」と言われていた。(p28)「封建時代は、一般に想像される以上に恐ろしい時代だった」のである。
P27-35まで延々と封建領主にがんじがらめにされて搾取される農奴のくらしと、領主が他の領主に農奴を奪われないために、領主たち同士が戦国時代を実現していったことが書かれている。
(このあたりは非常に日本の室町時代(1338-1573)と同じである。なのにどうして、ヨーロッパだけが急速に発展していったのかへと話は進んでいきます)つづく
田中進二郎拝