[1078]「分別(ふんべつ)」 とは 「残りかす」 のこと

川端優美子 投稿日:2012/08/24 21:04

群馬のゆみこ(川端優美子)です。

皆さんのいろいろな投稿を、すごいなあ、楽しいなあ、と思って読んでいます。長井大輔さんの投稿はなんだかすごいし、田中進二郎さんの投稿は、書くのが楽しい、という感じが伝わってきて、こちらも楽しくなります。これからも、みんなで学問道場を盛り上げていきましょう!福島の桃も最盛期でおめでとうございます!

それから、[1045]で「非難することは無意味」というのを書いてから、わたしはもやもやしています。他人が何かを非難する自由を制限するような発言だった、という気がして、もやもや・・・。それを解消させるヒントを、先日わたしの兄との会話から得たのですが、まだうまく書けないので、書けるようになったら書きます。

それから、副島先生の投稿[1077]の3.で、坊さんにも「理論坊主」と「生活坊主」とがいる、と知りました。本屋さんの奥のほう(わたしがいつも行かない場所)に行ったら、仏教の本がたくさんあって、ははあ、これが理論坊主か、とわかりました。先生が『欧米日 やらせの景気回復』でお書きになっていた、「銀行お金」と「生活お金」の区別みたいな感じですね。先生の表現はわかりやすくて、本当にありがたいです。

ということで、思うことはいろいろあるのですが、今日は、いま書きたい、「客観」なんて、本当は無いのではないか、ということを書きます。

先日、ある老紳士と小一時間お話した時のことです。初対面だったのですが、お互いに「難しい話ができそう」とピンと来た(と思う)ので、話し込みました。その方は、ギリシャ哲学とか仏教の話をされ、「空(くう)って、何だと思いますか」などとわたしを試すので、難しかったですが、「仏教なら、副島先生の『隠された歴史』で勉強したばっかりだ」と、がんばりました。

その老紳士は、ご自分の発見などをわたしにお話になり、わたしも自分の発見を、どう思われるか、聞いてみました。

わたしは、「“客観”って、言葉としては在るけれども、本当はそんなものは無いのじゃないか、と思うんです。それぞれの人の見方(=主観)しか、本当は存在しないんじゃないですかねぇ」 と言いました。すると、老紳士は、そのとおりだ、でも、たくさんの人の見方を集めて、そこから主観を除いた、共通の見方(理解)を 「分別(ふんべつ)」 とお釈迦さんは呼んだ、とおっしゃいました。そこで、わたしはピカッと来ました。

「ああ!分別(ふんべつ)って、“残りかす”のことですね!」

この日の 「ピカッ」 は、かなり良かったです。  おわり