[1002]鎌倉仏教の謎を解く4
鎌倉仏教の謎を解く 第4回 (重たい掲示板990,999,1000の続き)
悪人であることの象徴的、言語的意味について~1195年東大寺再建供養式
前回キリスト教における悪と親鸞の悪人正機説のちがいについて、具体例をあげる前におわってしまいました。日本の文化の型式において、悪であることをみとめるということ、簡単にいえば謝罪するということがどういうことなのか、多田道太郎(ただ みちたろう言語社会学者)が日本とフランスの違いで説明しています。
フランスから日本に来た留学生が日本のやくざ映画とフランスのやくざ映画を比較研究して面白いことに気付いた。やくざ組織を裏切った人間が、組織に捕まってピストルを頭につきつけられたときに、日本人とフランス人とではいうせりふがまったく違うというのである。どちらも結果的にはバン、バンと撃たれて殺されてしまうわけであるが、日本人の
やくざは「おれが悪かった。すまねえ。許してくれ。」と言って許しを乞う。
フランス人のやくざは「おれは悪くない。聞いてくれ。おれはただ・・・しただけだ。(・・・にはさまざまないいわけがくる。)だから撃たないでくれえ。」という言葉を吐く。
この文章を読んでいる人の中に「いや、そんなことはないよ、いろいろ屁理屈こねてから死んでいったやつもいるぜ。」なんて言う御人はまさかいないと思いますが、屁理屈をこねる場合でも、「悪かった、許してくれ。」という言葉が最初にくるでしょう。それが日本の文化の型であり、個人差はないでしょう。
ところがフランスのやくざが「おれが悪かった。」と謝ったらどうなるか、これは命乞いのせりふにはならないという。神の前で自分の非を認めること、自分が悪だと認めること。これは大変勇気のある行為となる。そのような勇気のあるやくざは尊敬されながら殺されるだろう、と。フランス人にとって、自分の罪を認めることは、罪の赦しを求めることとは異なるのだということです。
上のようなすさんだ世界の非現実的な例ではなくて、われわれまじめな労働者階級(読者にはこれにあてはまらない方もいると思いますが)が日々直面する、ただひたすら「すみません」をいわなければいけない場面で、仮に上司が「すみませんですむか!」と言ったりすると、「だから謝ってるじゃん。すみませんですまないならどうしろって言うんだよ。」と口には出さないまでも、憤懣と反抗心が沸き起こってきたりします。
(ここまで多田氏が言っていることをまとめました。)
また謝って気持ちが晴れ晴れとするという誰にでもきっとある経験、あれは一種の呪術的なものであるかもしれない。結局禊(みそぎ)やお祓いと同じことなのかもしれない。なぜそんなことをいうか?
樋口清之(ひぐち きよゆき)の「日本人はなぜ水に流したがるのか」(たしかPHP文庫)には「すみません」の語源は水を汚してしまうことで、それを水に流して元通りにすることを「すます」といい、漢字をあてると「済む」は「澄む、清む」であると書かれている。「これでやっと気が済んだ」というときと、「済みません」というときは根源的にはつながっているのであろう。
(ちなみに私はこの「日本人はなぜ水に流したがるのか」を福島第一原発の高濃度汚染水を海に捨てたというニュースを聞いたあと読んだのだが、複雑な気分でした。しまった、これは「架空対談」ではなかった。脱線してすいません。)
話を鎌倉時代に戻しますが、平重衡(しげひら)という人物について。重衡は清盛の五男で南都攻撃の際、東大寺や興福寺を兵火によって焼いてしまったときの平家方の総大将である。しかし源平の戦いの中で、平家が一時的に勢力を巻き返したのは、墨俣川(岐阜県)の戦いや、水島の戦い(岡山県)で勝利した後ぐらいであるが、その両方の戦いで平家を率いていたのは重衡である。しかし一の谷(兵庫県)の戦いで義経に敗れ、捕らえられた。
京都から鎌倉に護送され、首をはねられる運命を待っていた重衡は「自分は善行を何一つ
おこなわなかった。このまま処刑されたら地獄にいくことは必定である。」とすでに死人の顔をしていた。彼は戒師(死ぬ心構えをつける説教師)として法然を指名し面会を許された。法然は「罪深ければとて卑下し給うべからず。十悪五逆の者も廻心すれば往生を遂ぐ。」と言い、浄土の法門を説いた。
鎌倉に護送されてきた重衡を見た源頼朝は驚いた。生来の凛々しい表情と、その奥に確信に満ちた人生を歩む人間が放つ輝きがそこにあったからである。頼朝は重衡を殺すことはできなかった。といって鎌倉にいさせることもできないので、京都に送りかえした。重衡はそこで興福寺の僧侶たちにリンチされ殺された。(以上 寺内大吉著「法然讃歌」中公新書より。この本は法然の専修念仏の流行と鎌倉王権成立の関係を知るには非常に有益だ。おすすめする。)
1195年、東大寺再建に莫大な寄進を行った源頼朝は上洛を果たす。そこで大仏像修復に活躍した宋人の陳和卿(ちんなけい)に面会を求めた。(注:この陳和卿は、ちんちくりんのはったり屋の坊主である。彼だけはスケールが小さいと思う。)ところが陳は日本の当時最高権力者である頼朝の申し出を再三にわたって断り、しかも手紙で「国の敵を討つにあたり、貴公は多くの人間を殺した。その罪は非常に重い。そのような大罪人と私は会うことはできない。」と書いた。頼朝はこれを読んで感きわまって泣いたという。(『吾妻鏡 建久六年三月』 河合正治著「武士の生活と鎌倉仏教」より。これはグーグル検索で読めます。)
鎌倉初期において武士たちの罪悪感はみな強かったことをうかがうことができる。
このころ法然の活動もピークを迎えており、法然の門人たちが、次々と鎌倉に入った。
兼実は法然とつながりが強く、鎌倉の情報を法然の弟子たちから、キャッチしていた。また熊谷直実(くまがい なおざね)のように、法然に全面的に帰依した御家人もかなりいたことだろう。頼朝が三ヶ月の京都滞在を終え、帰郷してしばらくして熊谷直実(蓮生房と出家後は名乗っていた)が後を追うようにして、鎌倉にやってくる。そして将軍に面会を求め、念仏義を説いたという。(『吾妻鏡』)源頼朝は直実の講義を一生懸命聞いたと推察される。妻の北条政子もまた熱心な法然信徒で、夫亡き後、剃髪し尼将軍と呼ばれるようになるが、法然と手紙をやりとりしていた。
悪人正機説とは親鸞ではなく、法然がもともと最初に唱えた考えである。そして末法思想と悪人正機の二つがきわめて時代にかなっていたので、武士階級のみならずあらゆる階級の支持を得て、一大集団になっていった。この聖(ひじり)パワーに慈円は苦々しい心境でいた。もともと比叡山で学んだ超エリート僧の法然が、いまや戒律など無視してよいという教えを公然と説いている。そして将軍や、兄の兼実もが法然義に耳を傾けている。さらに後に(1201年)自分が育てた親鸞は慈円のもとを離れ、法然の弟子となった。こうした法然に対する怒りを『愚管抄』でぶちまけている。
今日はここまでです。
田中進二郎拝