[950]現実的によりマシな国家=政府の在り方

加地 龍太 投稿日:2012/04/26 10:25

「副島隆彦の学問道場」学生会員 会員番号7416番
加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下「~だ。~である。」調にて思考したことを記載します。

「現実的によりマシな国家=政府の在り方」

国家権力=政府の権限はなにゆえに国家権力か。

トマス・ホッブズが「リヴァイアサン」に喩えた強大なパワーである国家権力=政府の権限が正当な存在である根拠はどこにあるのか。
「アナーキー・国家・ユートピア」の著者ロバート・ノージック曰く、
あるべき国家=政府とは「ビジネス上の契約を履行させることおよび、暴力、盗み、詐欺から国民を守ることに権限を限定された最小国家だけが、正当な存在である。」とのことである。
そして「それ以上の権限を持つ国家は、何かをするように強制されないという個人の権利を侵害するため、正当な存在とは言えない。」という。

ロバート・ノージックの主張はリバータリアニズム的であるゆえ、個人の自由を蔑ろにする政府の在り方は否定している。
政府のみではなく、あらゆる共同体に対して強制的に個人の自由を侵害する行為を否定する。これは、何派のリバータリアンであってもそうであろう。

リバータリアンは、各個人が自分の選択の自由、判断の自由、契約の自由などに基づき、あらゆる他人と互いに同意の上で諸々の関係を結び、それにより社会=共同体が形成されてゆくことが望ましいと考える。この社会のことを、「市民社会」と言う。

私、加地龍太も、生来の自分の脳髄と性格的に、強大な権限を握った一部の集団がすべてを管理する社会=共同体よりも、市民社会の方が現実的によりマシだと考える。
「強大な権限を握った一部の集団がすべてを管理する」という考えは、中央集権主義の考えである。

マイケル・サンデルが代表するコミュニタリアンたちが肯定している「福祉優先国家=国家優先主義=重税国家」という国家=政府の在り方こそが、「強大な権限を握った一部の集団がすべてを管理する」ということなのである。
この考えは、グローバリスト(地球支配主義者)の考えとイコールである。

このコミュニタリアン=グローバリストの思想は、「自分で自分の危機管理などを解決できない人間たちを、頭が切れる強い人間たち(と勝手に自分で思い込んでいる迷惑者たち)が管理して保護してやろう。」という考えである。
相手が成人した責任能力を持った人間であっても管理して保護する、などという愚昧(ぐまい)な行為をしなければならない、などと考えるのは非常に迷惑極まりない話である。
少なくとも、私はそう思う。自分の自由意志に第三者がちょっかいをかけてきたら誰でもそれを嫌悪すると思うが、どうなのだろうか。

コミュニタリアンは上記のように、「パターナリズム(父親的温情主義)」というリバータリアンに言わせれば余計な迷惑行為を国民に敢行する国家=政府こそが正しいと考える。
リバータリアンは、そのような国家=政府の在り方は肯定しない。

リバータリアンが主張する国家=政府のあるべき姿とは、ロバート・ノージックが唱えた「暴力、盗み、詐欺、強迫、強姦などから国民を守り、ビジネス上の契約の履行を保障する」というものである。そのような国家であるべきだ、と考える。
以下に参考にした著作の一部を引用する。

(引用始め)
人々は、政府が設立される以前から諸権利を持っている。そして人々が「政府に委任する」と表明しない限り、すべての諸権利は人々のもとにある。国家政府は、憲法が認める特定の権力以外は、いかなる権力も持っていない。

デイヴィッド・ボウツ著 副島隆彦先生翻訳「リバータリアニズム入門」P87~88
(引用終わり)

加地龍太です。以上のように、国家権力=政府の権限とは、国民から委任されたものなのである。
強大で獰悪なリヴァイアサン=国家権力は、国民によって与えられ、国家の代表が使用するものである。ウォール街の権力者や霞ヶ関の役人連中という一部の者どものみが濫用して良い性質のものではない。

私は、やはりリバータリアンたちが主張する国家=政府の在り方こそが、
本来の国家=政府のあるべき姿だと思えてならない。

何かご意見がありましたら私のアドレスにメールを送って下さい。
宜しくお願いします。

加地 龍太 拝