[751]偏見にさらされても正しいことを言い続ける。それは誰かが引き受けなければいけない。

平田裕子 投稿日:2011/10/15 16:01

会員の平田裕子です。
 長崎大学の広報誌『CHOCHO』(Vol.36 夏季号:2011年7月発行)から、山下俊一先生のインタビュー記事を見つけました。
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/publicity/036.html

▼総力特集 東日本大震災で長崎大学が果たした役割
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/publicity/file/c036-03.pdf

 多くの方に読んでいただきたいと思い、ここに転載いたします。
(転載はじめ)
<偏見にさらされても正しいことを言い続ける。それは誰かが引き受けなければいけない>

 震災以降、ずっと福島~東京を行き来しているという山下俊一教授。忙しい合間を縫って、長崎に戻られたところでインタビューできました。いただいた名剌には福島のマークも! もうすっかり福島の人のような……。

「はい、もうこうなったらしょうがない。今も福島は異常事態なのですから。多分、あちらにしばらく住むことになるでしょう。引き受けたものの、掃除とか洗濯とかはどうしようかと。でもうちに帰ったら、家内は単身赴任用に荷造りをすっかり済ませていました(笑)」

――先生は、そもそも最初は自分の出番ではないと思われていたとか。

「そう、我々の出番はもっと後だろうと思っていました。実際原発事故で蒸気を調整する弁を触ると言っていたので環境汚染は間違いなかった。ところが三月十五日に状況は一変しました。原発から六十キロ離れた福島市の雪に放射線測定器がガーガー反応した。これはまずいなと。実際、現地の大学の医療職もパニックになっていたし、国をはじめかなり混乱していました。それで要請を受けて自衛隊のへリで現地入りしたのです。放射線に関しては、ずっと研究してきた長崎や広島が出て行かないと収まらない。状況は刻々と変わっているし、平時のマニュアルは通用しない。長崎大学の意思決定も早かったので助かりました。『私は闘うよ』と言うと、学長が『じやあ全面的に支えよう』と言ってくれました」

――放射線についての知識を理解してもらいたい、と福島県内での講演を重ねています。

「だいたい一回あたり五百人ほどで三十回以上、それでも一万人。微々たるものです。だからメディアが大切だった。特に現地のメディアはラジオも新聞も冷静に私の話を伝えてくれましたから、助かりました。それでもね、こういう状況では火中の栗を拾うようなもの。バッシングも最初から覚悟していたことです」

――え、最初から分かっていた……!?

「無責任に煽(あおる)るだけならば誰でもできる。でも科学的根拠でもってリスクについての正しい知識を伝えるのは誰かがやらなければいけない。ただ、ちょっと反省してるのは、私ばかりがやりすぎた。何しろゆとりがなかったからね。非常事態のときは、『シングルボイス・ワンボイス』といって、ブレないほうがいい。しかしこれも一人の力ではだめ、仲間が必要なのです。だから大学教育に意味がある。正しいことを伝える後継者を育てなければならないと思っています。福島の人たちは、私がぼろくそにバッシングされたりしているのを聞いて、『心が折れそうだ』と言っている。それが可哀想でね。それにしてもとにかく事故が収束しないことには……もう、こればっかりは折るような気持ち」

――講演の質疑応答でも福島の人たちに本当に真摯に向き合っていますね。

「うん、それは患者さんとの対話と一緒です。これだけネガティブファクターがある中で、誰かが前面に出て引き受けないと。まあ本当は国や県がやるべきだけどね。この前も、お母さんたちが不安がってね。市民大清掃の日が来る、ドブさらいとか心配だと。だから私は『男は大丈夫なんだから、男にさせなさい!』。そしたら会場のお母さんたちは大拍手(笑)。しかしこの二か月……自分の人生では一番したくないことをやっていますね。罵倒されたり。本当にすごいよ。たまにこうして長崎に帰ってくるとほっとします。人生にはいろんな岐路があって、ラクな方と険しい方、右か左か選ばなければいけない。険しい方を選ぶのも、人生かな」

――なぜ、そちらを選ぶのでしょう。

「永井隆(ながいたかし)博士(平田注釈:永井博士は、1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾に多くの市民とともに被爆し、白血病と闘いながら被爆者への救護活動を続け、原爆に関する医学的な研究と多くの著作を残した)はずっとそうだったからです。彼も自分が苦労する方を取った。常に死と向き合っていた彼は死に向かって努力をし、苦労する方が天国への貯金になると思っていた。僕もクリスチャン、迫害を受けてきた浦上(うらかみ)の子孫ですよ。だから人生観の中にそれがあるんでしょうね。まあとにかく、居合わせた人がベストをつくす。粘り強く、ギブアップしないで。今回の勝負はそこです」

 JR福島駅では、毎日夕方十八時になると、永井博士ゆかりの「長崎の鐘」のメロディが流れるそうです。作曲した古関裕而(こせきゆうじ)氏は福島県の出身なのだとか。二十年前、福島を最初に訪れた山下先生は、そのメロディを聞きながら、運命的な「縁」を感じたそうです。

「福島には、原発の収束が未だ見えず塗炭(とたん)の苦しみにある避難民、そして放射能の土壌汚染、環境汚染の中で生活を余儀なくされている方々が多くおられます。そのうえ風評被害や精神的影響も重くのしかかっている。私はその苦しみを分かち合いたい。長崎の人間はみんな、無念のうちに亡くなられた原爆被害者の『思い』を受け止めて生きてきました。今、放射線に翻弄(ほんろう)されている福島の応援団として先頭に立つのは当然のことだと思いますよ。大丈夫、日本人がすべからく福島の重荷を背負っていけば、ちゃんとやっていけます。要は人の心の問題だから」

 山下先生はそう言って、静かにうなずきました。

やましたしゅんいち
1952年長崎生まれ。長崎大学大学院医歯薬学総合研究科長。1990年より原発事故後のチェルノブイリを100回以上訪れ、国際医療協力に尽くす。2005年~07年、WHO(世界保健機構)ジュネーブ本部で放射線プログラム専門科学官を務める。2011年福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに任命される。

●世界で唯一被爆した大学としての使命
 今回、福島で活躍している山下俊一教授や高村昇教授をはじめとする先生方は、国のグローバルCOEプログラムに平成19年度に採択された「放射線健康リスク制御国際戦略拠点」という重点研究課題に取り組んでいます。なかでも国際放射線保健医療研究は、チェルノブイリやセミパラチンスクをはじめとする汚染地域の研究機関や放射線医療科学の世界トップレベルの拠点など、18拠点と国際的なネットワークを結び、放射線が人体におよぼすリスク(危険性)を明らかにし、制御していくものです。被爆から66年。これまで長年積み上げてきた放射線に関する高度な知識を応用し、放射線健康リスクコミュニケーションの人材育成に力を注いでいます。

(長崎大学広報誌 CHOCHO Vol.36 夏季号:2011年7月発行)
(転載おわり)

 私はこの記事を読んで、山下先生がどのような気持ちで福島で活動されているのかがわかりました。とても強い意志を感じ、そして感動しました。「ラクな方ではなく、あえて険しい方を選ぶ」という山下先生に賛同します。私は、人には優しく自分には厳しくありたいと思います。