[869]何かの物事を成就させる人間

加地 龍太 投稿日:2012/02/06 22:41

会員番号7416番
「副島隆彦の学問道場」学生会員、加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下、「~だ。~である。」調にて私、加地龍太が司馬遼太郎氏の歴史小説群「国盗り物語」「竜馬がゆく」などを読書して考えたことを記載させていただきます。

現在、日本および世界の社会は秩序が古びている。どれだけ素晴らしい人間が作った秩序でも、秩序は必ず時代と共に古びてゆき、新しい時代に適合する秩序が要請され出す。
司馬遼太郎氏の著作「国盗り物語」第二巻P255に「歴史が、英傑を要求するときがある、ときに。--時に、でしかない。なぜならば、英雄豪傑といった変格人は、安定した社会が必要としないからだ。むしろ、安定した秩序のなかでは百世にひとりという異常児は毒物でしかない。が、秩序はつねに古びる。秩序が古び、綻(ほころ)びて旧来の支配組織が担当能力を失ったとき、その毒物が救世の薬物として翹望(ぎょうぼう)される。」と記載されている。
私は、日本国王・小沢一郎こそが上記の「泰平の世の毒物であり、変革期の薬物」に相当すると思う。今までの正当であった秩序が古び、その時代の権威的団体や社会管理団体(日本の官僚機構など)が時代を担当する能力を失ったとき、天(時代)が英雄を要請するのである。
英雄とは、何かの物事を成就させる人物のことである。
物事を成すに当たって最も重要なのは「人間の魅力」なのだと、私は思う。
知識や技術も大切だが、この世で物を言うのは人数だ。
司馬遼太郎氏の著作「竜馬がゆく」第一巻P218に「桂小五郎は、自分を魅了するような議論や思想を竜馬が持っていないからといって軽侮しなかった。「あんたには、英雄の風貌がある。」といった。「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ。私(桂小五郎)にはそれが乏しい。しかし、あなた(坂本竜馬)にはそれがある、と私はみた。人どころか、山でさえ、あなたの一声で動きそうな思いがする。」」と記載されている。
上記の記述の通り、この世では数が多い側が絶対に強い。だからこそ、小沢一郎氏は自分のビジョンを実現させるために、自分の同胞を沢山作ったのだろう。
そして、人数を動員するための「人間の魅力」以外の要件が「金銭力」だ。
一般企業も役所も暴力団も、あらゆる団体が人数を集めるために金銭を使う。その集団に勤めている人々は、一方的な見方をすればカネ(給料)で買収されているのである。
これに対して「人間の魅力」で人数を動員する人物たちの一例は俳優や歌手であろう。「人間の魅力」とは、「人気」である。人気がなければやることなすこと全てが悪事に取られ、物事が成就できない。
私が思うに、人数を動員するこの二つの要件を比べた場合、「人間の魅力」よりも「金銭力」の方が現実的には強い。
以前、海江田万里氏と野田佳彦氏が首相選挙で争ったとき、小沢一郎派の国会議員たちの一部が財務省に買収されて野田佳彦に鞍替えして票を入れたのだという。(副島隆彦先生の著作「金・ドル体制の終わり」と「今日のぼやき 1243番 野田佳彦が首相に決まったが、これは勝栄二郎の財務省が操(あやつ)る傀儡(かいらい)政権である。 副島隆彦」参照)
「金銭力」の強さである。
現在、私には「では、どうしたら良いか。」という答えは判らない。
たとえ、とろけるほどの「人間の魅力」を持っていても、その人物に他人を養うだけの経済力がなければ人数は集められないと思えてならない。
私、加地龍太は、今後もどうすれば良いかを思考してゆく。

どなたかご意見がありましたら私のメールアドレスにメールを送って下さい。
一緒に考えてくれる方を歓迎します。しかし、私事(わたくしごと)で恐縮ですが、明日から2月9日まで鹿児島に行くのでもしメールを下さった方がおられても返信は9日以降になってしまいます。申し訳ありません。

尚、私は「竜馬がゆく」はあくまで物語であると認識しており、あの小説の中で描かれている「司馬竜馬」をそのまま「坂本龍馬」だと思っている訳ではありません。
しかし、「竜馬がゆく」という作品自体は人生教科書になるくらいの名作だと思っています。
エドウィン・ライシャワーが日本のマルキストたちに対して、マルクス主義的歴史観の解毒剤として、そして「近代化論」の布教・流布のために司馬遼太郎氏に「竜馬がゆく」を執筆させたというアメリカ帝国側の政治的謀略(今日のぼやき 1246番 『日本再占領:消えた統治能力と第三の敗戦』(成甲書房)に載せきれなかった一章(2) 宇宙人・槙原稔と戦後日米関係 中田安彦記 参照)もあったのでしょうが、一読するに足る名作だと思います。

加地 龍太 拝