[863]大学生の政治的無関心

加地 龍太 投稿日:2012/01/30 02:00

こんばんは、会員番号7416番、加地 龍太(かじ りょうた)です。
「書生1」というハンドル・ネームを使っていましたが、副島先生から
本名で書き込んだ方が良いと言われたので今後は本名で書き込みます。
以下、「~だ。~である。」調で「大学生の政治的無関心」について書きます。

私、加地龍太は現在20歳の都内の大学に通う大学生である。大学での知り合いなどに少し政治の話を振ると大抵の人間が「興味ない。関心ない。」という態度を取る。中には小沢一郎という名前すら知らない人たちもいた。
なぜ、このようなことになっているのだろうか。私は、目先の諸問題(就活、アルバイトなど)に時間を食い潰され、他のことを考える余裕がないということが理由の一つとして挙げられると思う。とある友人たちに質問しても「政治について考えている余裕がない。」と言う。真実、経済的に恵まれていない人々はアルバイトを夜遅くまでやっているから本を読む時間がない。それゆえ、政治について考えている余裕がないということは認める。
私のような比較的恵まれた家庭に生まれ育った人間の出来損ないとは異なり、立派な人たちだ。だが、真に立派なのは、上記のような過酷な境遇の中でも本を読み、独学で諸々学んでいる人たちだ。しかし、そのような人たちはどうやら少数派だそうだ。
私の知り合いにも、家庭環境が恵まれているにも関わらず、本を読んで独学せずに「ただ念仏を唱えているいるだけ」の下らぬ大学の授業を受けて、
「自分は何かを学んでいる」と思っている白痴(はくち)がいる。
私のような人間の出来損ないに白痴呼ばわりをされている究極のボンクラである。このような阿呆はきっと一生涯、何かと理由を付けて本を読んで自分の頭で考えるということをしないで死んでゆくのだろう。
話を戻し、生活に余裕のない政治的に無関心な人たちにいかにして政治的関心を持っていただくかを思考する。
私が思うに、政治的に無関心な人は政治に対して「自分に関係のないこと」だと認識しているのだと思う。
デール・カーネギーの著作「カーネギー 心を動かす話し方」という本の中で、「人間は利己的なものである。人間は主に自分に関係のあることにしか関心を示さない。この次、あなたがどこかで講演するとき、聴衆は講演者の話が聴衆たち自身に関したものである限り、講演者の話を熱心に聞きたがっているのだと心に思い抱くことだ。」という意味のことが書かれている。
私はこの通りだと思う。現に私が通っている大学でも、上記の聴衆に当たる大学生が熱心に話を聞くのは、自分自身に関係のある就活に関する授業ばかりである。
それならば、政治が自分自身に関係あることだと大学生に思わせれば良いのだが、どうすれば良いか。私としては、「税金や社会制度は直接自分の生活に関係するのだ。ゆえに政治はあなたに取って関係あることだ。」と説く、などと言うありきたりなことしか今は思いつかない。
私は、実際に大学で友人たちに副島先生のことを紹介しながら政治や経済や歴史の真実の話を語っているが、マスコミや教科書や念仏を唱える教師たちが語らない「生(なま)の世界情勢」にはそれなりの人数が少しだけ関心を示す。だが、自分で深く知ろうとはしない。いつも私が一方的に語るだけになっている。
ここまで来ると、政治に無関心な人間は死ぬまでそうなのではないかと思えてくる。だが、やはり日本国に住んでいる日本国民である以上は、日本の政治について思考するべきだと思う。政治は直接的にしろ間接的にしろ、自分自身に関係することなのだから。

何かご指摘ご意見などがありましたら、是非ともメールを下さい。
宜しくお願いします。

加地 龍太 拝