非有罪状態

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2011/01/04 21:19

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 サイト内でトップページから行けない、かつての懸賞政策論文掲載場所を見つけました。

http://www.soejima.to/kensho/001.html

http://www.soejima.to/kensho/002.html

http://www.soejima.to/kensho/003.html

http://www.soejima.to/kensho/004.html

http://www.soejima.to/kensho/005.html

http://www.soejima.to/kensho/006.html

http://www.soejima.to/kensho/007.html

 

 さらに新人のセミナーという掲載場所がありました。2年足らずで終わったようです。

http://www.soejima.to/seminar/kako.html

 

 その中で1つ気になった文章があります。古市さんというかたが書いた文章のようです。同じ学問道場サイト内ということで、転載貼り付けさせて頂きます。

 

http://www.soejima.to/seminar/wd200007.html

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

~刑事裁判における「無罪」の用語使用は妥当か~    古市

日本の刑事裁判において、検察が起訴して有罪になる確立はほぼ100%だという。 検察は「無罪」によって威信が傷つくのを畏れ、マスコミは一般人は「無罪」によって清廉潔白が証明されたのだナア、と感じ取る。
しかし、この刑事裁判における「無罪」の用語使用は妥当なのか。

刑事裁判というのは国家権力によって人を処罰するものであるため、事実の認定は厳格でなければならない。 そのため、同じ事件でも刑事裁判では責任なしの結論なのに、民事裁判では事実の認定の要件が甘いために責任あり、ということが少なからず起こる、ということは割合知られている。

この例で、全米を揺るがしたのがOJ裁判である。 この時OJに下った判決は「無罪」なのだが、判事は英語で”innocent”と言わずに”not guilty”と言ったのを聞いた時、なにか引っかかったのを覚えている。

そう、「無罪」なのは、清廉潔白だからではなく、証拠不十分につき、だからなのだ。 ゆえに、<無罪>から<非有罪>に言いかえるべきではないか。

「 証拠不十分につき、非有罪(有罪に非ず)。」これなら、

「へたに無罪判決が出れば、清廉潔白な人を犯罪者扱いしたと世間から叩かれる」との呪縛から検察も放たれるし、「証拠が不十分だけど、どうもこいつ悪そうだから有罪にしとくか」との冤罪からの呪縛から裁判所も放たれるし、「無罪判決が出たからこの人は濡れ衣だったんだ」との勘違いから一般人も放たれる。

ちょっとした言葉のあやの問題にすぎませんが、刑事裁判の判決における”guilty”と”not guilty”という言葉の背景と対立軸、そして思想とを正しく理解して勘違いを少しでも無くすのに、この用語の変更は貢献するのではないか?と考えます。

時には合法的に人を殺すこともできるシステムについての問題です。議論に値しない、ということはないと思います。

(法律用語についての用法が間違っているところがあると思いますので、見付けたらここでどんどん因縁つけてください。)

2000/07/30(Sun) No.01

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

 この古市さんの投稿文章はとても重要、どころか大変重要ではないでしょうか。

 私には”guilty”と”not guilty”と”innocent”などの英語と、適切な日本語訳というものが分からないのですが、確かに「無罪」と「無実」の区別もつかないような平均的日本人の現状を考えれば「非有罪」という言葉は意識改革の効果があるのでは?

 日本語には「無実」の反対の「有実」という言葉がないことも併せて考える必要があるかと存じます。ここと英語との対応関係が問題となりますが。

「非有罪」は無罪の推定と同じく「無罪」であるわけですから、結果的には「無罪」と同じです。立証責任は原告側、日本の刑事裁判の法廷においては検察官にあります。証拠不十分では「非有罪」としなければならないでしょう。感情的な反発があるのはよく分かります。

 基本的に灰色はありません。灰色は、全て白です。明確な黒だけが黒です。黒に限りなく近い灰色は、白です。黒ではないが「非有罪」、単なる白が「無罪」でしょう。それでも結果的には同じことです。「非有罪」は全て「無罪」に入ります。

 人間味のない論理学の欠点だ、法の論理学は見せ掛けの偽物だから欠陥だらけだという前に、本当はある事実があったかどうか、「有実」か「無実」かというのは突き詰めると分からないということになるので、だから前提として社会生活を営む人類には裁判が必要になるということです。

 むしろ有罪宣告を受けていない全人類は嫌疑がない「非有罪状態」にあるといえます。

 三権分立にしても、行法や司法があからさまに直接裁判を行うと批判も直接くるので、司法というものを作って担当させるということになっています。司法の裁判所というのは、かなりの程度で建前の世界です。近代法の国においてすらそうです。日本ではよく機能しているようにみえるというのは、ただ単に警察と、それから法務・検察が幅を利かせる有罪率ほぼ100パーセントの監獄国家であるというだけの話です。判検交流をただちに一切禁止せよ!

 西暦2000年に投稿されていますが、それから約10年が経過しようとしていても、日本人の前近代法意識が近代に向けて前進しているようには見えません。

「時代状況の推移と成り行きによって知らぬ間に近代に入る」などということはないのでしょうか。「作為の契機」がなければ、いつまでも滑走路を走り続ける飛行機のごとく離陸出来ずに、いずれ道路が切れるのではないか。