文書の倉庫 (6)歴史研究・日本属国史研究 転載貼り付け1

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:17

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 引き続き「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (6) 歴史研究・日本属国史研究
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=6

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/10/26(Thu) 12:47
投稿者名:かたせ
タイトル:(証拠発見)親鸞に対するキリスト教の影響について

副島隆彦先生の「ハリウッドで政治思想を読む」の中で、親鸞の教説がキリスト教の影響を受けているとの指摘があります。
128ページから引用します。

(引用開始)
『スター・ウォーズ エピソード1』で、一番光っていたのは、やはり東洋的な惑星ナブーの女王であるクィーン・アミダラ役を演じたナタリー・ポートマン(Natalie Portman)であろう。
(略)
女王アミダラというのだから、これは中国仏教の浄土門における阿弥陀如来(アミダニョライ)からとった人物像であろう。タイやチベットの仏教には阿弥陀信仰はないだろうが、似たような女神ならいるだろう。如来は、シャカムニの姿の一つ(化身)だから女の仏はいないはずなのだが、観音菩薩などは、どう見ても女神像。五~一二世紀の中国で栄えた阿弥陀如来の流れである。
おそらく、阿弥陀如来は、本当は、キリスト教のマリア信仰が、トルキスタン(中央アジア)を越えて中国にやって来たものだろう。その途中で、仏教の中に変形されて取り込まれた信仰である。それらは日本の最高学問機関であった比叡山に仏典の形で多くもたらされた。こうして日本までたどりついた時に、法然や親鸞の日本浄土宗になった。親鸞上人は、比叡山で修行僧だった時に、この浄土教の仏典を読んだが、その中に、他の経典の中に紛れこんでマリア信仰が中国的に変形して中国語(漢文)仏典になっていたものがあったのだろう。たとえば親鸞上人は、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」で知られる。これは、「善人なほもて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや」という例の文句で有名である。善人であれば極楽浄土へ行くことができる。そうであるならば、あればなおさらのこと現世で悪行を重ねた者は、極楽浄土(天国)に行けるのである、という強度に逆説的な理論である。浄土宗では、人間は、現世ではただひたすら念仏をとなえさればよしとする。この親鸞の「悪人正機説」は、日本の知識階級に何世紀もの間支持されてきた思想だが、どう考えてみても、これはキリスト教、とりわけパウロの説教である。
だから日本の浄土宗の原型は、中央アジア経由のマリア信仰であり、キリスト教の変形したものである。この考えは、おそらく日本の仏教研究学者たちの間でも長い間、密かに語られてきた事実であろう。私は、まだその手の仏教学の裏の論文に行き当たったことがない。しかし、もうすぐ捜し出すだろう。
(引用終わり)

東方キリスト教(景教)が、親鸞に直接影響を与えていることを示す本をみつけたので紹介します。
「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」(著者:久保有政、ケン・ジョセフ、徳間書店、2000年2月29日初版)
170ページから172ページの内容を要約すると以下の通りです。

「世尊布施論」という経典が京都・西本願寺に宝物として保管されています。非公開。新約聖書「マタイの福音書」五~七章の「山上の垂訓」を中心に、キリスト教の教義が記されています。ここでの「世尊」とはイエス・キリストのこと。経典の写真が掲載されていました。漢文で書かれていて、いわゆるお経と同じ体裁をとっていました。
詳細は、上の本を参照ください。

また、この本には、奈良時代の光明皇后が東方キリスト教(景教)の強く、影響を受けていたことの論証等も含まれています。

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/10/31(Tue) 20:31
投稿者名:志村
タイトル:『日本の秘密』内「丸山真男の死」

(自分の意見始まり)
「丸山真男の死」は、丸山論である以上に、戦後民主主議論、戦後知識人論として読ませていただきました。

(自分の意見終り)

(副島隆彦の本文始まり)

  丸山真男の死

 日本の戦後を代表したとされる政治学者の丸山真男が死んだ記事は、一九九六年八月十九日に載った。朝日と日経で読んだ。十五日に死んでいたのだという。丸山の死に対して、そのときの私には、たいした感慨はなかった。ああ、遂にこの人も逝ったのか、ぐらいのものである。不思議なぐらいに感慨が湧かない。私の丸山真男に対する判定は、大きく言えば、結局は彼はソビエト共産主義の手先の役割を日本で長年に渡って果して来た人であった、というものである。「前衛」ではなくて、『後衛の位置から』(一九八二年)という彼の本のタイトル自体にこのことがよく表れている。丸山の『現代政治の思想と行動』(一九五六―五七年)と『日本政治思想史研究』(一九五三年)とそれから岩波新書の『日本の思想』(一九六一年)は学生時代に読んだ。書棚からひっぱり出せば、赤線がたくさん引いてあるだろう。
 学問としての政治思想が幅をきかす時代では全くなくなっている。特に、左翼政治思想は、ほとんど死滅したに等しい。一般の政治評論でさえ、たいして有難がられることはない。政治思想や政治に関係する学問について、強いあこがれを感じた世代の末尾に私は属する。本はたくさん読んだつもりだ。しかし、あれから二十五年。私自身にとって、たくさん読んだあれらの本は、そしてそのために投入した数千時間の人生時間は、有効な投資結果を生んだのか、と自問すると、答えは、否定的である。生まなかった。残念な話ではあるが。
 あの頃の丸山の本が、せめて今、私が実際に生きている現在に対して、教養や知識として、何かの役に立っているか。おそらく、たいして役に立っていない。

 私は、長い間考えた末に、日本のようなアジアのはずれの国に、世界に先駆ける何か新しい秀れた大思想など生まれることは、ありえないのだ、という結論に達した。三十歳ぐらいの時である。イギリス、フランス、アメリカでまだ実現していないものが、日本ごときで実現するはずがないのだ。私は、人間社会のあり方に於て、こういう進化論者(時間進歩主義者)である。日本の知識人がやること、考えること、書くことなんか、全て、一切合切、輸入学問であり、欧米知識人の猿真似である。そうでしかありえない。奈良・平安時代も室町時代も江戸時代も、ずっとそうだった。ずっと歴代中華帝国で栄えた思想・宗教の輸入学問であった。私にとっては、これは、もう確信だ。
 日本の伝統――それは、文化の劣性遺伝子だ、と吉本隆明が書いていた。あの頃の吉本だったら、私は今でも信じている。
 最近の、この十年間の吉本、とりわけ最近の五年間の吉本からは離れてしまった。もういい加減、書くのはやめてくれ。「あなたの書くものは、もはや読むにたえないよ」と感じていた。この八月初めに吉本が西伊豆の海で、海水浴の最中に溺れて、死にかけたという事件があった。あのときにも、私は不思議に驚かなかった。自殺ではないのか、と疑念が起こったぐらいのものだ。編集者のO氏に連れられて病院まで見舞いに行ったが、面会謝絶で会えなかった。もういいよ、もう吉本の本は読まなくてもいい、という気持ちだ。同じく丸山の本にしてもそうだ。もう読む必要はない。知識と情報としても、もはや、何の足しにもならない。それよりは、アメリカとイギリスの政治評論雑誌に載る向こうの一流どころの知識人の英文評論文をコツコツと読む方が、ずっと為になる。日本の知識人や学者の書く文章など、読む必要などない。
 丸山の死亡記事(朝日新聞)のわきに、大江健三郎のコメントが載っていた。これには笑ってしまった。このコメント(発言記事)だけが、きわめて印象的である。
 新聞の追悼文は、次のように結んであった。

  文化勲章の辞退のことで苦しかった時、先生から励ましの手紙をいただきました。そこでの、現実派知識人への上品な軽侮が愉快だったことも思いだします。

 ここで「現実派知識人」とは、自民党支持の保守派の言論人総体のことを指しているのだろう。そうすると、それとの対比で、丸山や大江は自分たちのことを、「理想派知識人」だと考えていることになる。何の理想か? 人類のあるべき理想か? 大江のこの肚のすわった居直りに近い発言が、気に入った。丸山は大江と同じで、最後まで反省しないで、反体制、反保守、反資本主義を貫く気だ。彼らリベラル派の日本知識人は、反省なんかしないで、自分の足元の現実が、ずいぶんと意に反したものになってしまったとしても、あくまで、旧来の自分の主張を貫いて、一貫するしか他にないのだ、と私は思った。八〇年代に入ると、福田恆存が創始した「進歩的文化人」という言葉でひとくくりにされ、軽蔑され、批判され、揶揄される時代になった。ソビエト・ロシア(ロシア・マルクス主義)=ソビエト帝国が滅んだのが九一年八月で、それから五年が過ぎて、反体制・反保守派は、社会全体からすればずいぶんと旗色が悪くなりつづけた。しかしそれでも、朝日新聞(発売部数六百万部)に表われるごとく、こんなにも丸山たちはまだまだ強い。私のような、「負け組」(やっぱり自分は間違っていたな、負けだったと率直に認める考え)は、少数派であって、ほとんどは、ダンマリを決めこんで、日本敗戦直後のブラジル日系人の「勝ち組」と同じく、まだ反保守のままである。どうやら「反体制」であることはやめたようだ。従来どおり反資本主義ではあるが、何を次の信念の柱にするかは見つからない。そういう現状だ。
 丸山は、日本知識人の中では、ずばぬけて頭は良かった。丸山は、西欧政治思想が理解できた珍しい日本人だ。だから、きっと西欧の近代思想家たちの伝統の方に逃れ出て、そこを自分の柱(依りどころ)にして、生きたのだろう。即ち、丸山は知識・学問伝統主義者だ。権力者や支配者を批判するヨーロッパ知識人の伝統に乗っかって行くと決めたのだ。その丸山の本を読んで、それに頭の中だけ(生活は別だ)持っていかれた者たちは、後に放ったらかしにされた。丸山のファン(信奉者)とは即ち、棄てられた知識大衆だ。敗戦直後にファシストや天皇に棄てられたのも知識大衆だった。戦後、左翼思想にしがみつき、のめり込み、そして、それに棄てられて、ろくな人生をおくれなかったのも、知識大衆だ。自分を知識層だと勝手に思い込んだ大衆だ。数十万人の特殊な大衆たちだ。結局、大衆であることに変わりはない。その代表は、公立学校の教師のような連中である。彼らが懸命に読んだのが丸山や大江の本で、丸山も大江も、つまり、人だましが上手な言論商売人だった。
 一九四五年八月の敗戦と共に、多くの日本の知識大衆は、激しい思考停止状態に陥った。あるいは軽い精神錯乱状態に入った。あんなに自分たちが信じ込み、正しいと教えられた天皇体制と神国日本はガラガラと崩壊した。戦争中に受けた軍国主義教育に激しく怒った知識大衆は、何と、あろうことか、その直後に、東京神田の神保町にある岩波書店の前に列を作って、今度は岩波共産主義のとりこになったのである。そして、岩波・朝日のソフトな共産主義(日本的リベラル)の思想的従僕となってこの数十年を生きた。この岩波知識人・東大教授の筆頭が丸山真男であった。
 とんでもない話とはこのことだ。軍国主義教育にだまされたと気づいた。そのすぐあとに、今度は、岩波共産主義というソビエトの手先の思想に自らすすんで洗脳されに行った。つくづく遅れた国の知識階級というのは救われない。
 吉本はどうなのか。吉本は、かつては、「自立しろ。知識人として自立しろ」と書いたから、やっぱり昔の吉本は正しい。私自身は、なんとか知識人として、筆一本で喰べられるようになったから、自立した。だから私は、「負け組」という自分の旗を潔く立てながらも、まだ持続してゆける。誰を恐れることもなく、何に媚びる必要もない。他の、自立できなかった自分とよく似た知識大衆たちのことを考えることがあるが、どうにもならない。それぞれの人生が過ぎ去っていった、としか言いようがない。

 人は人生の年月の中で、五年、十年の単位で、自分の考えが変わってゆく。その変わってゆく自分を、しっかりと記録しつづけることだ。あのときは、ああ考えて、ああ信じていたが、今では、このように変わって、こう考えている、と書くこと。なるべく正直に書くことだ。自分に向かってきちんと文字で書いて確認してゆく作業をすることである。それが、知識・思想・学問なのだ。人間は年を重ねるにつれ考えが変わってゆく生き物だから、それでいい。それが成長するということなのだ。だから、知識・思想・学問というのは、何か新しい知識を西欧やアメリカから持ち込んで、自分勝手に改作、変造して日本語で適当に売りさばくこと、なのではない。

 今の私は、このように考えている。だから私は、吉本の、「転向とは、人間が成長してゆくことだ」と書いた転向論としての吉本の思想観を、今でも受け継いでいることになる。昔の吉本はやっぱり偉かった。
 しかし、吉本のいけない点は、誰もが吉本のように、筋を通して孤高を守って、市井の片すみで、コツコツと自らを自動書記機械と化して、思想家として立て篭って生きれる、のではないことを、吉本自身が自覚しなかったことだ。この点で、吉本思想は決定的に間違っている。吉本の真似なんかして生きたら、とんでもないことになる。その唯我独尊を雰囲気として真似ただけでも、周りから嫌われて、煙たがられて、損な生き方になるに決まっている。私自身が、そのような協調性のない損な生き方をして、ずいぶんと損をした。もう、吉本主義者と呼べるような人々も、三千人ぐらいしか残っていないだろう。やがて消えていなくなる。そういうものだ。私は、そろそろ、『さらば吉本隆明』という本を書こうと思っている。その中で、丸山真男の思想についても、ついでに冷酷な業績判断を下すつもりだ。

 続いて八月十九日夕刊(朝日)に、丸山真男の語録が載っていた。「日本は、タコツボ型である。ササラ型でない」。たった一行の言葉であるが、これは、スゴイ言葉であった。私は、この一行に於て、丸山に今でも頭を下げる。この思想は『日本の思想』(岩波新書)の中で書かれ、しゃべられたものだ。日本の文科系の学者の世界は、思考に共通の土台を持たず、ひとりひとりがバラバラに書いている後進国型の知識制度であるタコツボ型である。それに対して、西欧知識人の世界は、さかのぼってゆけば、思考と知識に共通の土台を持つササラ式になっている。このことを丸山は鋭く見抜いた。日本の文化・知識・学問の劣等性を、これ以上にはっきりと語ったコトバは今だに無い。
 この他はもういい。『超国家主義者の論理と心理』(32歳)(「世界」一九四六年五月号)が、政治学者の丸山の記念碑的な代表作である。この論文が日本人の代表的知識人の業績として、ハーバード大学のニューディーラー=グローバリスト、日本管理・対策班である日本研究学者たちの間で無理やり評価されて、英文にもなって認められただけのことである。その中身は「東条英機以下の戦争責任者たちは、日本を無謀な軍国主義に導いた人々であり、有罪である。天皇中心体制は、誰も責任をとらないアジア的な無責任の体制である」とするもので、今でも世界で通用する日本についての議論の仕方だ。世界で通用する議論だから、丸山は偉い、ということになる。アメリカのグローバリストに承認されていることが、丸山の強みであった。他の学者たちのように、日本民族主義の肩をもって、国内にたてこもって、日本語で、ゴモゴモ書いてみたって、何にもならなかった。丸山が欧米の日本学者から政治学者として認められた筆頭の日本人だったのもやはり当然だろう。しかし、欧米は、丸山を、日本人の代表として、ワールド・ヴァリューズ(world values 世界普遍価値)=ウェスタン・ヴァリューズ(western values 西欧的価値観)が一応分かっている人物、と認定しただけなのであって、丸山がそれ以上に、秀れていると扱われたわけではない。丸山を含めて、日本の学者・知識人など、欧米の一流どころからは、本気で相手にされない。日本語という言葉の壁があるからでもあるが、このことはこのことで、仕方がない。
 丸山の本で、一番出来がいいのは、案外、『「文明論之概略」を読む』(岩波新書、一九八六年)であろう。この本で、丸山は、福沢諭吉を淡々と論じながら、日本国の悲しい切実な「欧米化」を描き出して、相当に高い水準に達している。新聞に載った丸山語録には、他に、

  憲法第九条というものが契機になって、ひとつの新しい国家概念、つまり、軍事的国防力というものを持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないか。

 というのがある。これが、やはり、丸山の決定的な最後の言葉だろう。この日本国憲法=人類の理想の最先端を行く憲法、という考え方は、吉本隆明も強く推す考え方だ。この点では、丸山と吉本は、同じところに到達している。戦後の五十年間を生き延びて、この二人は、結局、共通の結論に至っている。この二人の日本左翼思想家は、自分たちが条件付きで礼賛し謳歌した「戦後民主主義」なるものが、アメリカのグローバリストたちによる「日本国民洗脳空間」であったことにまで、遂に考えが及ばなかった。この二人の限界はここだ。
 ここでは、吉本隆明の『丸山真男論』については言及できない。吉本が丸山をどのように批判していたのか、この本を引っぱり出さないと内容を全く覚えていないからだ。
 私は、この二人とは全く逆のところに至りついてしまった。日本国憲法の第九条の戦争放棄・非武装・戦力(国防軍)不保持というのは、ダグラス・マッカーサーという男と、その部下のフランクリン・ローズベルト時代に始まるニューディーラーという隠れ社会主義者たちが、敗戦直後の日本に制服者として乗り込んで来て、日本国民に作って与えた、よく言えば理想主義の憲法である。悪く言えば、日本国民を上から強制的に人格改造した。異様な統率力を持つ、狂暴な性質を併せ持つ東アジアの一種族である日本人が、再び暴れ出してアメリカに軍事的に反抗し、アジア覇権を求めないようにと、ガッシリと枠をはめるために作って与えた憲法である。
 日本国民は、この日本国憲法と日米安全保障条約と、その付属条約である日米地位協定(アメリカ軍駐留条約)の三つによって、完全にアメリカの支配下に置かれた。私は、今は、この考えを信じている。大きな世界史的事実からすれば、こっちにならざるを得ない。だから、私は、戦後の自民党(民族主義保守党)がずっと、党の綱領(ポリティカル・プログラム)の中に保持して来た、「アメリカの押しつけ憲法を廃して、自主憲法を制定する」という考えと、今ごろになって一致した。というか、やっと数十年遅れで、追いついた。ところが、そうしたら、何と自民党自体が、その「自主憲法制定」という自分たちの政治綱領を隠してしまって、表に出さない状態である。どうやら自民党そのものも、内部から、妙な勢力に乗っ取られてしまっているようなのだ。
 だから、今の憲法を守ろう、死んでも守ろう、即ち、「護憲」など、私は全く言う気がない。それは、この日本国憲法の第九条が、世界に冠たる秀れた戦争放棄理想だなどという考えを、世界中の人々の方は、全く相手にしない、評価しない、鼻もひっかけない、ということを、よく知っているからだ。アメリカや西欧諸国どころか、世界中のどこのリベラル派、反体制派の人々でも、日本国憲法を読んだとして、その九条を読んで理解したり共感したりする人など居はしないことを、私は知っている。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、そうなのだ。日本の平和憲法が、諸国に先駆けた優れた憲法だなどと考える外国人は存在しないのだ。その理由は、一体、誰が、この憲法を作ったのか? という一点にかかっている。作ったのは、日本人ではない。この一点からして、絶対に、立派な憲法典のわけがない。

 私の思想と確信は、はじめの方で書いたとおり、日本が世界に先駆けて何か新らしい思想・知識・学問を作ることは、ありえない、というものである。イギリス、フランス、アメリカにもまだ無いものを、日本が先に作るということはありえない。この考えに立つから、理想的な憲法、などと言われても、それを信じるわけにはゆかない。
 もっとはっきり言う。日本はやがて、憲法九条の第二項を改正して、自衛隊を改編し、国防軍(国軍)を創設するだろう。それから、将来起きるアメリカ軍の撤退に合わせて、自衛武装せねばならないから、故に、核を保有することになるだろう。日本は中国の核の傘の下に入ってしまうから、その事態に我慢できる日本人は、ほとんどいないからだ。だから憲法九条を改正するだろう。どうせ、そうなるのだ、どんなに反対しても、世界史の中の日本として、そうなるのだ、と、私は書くしかない。
 私は、あとから生まれた若い世代の知識人として、ここで丸山真男と、吉本隆明に対して、あっきりと対決することになる。広島・長崎・沖縄の人々が、どんなにいやがっても、日本は、この道を選ぶのだ、放っておけば必ずこうなるのだと、私は考えている。
 日本だけが、勝手に、世界の現実、即ち、国家と国家の利害のぶつかり合いを中心として動いている現在の世界、を廃止へ向かわせる、などと考えること自体がおかしい。
 国境線を取りはらって、国家を消滅に向かわせて、人間の移動が自由になる、などというのは、あと少なくとも百年ぐらい先の話であって、今、実現できることではない。国民国家(nation state ネイション・ ステイト)と、主権国家(sovereignty ソブランティ)という考えは、まだ当分は死なないのだ。そして、この考えが死に始めるのは、やっぱり、西欧諸国からであって、極東の日本からではない。
 私は徹底的に、西欧近代追随主義者である。日本社会を近代(モダン)だ、などと思ったことなど一度もない。
 だから、丸山の発言の中にある、「小沢一郎ばりの『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども」のとおりなのだ。私は、一九九三年ぐらいから、小沢一郎の政治改革路線を熱心に支持して来た。小沢はすごいと思って来た。小沢のどの発言も、日本の置かれているみじめな現実を前提にした、きわめて明瞭なものである。そのまま英語に直しても、欧米で誤解されないで通用することが分かる。それは、小沢一郎は、実は、アメリカが見込んで育てた「日本国王」だからなのだ、と他所で書いた。

 丸山真男の死に際して、頭をよぎった書くべきことを書き留めておこうと思って、このように走り書きした。自分の青年期に入れあげた、丸山の本から、自分も離れて久しい。しかし、私の本棚の上の方の、奥の偉そうなところに、丸山の本は、このあとしばらくは居すわりつづけるだろう。自分が読んだ本から影響を受ける、ということはつくづくイヤなことだ、と思った。

(副島隆彦の本文終り)

副島隆彦『日本の秘密』/_My Country, Right or Wrong_, 弓立社、1999年5月、pp.117-128.

 ※次の2箇所は、誤植だと思われたので下記のように訂正してあります。ご確認ください(第1刷による)。(1)126頁の「憲法九条の第 三項」→「憲法九条の第二項」、(2)「(sovereinity ソブランティ)」→「(sovereignty ソブランティ)」。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/12/10(Sun) 02:12
投稿者名:かたせ
タイトル:日本の仏教は本当に仏教か

日本のお坊さん(仏教各派)たちへ、以下のような、痛烈な批判がなされています。
まず、「アメリカの秘密」114ページから引用します。
この本は、ハリウッド政治映画の解説本です。この本に巻かれた帯には「世界一危険な政治+映画論」と銘うっています。映画「薔薇の名前」の解説の中から。

(「アメリカの秘密」 発行:メディアワークス、発売:主婦の友社、1998.7)

(引用開始)
 現在、日本の既成仏教の各仏教教団は、実はすべて、本物のインド発祥の世界基準の仏教Buddismから見れば、恐るべき破戒集団である。本物の仏教では絶対に許されることのない戒律破壊を行っている。「無所有と禁欲」はキリスト教同様に仏教の僧侶にとっても厳しい戒律である。仏僧である限り、「肉食・妻帯」など言語道断であり、世界基準の本物の仏教は絶対にこれを許さない。タイやビルマやベトナムや台湾や韓半島や中国の本物の仏僧たちは、実は、日本の腐り果てた仏教教団のありさまに目を剥いて驚いているのである。特殊日本化した、日本だけで通用する仏教を許してもいいのだろうか。
 日本でもほんの僅かだが、この戒律を守っている僧たちがいる。本物の仏教の戒律に従って仏教を修する者は、やはり一切の財産や世俗の欲を棄てて、山の中の修行寺に行くべきだと思う。どうしても肉食・妻帯せざるを得ないというのであれば、それは僧侶に向かないのだから、山を降りて俗人になるべきだ。生まれた子供を大学まで出したいという人々は、俗人になって普通の暮らしをせよ。この意味で日本の僧のほとんどは、本当の仏僧ではない。
 だから私は、あのオウム真理教の、どうしても信仰に走らねばいられないタイプの青年たちをあそこまで暴走させた真の責任は、日本の既成の仏教教団各派にあると考えている。日本の仏教が、あの若者たちを真の信仰者として受け容れる力がないから、彼らをあのような破滅へと向かわせたのだ、日本では他にこのことを言う者がいないから、私だけがはっきりとひるまずにこの真実を書く。
(引用終わり)

次に「日本の秘密」から引用します。2箇所。
この本の帯には次のようにあります。
「日本の最大の秘密は、占領期以降の日米関係の中にある。今、初めて、吉田茂から60年安保闘争までの政治の真相が明かされる。現在の金融不況も、その源は、ここに検証され、今につながる政治がそこにある」。本の内容は、日本の戦後政治が中心ですが、以下のような文章も含まれています。

(「日本の秘密」 出版 弓立社(ゆだちしゃ)、1999.5)

まず、217ページから。

(引用開始)
 日本の坊主の大半は、くされ坊主である。あんな連中を宗教者などと呼びたくもない。代々のお寺の息子が、檀家の意向を受けてかつ本山の許可を得て、その寺の跡を継ぐという珍妙なことに、いったいどうしてなったのだろうか。自分の子供を大学に出すために、仏教を営業にして戒名料やら墓石管理料で一件につき何百万も徴収するというのはあんまりだ。寺の敷地で幼稚園を経営したりして、メルセデス・ベンツを乗り回している坊主はいくらでもいる。そもそも中世の高僧たちには墓がない、と瀬戸内寂聴(じゃくちょう)尼がどこかで書いておられた。仏教と墓石は本来、関係ないのである。寺の坊主たちは、檀家制度を楯にして、人質(ひとじち)ならぬ墓質(左の熟語に傍点)を取って、民衆から自分たちの生活費分をまきあげているのである。私は日本の習俗としての先祖崇拝には従うので、墓参りはする。しかし不幸にして敬愛できる僧侶を持たない。
(引用終わり)

次に、220ページから。

(引用開始)
私は、浄土門(本願寺派)の親鸞や蓮如が、苦悩の末に、「煩悩(ぼんのう)、断ちがたく」と正直に告白して、肉食妻帯をした、という事実を知っていても、やはり肯定しない。それは、世界宗教のひとつとしての仏教を、日本で勝手に破壊したことになるのである。日本国内では通用するとしても、世界では絶対に通用しない考え方なのだと我々日本人は、思い知るべきなのである。
(引用終わり)

以下に、私(かたせ)の感想を述べます。

「私は、浄土門(本願寺派)の親鸞や蓮如が、苦悩の末に、「煩悩(ぼんのう)、断ちがたく」と正直に告白して、肉食妻帯をした、という事実を知っていても、やはり肯定しない。それは、世界宗教のひとつとしての仏教を、日本で勝手に破壊したことになるのである。」

「私は、あのオウム真理教の、どうしても信仰に走らねばいられないタイプの青年たちをあそこまで暴走させた真の責任は、日本の既成の仏教教団各派にあると考えている。日本の仏教が、あの若者たちを真の信仰者として受け容れる力がないから、彼らをあのような破滅へと向かわせたのだ」

「私は日本の習俗としての先祖崇拝には従うので、墓参りはする。しかし不幸にして敬愛できる僧侶を持たない。」

 私は、上の主張に素直に同意できました。みなさんはどうでしょう?
 日本の仏教各派、古くから続いてきた団体の高く評価されるべきは、新興宗教ではない点にあります。

皮肉です。

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/01/28(Sun) 14:18
投稿者名:かたせ
タイトル:「近代資本主義」・「憲法体制国家」・「デモクラシー」の成り立ちにおける、三面等価の原則

「ハリウッドで政治思想を読む」(副島隆彦著、2000.8、メディアワークス)の、映画「エル・ノルテ 約束の地」の解説の中から引用します。225ページ。
副島先生が、ある大きな事実を紹介されております。
(引用開始)
 南米世界がいつまでたっても貧しいのは、このような一五世紀以来のスペイン帝国に起源する、マーカンティリズム(重商主義思想)に淵源する。そして、このマーカンティリズムを否定したのがプロテスタンティズムである。プロテスタントの牙城国であるイギリスやオランダ、北ドイツでは、一六世紀から近代資本主義(市場経済主義、モダン・キャピタリズム)が興った。この近代資本主義という経済システムは、同時に、政治体制としてのデモクラシー(代議制民主政体)と、近代憲法体制(リミテッド・ガヴァメント、憲法典によって規制される政府という考え方)と、個人主義(インディビジュアリズム)、株式会社制度などと、ほぼ同時に生まれたのである。だから、経済(学)的な側面である(1)近代資本主義と、法(学)的な側面である(2)近代憲法体制と、政治(学)的な側面である(3)デモクラシーは、実は、大きくは同じ事柄の各場面のことなのである。
 日本に知識人層は、この百年間、知識としては一番大切で超重要なこの大きな事実を、理解してこなかった。これは致命的である。再度書くが、(1)近代資本主義(市場経済ともいう)、(2)憲法体制国家、(3)デモクラシーの三つは、スペインやフランス(ルイ十四世と宰相コルベールが主導した)の重商主義思想との対決の中から生まれてきたのである。
 市場経済(マーケット・エコノミー)とは、略奪経済ではなくて、自分で作った商品作物を、市場で売ってお金に換え、そのお金で別の必要品を買うことで成り立つ経済体制である。モノ(商品)とお金が社会をぐるぐると回ることで社会に豊かさが生まれる経済システムのことである。そこには暴力的なあるいは強制的な略奪のプロセスが一応ない、という点に意味があるのである。あるいは、不必要な管理統制経済もない。
(引用終わり)

上記文章の中の事実をまとめます。副島先生が、日本に初めて紹介・導入したと判断してよいと考えます。

(1) 近代資本主義、憲法体制国家、デモクラシーは、同じ事柄を3つの角度から捕らえなおしたものにすぎない。
(2) (1)とは、プロテスタント国家(イギリス・オランダ・北ドイツ)が、カトリック優勢である国家(スペイン・フランス)の重商主義思想に対抗しつつ興ったものである。
以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/02/07(Wed) 02:35
投稿者名:かたせ
タイトル:日本人はポルトガル人によって発見された。

一五四三年にポルトガル人によって発見されたのだ、私たちのご先祖様は。しかし、これでは、コロンブスに発見されたアメリカの原住民と同列の扱いではないのか?
副島隆彦先生の著書「ハリウッドで政治思想を読む」(2000.8、メディアワークス発行、角川書店発売)231ページで、標題の指摘がなされています。
(引用開始)
 南米を扱った映画『ミッション』には、スペインとポルトガルが南米大陸で領土的な権利の争いを起こし、それを歴史的に調停した、両国間の、一七五〇年のマドリッド条約のことや、カトリック内部の「鉄の思想集団」であり、カトリック内改革派でありながら、侵略の尖兵でもあるイエズス会のことなどが描かれている。このスペインとポルトガルの領土境界線紛争は、同じくアジアでも繰り広げられている。
 ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが、一四九八年に、アフリカ南端回りでインドのカリカットに到達してインド航路を開拓した。このポルトガルの船団が、更に東方に切り開いていった先に、中国のマカオがあり、マカオからつながる線が日本にまで伸びたのである。日本にはじめて到着した南蛮船は、ポルトガル船である。日本では、一五四三年を、「鉄砲伝来」(種子島の藩主が、ジャンク船に乗ったポルトガル人から銃二丁を買った)と言う。
この一五四三年をもって、世界歴史(学)上は、「日本発見」とされる。我々の日本は、このとき、世界史にはじめて登場したのである。私たちは、「発見」されたのである。ジパング(黄金国)は伝説だが、こちらは史実である。それから、現代世界史に日本が登場したのは、一九〇五年に、日露戦争(Russo Japan War)に、日本が勝利したときだ。これが世界史(ワールド・ヒストリー)だ。世界史というのは、山川出版社の「高校・世界史」の教科書のことではない。このあと、ポルトガルが切り拓いて国力を傾けて防衛したこの航路(シーレーン)を利用させてもらって、イギリスとオランダのアジア地域への進出があったのである。
(引用終わり)

 なぜ、このことに私は気づかなかったのでしょう。高校時代の私は、社会科の科目で世界史を選択していて、まじめに勉強していたのですが。。。原因は、以下の2点だと推定します。

(原因その1)社会科科目「世界史」の欠陥
岡田英弘先生「世界史の誕生」(1999.8、ちくま文庫、筑摩書房発行)の前書きおよび第7章の一部を要約して紹介します。
(要約開始)
明治時代の日本に、「国史」「東洋史」「西洋史」の3つが別個の学問領域として成立した。それぞれ、日本・地中海世界・中国世界という異なる歴史に対応している。
第二次世界大戦後の学制改革で、このうち「東洋史」「西洋史」が合体して「世界史」とななった。「世界史」からは「国史」(現在の「日本史」科目)が抜け落ちたため、日本抜きの世界を日本人が勉強することとなった。まるで日本は世界の一部ではないかのごとく、日本が世界に影響を与えないかのごとき内容を、勉強することとなった。
(要約終わり)
以下は私見です。
このため、一四九二年のコロンブスによるアメリカ(西インド諸島)発見と、一五四三年のポルトガル人の日本人との接触とは、統一的に捉えるべきところ、そうした視座が出てくるはずもなく、事実、山川出版社の「詳説・世界史」にこうした記述は一切ありません。一五四三年の種子島での出来事は、「国史」(日本史)の側で、「鉄砲伝来」という位置付けでしか捕らえられず、矮小化されてしまいました。

(原因その2)日本人がアメリカン・インディアンと同列の扱いを受けるはずがないという思い込み。
 事実を大づかみに捉えるなら、世界歴史(学)においてアメリカのインディアンと日本人とが同列に扱われることには合理性があります。私にこういう発想がまったく出なかったのは、そのように教えてくれる人がいなかったことと、上のような思い込みによるものと思います。これだけこの国は経済的に繁栄していますし。
 しかし、21世紀初頭を生きる現在の日本人も、「発見した」側では、アメリカ・インディアンと同列のみなし方をしているのでしょう。世界歴史(学)の捕らえ方の奥から、そのことが、ほの見えてきます。プライドの高い日本人としては目をそむけたくなります。
「日本は発見されたのだ」という事実。これは、副島先生が日本にはじめて導入した、世界レベルの知識の一つだと考えます。
一方で、「日本が近代化された国民だと、欧米人は誰も考えていない」という副島先生のご指摘、それの「世界史バージョン」であると私は考えます。
以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)