『JFK』JFK(1991) 2.映画から見えてくるアメリカと日本の相違点

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/15 09:01

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 前回投稿に引き続き、映画『JFK』について感じたことを書き込む。基本「だ・である」口調の文体を継続。前回でも前もってことわっているが、私に出来る真実の判断なんて憶測や自論の域を出ない。ましてや断定などは到底不可能である。

 私は私が気になったこと、感じたことを書くだけである。私の意見や結論を誰に押し付けるつもりもないし、そもそもそんなことは出来ない。ですからこれ以降も、お読み頂けるかただけということで、どうぞ。以下ネタバレ注意。

 

 ● アメリカと日本の相違点その1。帝国の敵と属国の敵

 ビラ配り時に反共主義者と起こした衝突騒ぎ(ヤラセか)で、FBIに逮捕された後に釈放されたオズワルドが、テレビ出演して討論しているシーンがあった。

 ブリンギア「あなたは共産主義者ですか、それとも違うのですか?」

 オズワルド「いいえ、ミスター・ブリンギア。私は共産主義者ではありません。私はマルクス・レーニン主義者です」

 ブリンギア「共産主義者とマルクス・レーニン主義者、何がどう違うというのですか?」

 映画の中で唯一、これだけが共感出来るテレビ放送のシーンであった。といっても呼ばれて討論している方は、ビラ配りで衝突した相手側のようだが。

 共産主義者(コミュニスト)もマルクス主義者もレーニン主義者もマルクス・レーニン主義者もスターリン主義者もトロツキー主義者も毛沢東主義者も一体何が根本的に違うのやら、分かり易い説明に出会うことは少ない。

 やたらと偉大というか尊大な人物の名前を冠してあやかれれば穴だらけの理論も補強というか、何となく正当化されるという感覚である。今更どうでもいいことになってしまったが。もうセクト主義でいいよ。

 先生も仰せのように、絶えざる党派内活動である分派間抗争、主導権争い、内ゲバ闘争こそ左翼の本質の1つであるのだろう。もっとも最近はそこらじゅう保守分裂だらけで、左翼を嘲笑していられなくなったのだが。

 それというのもアメリカにしてもそうだが、日本の保守陣営はもともと一枚岩ではなく部族連合共同体的な派閥と領袖だらけだったのが、冷戦の勝利によって「反共主義」(アンタイ・コミュニズム)という要、連帯の大義名分の柱を喪失してしまい、権力闘争のみが表出したために一旦自滅したのである。これを故・小室直樹先生が指摘したごとくのアノミーの一種と言っていいのか迷うが、似たような社会現象である。

 だから日本で、ソ連崩壊と冷戦構造の終焉後に、紆余曲折を経て日本に左翼政党の政権が、かなりの短期間であっても曲がりなりにも出来たことは出来た。

 アメリカでも冷戦と湾岸戦争勝利者であるはずのジョージ・ブッシュ(父)が大統領選挙に破れ、経済重視の民主党のビル・クリントン政権が誕生してしまった。どのくらいのヤラセとか出来レースがあったのか、当時の選挙の実態に詳しくないが、それでもブッシュ(父)は相当頭にきたのではないか。凱旋将軍ではないが、戦争を勝利に導いた大統領が一期だけで落選などとは。前任者ロナルド・レーガンの偉大イメージが悪いほうに作用したのかも。

 ここまでは日米で共通点の方が多いかのように見えるが、クリントンは安定政権で二期目でトラブルを起こしたが任期を全うした。日本では早々に他力本願の左翼政党が自滅していって、元の木阿弥に戻った。

 敵を失ってしまうと連帯感が失われ団結が崩壊しかねないので、新たなる敵を欲する。

 これも世界共通の現象であって日本特有の現象などではない。しかしソ連崩壊後に共産主義陣営が総崩れ・退潮していき保守陣営が敵を失ったものの、アメリカは属国を踏み台にして90年代に経済・金融の大勝利・繁栄を手に入れたので、国民の欲望が満たされた。9・11発生までは、暫く本格戦争は無しとした。

 それでもやはり、勝って敵を失うと新しい敵を探すことになる。不健全な経済はいつバブルが崩壊したり失速してもおかしくない。マスコミだって常に敵を探している。だから「悪の枢軸」(イラン、イラク、北朝鮮。イスラエルを除く隠れ核開発国家)というのは基本的な国家戦略以外にもそういう体内的側面もある。だから2000年代で9・11とアフガン戦争、イラク戦争だ。

 日本は逆でバブル崩壊後に失われた10年というか、今から数えれば失われた20年に突入していった。おまけに左翼も潰れた。経済も駄目。アメリカには文句を言えない。保守派の欲望が満たされないと、やはり外部に目をそらす敵、不満のはけ口が必要である。

 アメリカ人と違い日本人の場合は反イスラムでは悪感情もあまり湧かず保守結束には弱いので(日本人はイスラム教圏と縁遠く、あまり戦争をしたことがなかったため)反中と反北の脅威を喧伝する。中国と北朝鮮には戦争の記憶もあり感情的嫌悪感をかき立てられるので、保守派共通の警戒心を持つことが出来るからだ。同時に中国の発展も気に食わないとなる。

 2010年代のここにきて、反イスラムから反中への軍事的脅威だけでなく、経済状況も日米ともに暗い情勢になってきたので、共通の敵を持つ同士で日米の相違点が減っていき共通点が多くなってきたように見える。そしてそれは見せ掛けである。アメリカは世界覇権国、日本は依然としてその属国。敵を見据える視点が違うのである。保守派同士・右翼同士、革新派同士・左翼同士だからといっても元から全然別物であり、そのままなんでも話が通じると思ったら大間違いである。ましてや「同志」だなどという考え違いは命取りだ。

 先生の帝国・属国理論を今こそ日本全国民が学ばなければならない時なのである。

 

 ● アメリカと日本の相違点その2。法廷での宣誓、証言に対する考え方

 またちょっと映画『JFK』から離れてしまったので戻る。他にもこの映画を通して見えてくる、全然、全く、日本とアメリカの国家・社会で共通していない部分は掃いて捨てるほどあるのだが、取りたてて挙げるとすれば彼我の国民が持つ法意識の画然たる差である。

 映画『JFK』でも、ガイ・バニスターの友人であり部下であったジャック・マーティンや、オズワルドの弁護についての謎の電話を受けたという話のあるディーン・アンドルーズ弁護士(ギャリソンとは法科で同窓だという。役者と本人がそっくり。こういう人いるよな~ほんとに)など、危険と恐怖に怯える証言者達が描かれている。ルビーとオズワルドが友人関係であったということをギャリソンに話したビヴァリー・オリヴァーという女性が証言を求められた際の台詞が印象的であった。

 ビヴァリー「あの連中は合衆国大統領を殺したのよ。私みたいな安っぽい踊り子を消すことなんて何とも思ってないわ」

 それでも大勢の目撃者が真実の証言をしようとするんだから、こういうところはさすがにアメリカ人だなぁと感じた。次々と証言者が消されていく中、危険が伴うと分かっていて勇気を出すのは大変な決意である。日本では決して見られない光景である。

 CIA高官の発言などにも見られるように虚偽の証言も多いし信憑性の薄いものも多いのは日米同じだろうが、法廷での宣誓や偽証をしてはならないという基本姿勢、意識が浸透しているところが全然違う。これには明らかに「神との契約」をはじめとするキリスト教の精神が与えた文化が法の基底にあり、それが一般人の法意識の根底にある。同時に近代人でもあるから個人主義がすごい。日本ではこれらの条件が最初から欠如している。外来文化の輸入と真似を一所懸命頑張ったが、精神や意識は真似出来ないで日本流に落ち着く。

 だから日本は裁判でも偽証し放題である。はっきり言っておくが、日本は偽証罪が適用されることが少ないなんてのは誇りでもなんでもないよ。恥だ。起訴有罪率99・9パーセントと同じことである。従来から日本がアメリカのような訴訟合戦社会でないことも、手放しでは褒められない。むしろ律令体制下での忍従の証じゃないのかね。

 とにかく自分達だけは馴れ合いでなぁなぁの関係である司法官僚や法務検察官僚の恥知らずどもの自主的反省を待っていたら、何時まで経っても抜本的司法制度改革なんて出来ない。

 故・小室直樹先生ばりに何度でも書くが、アメリカと日本ともに偽証が蔓延しているとして仮にその数が同じ程度だったとしても、偽証罪に対する認識が常にありながらそれでも偽証する社会と、偽証が許されない罪などという認識そのものが元来からして希薄な社会とでは、表面だけ似ているように見えても内実は全然違う。腐敗の構造、機能の仕方が全然違うのである。何度強調しても強調し過ぎることはないので、ここに明記しておきたい。

 

 ● アメリカと日本の相違点その3。日本にジム・ギャリソンはいない

 その2とだいぶ被ってくるが、映画『JFK』を見るにつけ日米で全く共通点が見当たらないといえば、これがもっとも際立っている。映画だけの話ではない。実在のギャリソンとの比較としてもそうである。比較だなどと言うのはおこがましいが。

 日本の検事連中の中には、ジム・ギャリソンに匹敵するほどの大人物はただの1人もいない。過去にもいなかったし、現在もいないし、未来のことは分からないが期待はしない。

 世界規模の大事件が起きない現代日本においては、こんな立派な検事が活躍するような余地は存在し得ないから、と書いた方が幾分かは彼ら官僚組織人間の置かれた、人間が矮小化するしかない職場環境に対する、同情的な配慮が行き届いているだろうか。

 ただし、映画『JFK』を正しく把握しようとして、しかし片一方の偏った視点から見ると、陥りやすい部分があるだろう。クレイ・バートランドことクレイ・ショーは証拠不十分のために裁判で無罪になったのであり(「無実」ではなく「無罪」である。以後いちいち断らないので、混同しないように。これを混同すると全てにおいて致命的な誤解を招く)、ギャリソンが捜査する前に「急死」していたガイ・バニスターや、突如として「自殺」したとされるデイヴィッド・フェリーも、裁判にかかってはいない。有罪判決が下され確定したわけではない。

 有罪ではない人間はどれほど怪しくても確定されなければ無罪だ。推定無罪は無罪と同じであり真実とは別問題とされる。容疑者、被疑者は疑いをかけられている者、被告となれば起訴されている者である。容疑者も被疑者も被告もその時点では依然として無罪の状態なのである。クレイ・ショーは無罪である。無実だったかどうかは私には正直分からない。公式に分かっているのは無罪のままで彼も不可解な死を迎えたということだ。

 たまに警察が駅などの公共の場所に貼り出す行方不明容疑者の顔写真ポスターに「こいつが犯人だ」「犯罪者リスト」などと書いてあるのは、おかしい。刑務所に収監されていた人間が脱獄したり、有罪判決確定後週間前の保釈中に逃走したのであれば、この表現でも合ってはいるだろう。

 しかしそれ以外は裁判で「有罪」が確定していないのだから、その時点では犯罪者と確定してはいない。現行法がどうか知らないが、明確に法制定であれを違法にするべきである。ああいうポスターを張り出したら違反としてその警察官が逮捕されるようにしなければならない。なぜ裁判官ではない警察官や検察官に、1人の人間を犯罪者であると断定する権限があるというのか? 無いだろうが。

 だから『JFK』は有罪判決を下されなかった実在の人物が裁判を受けている法廷の様子を描いている映画でもある。そして検察側が敗訴した。

 この点は潜在的な危険性があり、気をつけなければならない。映画でギャリソンも妻から、ショーの私的な性癖暴露について「一度でも彼の気持ちを考えたことがあるの?」「あなたは彼を破滅させている」と批判されているシーンがある。この映画とギャリソン本人への何とも盛大な批判者達である新聞テレビの連中の理屈にも、一理はあるだろう。九理は無いが。

 とはいってもまぁ、何にせよ残念ながらというべきか、実に平和というべきか、この点は日本の事例に当てはめて類推するのは無駄な努力であるから問題ない。

 なにせ日本にはギャリソンほどの国民的英雄検事は1人もいないのだから、同様に英雄の犠牲者もいない。キャメルのコートを着た出世欲の塊の偽英雄とその犠牲者がいるだけ。イタリアマフィアを摘発して爆殺される命がけの英雄検事も、日本にはいない。安全地帯でヌクヌクしているのに法廷の外での特別捜査・逮捕・起訴権限を持っている。

 では、後に無罪となる人間を逮捕・起訴し裁判にかけたことになるジム・ギャリソン地方検事と、日本国の冤罪大量作成機関に勤務する揃いも揃った日本人クズ検事どもの、一体何がどう違うというのか? 歴代検事総長の1人である伊藤栄樹のいう「巨悪を眠らせない」検察官達は、日夜せっせと果敢にも職務にはげみ余計なことをして、現役政治家を追い詰めたりする。勇気の点でギャリソンと違わないのではないか? 本質は同じではないか? 一体何がどう違うというのか?

 簡単であり明白なことだ。真に偉大なことに命を賭けて国家権力や偏向報道と戦い、身の危険に晒されながら真実を明らかにするために自らに使命を課して一生涯を職務に取り組んだ1人の人間と、よってたかって矮小・卑小なことをほじくり返し、沢山の冤罪事件を作り出し、無実の人間の名誉や尊厳を貶め、政治的に陥れることに熱中している徒党を組んだ権力を笠に着た自称正義の手先人間達。どちらを尊敬しその一生を賭した物語に憧れを抱かせ、どちらを軽蔑し手先役人人生のくだらなさ、つまらなさを露出させているか。

 実在の日本人クズ検事どもがモデルになって活躍するシーンは果たして商業映画として成立するのだろうか? 架空なら嘘八百の幻想を振りまけばクズ映画が成り立つかもね。ちなみに私はほとんどの邦画を相手にしない。アニメ映画以外は世界で通用する水準にまで到達出来ていないからだ。日本人しか見ない国内のみの映画産業である。アニメだけは日本が世界の頂点だからどうしようもない。ディズニーアニメ映画程度が関の山である。まったくもって妙な感じだ。

 さて、ヨーロッパ映画を壊滅せしめ、世界を席巻・圧倒しトップに君臨し続けたハリウッド映画産業界も、ようやく斜陽が訪れたようだ。無論、それは頂点から段々と落ちてきているということであって、日本の邦画レヴェルと同等になったなどという考え違いを起こしてはならない。

 それにしても現代日本だって、何人の政治家が暗殺され、その周辺の人物が沢山消されていることか。それを真剣に捜査しているという検事や警察が被害者になったりする話を、私は未だに聞いたことがない。いつも重箱の隅をつついて誰かを失脚させたり、冤罪を大量に作り出しているだけじゃないか。違うのか? 1件でも検察特捜絡みで正常な解決を見た政治事件があったか? たったの1件でも。

 日本はアメリカと違って政治家の「巨悪」を追求し、政治家の逮捕・失職・失脚というかたちで達成されるから「健全」な法治国家なのだ、などという単細胞が少しでも勉強出来るように、日本人のためにもこの映画『JFK』があるのだ。

 さらに言えば、日本の検察は最初から「巨悪」と闘ってなどいない。「巨悪」と闘っている人間を叩き潰すために動いているだけ。しかも検察官僚と法務省という組織自体が「巨悪」の筆頭なのが現状だ。

 何度でも繰り返す。日本人の検事が政治家の政治権力と戦って殺されたという話を一向に聞いたことがない。検察に政治的・社会的に抹殺された国民政治家の話は腐るほど聞いているが。日本で本当の「巨悪」と戦っているというか抵抗しているのは国民政治家だ。

 日本人に僅かにいる良心的な検事(思い込みで薄っぺらい偽善的正義を振り回すやつのことではない)は不正圧力に屈従を強いられ、組織から弾き出され、冤罪で謀略逮捕される。現役でギャリソンのような活動は日本ではとても出来ない。はぐれ官僚というか、脱藩官僚でも本当に気概がある人達は不当に投獄されたりする。国民政治家と、現状の実態を嫌というほど理解している官僚・元官僚が「巨悪」のありかを実際に知っている。国民にも知る権利がある。

 

  ● アメリカの司法制度理解を日本に広めるべき、だが導入となると?

 これは相違点などと表現する必要すら無いほど明確な事実であるが、アメリカ合衆国と日本国とでは司法制度が違う。

 ギャリソンは当時、ニューオーリンズの地方検事という役職であり、部下に地方検事補がいる。この制度が私にはよく分からないのだが、地元住民から選挙されて当選しており、暗殺事件を極秘調査していることが発覚してからも再選している。4選目では落選し、その後は巡回区控訴裁判所判事になっている。これは日本の判検交流みたいなものだろうか。

 検事を公選で選ぶというこの方法が良い制度なのかどうか、私にはまだ何とも言えないのだが、そういう立場の人間だからこそ政府やらマスコミやら方々を敵にまわして戦えたのだろう。そこらの木っ端役人の採用組織人間に出来ることではない。下っ端は上役には逆らえないのが組織の基本である。ギャリソンは執念の検事ではあっても検察官僚ではなかった、ということである。当時の検事総長は敵の味方だったようだ。

 それでもギャリソンは役所に勤める人間であるから、圧力は相当なものだったろうし、調査費用は税金であるから批判された。嫌がらせと圧力目的で他の役所から税務調査も要求されたようだ。それでも家族を養いながら私財まで投入して、家族との人生時間を犠牲にしてでも調査を続けている。こんな人は日本の現役の官僚や役人には存在出来る環境もないし、似たような人間が存在するとすれば、くだんの検察の特捜部の連中のように、謀略のやり過ぎによる個人の勝手な暴走(そしてトカゲの尻尾きり)というスタンドプレーの形でしか出てこない。

 多くの民衆の支持を受け、しかも公選されていたから、ギャリソンが活動、活躍出来た。そういう背景、環境、土壌がある。もちろんギャリソンはアメリカ合衆国においても稀有な事例であるだろうし、世にも得がたい人物であろうが、これこそ本物の民意の尊く偉大な表出という形なのであろう。日本の検察審査会の民意など比較にもならない。検審の民意など横審に反映される民意と同程度のしろものである。

 日本も大陪審(起訴陪審制度)とか、検事の選挙とか、陪審員制度の導入(裁判員など、ふざけるな)とか、独立検察官とか、特別検察官など、イギリスの私人訴追主義とか、いろいろ比較検討してみるべきだと思う。植草氏が先鋭に唱道するように司法制度改革は抜本的な近代化が必要である。検察から捜査権だけでなく起訴や上訴の決定権も取り上げるべきだろう。

 もちろん米英だから全部何もかも良いと決め付けて崇拝しろ、無条件にそのまま日本に導入しろというのではない。裁判員という最悪の中途半端導入からもそれが分かる。検審にしてからがアメリカ大陪審の中途半端導入(のつもり)である。全部日本流にしてしまって台無しである。何が強制起訴だポンコツども。

 例えば前述のように、ギャリソン検事は後に判事となったわけだから、アメリカではギャリソンの例のように行き来が実際に行われている。つまり判検交流の一種みたいなもので、日本でも既に行われているわけだから見習うも何もないけれども、これは少なくとも日本においては理想的な制度ではないことが既に判明している。

 何度も言うが日本にはギャリソンのような大人格者の検事の出現などは望むべくもない土壌にあるということを忘れてはならない。元冤罪発生機出身の判事に裁かれるなんて、たまったもんじゃない。

 これはアメリカどうこう関係なく、判検交流は法改正して今後一切禁止すべきである。先生も元外交官の天木直人氏とのネット対談で仰せだったが、検事に限らずなのか、法務省(行政)から出先の裁判所(司法)に出向してきて、その「行政裁判官」「法務裁判官」「検事裁判官」どもが偉そうに生粋のヒラメ裁判官達を押し退けて君臨赴任してくるそうだ。裁判に介入、口出しするそうである。

 最高裁事務総局の司法官僚支配もひどいが、それよりもっと法務省による裁判介入の方が質が悪い。これは有害有益ですらなく、ただの有害無益。害しかない。だから無条件で法改正して禁止すべきである。

 法務省や検察庁はじめ行政側の人間が司法の裁判官に成り代わるのは一切禁止するのが第一歩である。どうしても行政官が裁判官に成りたいのであれば公務を辞職してから特例なしの通常の試験を受けるしかないようにすべき。そこら辺は制度改革である。

 あとは判事から検事その他の行政官になる、ということについては議論の余地があるだろう。検事出身判事というのがヒラメ以上に最悪なのである。

 今現在いる「検察判事」や「法務判事」には本職に戻るか判事として残るか選択させ、判事として残った者には二度と検事になれないよう法制度の整備をしておくのがよかろう。この慢性的で悲惨な「行政司法」の現状に比べれば法務大臣の失言など、どうということもない問題である。

 それから先ほど挙げた中では、独立検察官とか特別検察官については、アメリカでも必ずしも上手く作用しているだけとは言えないだろう、歴史がまだ浅く試行錯誤だと思う。だから日本に導入する際は注意しなければならない。基本は議会が主導権を握るということが大事だろう。それから任期を明確に制限し、法曹資格者から選任するとしても、独立検察官や特別検察官という役職自体を専門の職業にさせない、ということが必要ではないだろうか。

 日本人が新制度導入が悪い方に転ぶというか、悪用される想像しか出来ないのは、日本の司法制度が元々あまりに前近代であり、検審の法改正が悪い方に作用してしまっているような事例を現に目にしているせいでもある。改悪ばかりである。だから現状維持で凝り固まる。

 どんな憲法や法制度にも欠点や弊害がないわけはない。

 腐りきった検察官僚の人員総入れ替えと法改正が必要だが、その前に有権者の意識改革が根底から必要なのは言うまでもない。有権者の後押しがないと改革の前進は覚束ない。

 自分達の権力を強大化する法は強固に成立させようと努力するが、官僚の権限の源泉を奪われ弱体化させることになる法改正に対しては、官僚は常に改革の骨抜きを狙っている。そのために様々な手段を用いる。それが当然に許されると思い込んでいるのが腐れ官僚という人種の救いがたい習い性なのである。

 一旦区切りとして、続きは翌日以降と致します。