精神の危機

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/11/21 12:00

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 本日は2010年11月21日(日)です。以下、[78]の続きを書き込みます。私の近況から出発する話なので、「です・ます」調の文体も継続致します。

 投稿済[78]を一度読み返しましたが、「対応0関係については」などと失敗した箇所があり失礼致しました。なぜか勝手に半角のゼロが打たれていることがあり、そのまま気付かずに投稿していたようです。

 前回は偉大なフィロソファーの1人であるキェルケゴールを引用・参照し、私自身の過去の投稿を転載するばかりで、一般的で抽象的な事柄を述べるに終始しましたが、今回は本当に私的で卑近な、個別具体的な症状・症例を中心に述べたいと存じます。私は自分を客観視し、自己分析をするということが苦手ですが、取り組んでみたいと思います。

 ですので、佐藤裕一などという赤の他人の私事などという、一切関係無い上に役にも立たない文章など時間の無駄で読みたくもない、馬鹿馬鹿しくて付き合っていられるか、というかたはもちろん以下は読まなくて構いません。

 

 私の人生にようやく差し迫ってきた今回の「精神の危機」は、2010年11月16日(火)に突如として訪れました。

 なんでそんなに漠然とした事柄について、日付けまでハッキリしているのかというと、16日に私が明確に正面から「具体的に動こう」としたからです。今までのように逃げないで、曲がりなりにも「決意」して「本格的に行動を起こそう」としたからです。

 自分自身に向き合った、向き合ってしまった、そして自己の内面の弱さゆえ、ものの見事にたったの一日で失敗が明白になりました。十代におけるような青春の時期という、とうの昔に通過していなければならない段階に、情けなくも二十代後半の私が、未だに引っ掛かっているようです。

 しかるべき時期に青春を謳歌しなかったということが、何事においても挑戦や冒険を避けて通ってきたという代償、本当の不安や苦悩、挫折といった経験を避けて通ってきたツケの清算を、今頃になって払わされるということのようです。ずるずると諦めきれない、踏ん切りやケジメというものが、出来ない人間なのです。諦観とか達観とかいったものは、一度本気で挑戦したことのある人にしかないのでしょう。

 ここの旧掲示板に[406]「2009/06/20の講演会に初参加しました 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/06/22(Mon) 08:37:09」を投稿して以来、昨年から断続的にいろいろ書き込んでいます。

 転載部分以外の、私の投稿文章など誰一人として真剣に読んでいない、読むに値しないとすると話はそれまでなのですが、先生の学問道場にある掲示板の文章だからということで、なんとなくずっと読んでいる有り難い御方がいらっしゃったとしたら、私の文章の書き方や組み立て方より大きいところでの、脈絡が散漫かつ漫然で文意も雑然とした、系統立ったところのない傾向、思考上・思想上の一貫性の欠如をも読み取られた、感じ取られたことでしょう。

 私は「決意」したと書きましたが、一体何を「決意」したのかというと、先生が「つまらない生き方だ」と切って捨てているところの、「私はプロの物書きとして生きていこう」と「決意」したのです。冗談ではなく、本気なのです。本人は。「漠然とした本気」とでも呼べばいいのでしょうか。本当に本気が出せるかたにとっては、おいおいそんな中途半端な偽物の本気など本気のうちに入るか、一緒にしてくれるな、という話でしょうが、本人にしてみれば本気のつもりなのです。

 なので、16日に唐突に「決意」したということではなく、ずっと以前から「決意」していたものを、現状を打破・打開しようと思い立ち、あらためて「決意」して実行に移そうとした、ということです。実を言うとこれまでに何度も「決意」しているのですが、その度に恐ろしい何か、直視したくない何かが垣間見えてしまい、乗り越えるべき壁、課題を先延ばしにしてきたのです。

 16日に具体的に何をした・しようとしたのかというと、渾然一体とした文章を書くことから脱け出して決別し、ある1つの主題に方向性を限定して、集中的に取り組んで完結するという作業に、取り掛かろうとしたのです。そして案の定最初からの躓きに伴って「精神の危機」が訪れました。笑えないまでに、自嘲すら虚しいほどに書けない、書き出せないのです。作文の最初が書けないで悩むという小・中学生と同じです。この通り別段、特殊な性質の苦悩ではありません。遅過ぎる、というところが決定的に問題です。

 私のなんちゃって「本当」「本気」の隠していた裏側、「嘘」「冗談」が一気に噴き出してきました。あらゆる側面において、冗談だろ、冗談だったんだろ、元から嘘だったんだろ、薄々気付いていたんだろ、という声が脳のどこからか聞こえてくるのです。自分に関する自責の念です。それが言語矛盾のようですが、今まで失敗に直面することや試行錯誤を回避し、何事にも取り組んでこなかったことに対する後悔でありますから一層悲惨であり、救いようがないのです。

 私の頭脳は普段から、ものすごい分散思考型・拡散思考型の人間なようです。自分でも愕然とするほど、子供の頃から集中力が足りません。集中思考型に切り換えようとしても、いまさら脳が遅過ぎる「決意」についてこれないのです。これぞ無惨の典型です。ここまで出来ない人間であったかという、静かなる驚愕が襲ってきたのです。

 やっと16日に、鏡を覗き込んで自分を見た、客観視してしまった、ということです。そうしたら、現在の自分が許せないということ以外、考えられなくなってきます。僅かな文字でも書くごとに、とっくの昔に完成しているべき文章が、現時点で書き始めているという現状と自分に対する怒りで、脳内が一杯になってしまいます。

 そしてついに精神が一時、恐慌状態に陥りかけ、切迫感なのか圧迫感なのか耐え切れず、パニックになりかけました。腫れ物に触らないように遠くに置いておいた「絶望」を、いきなり手前に近づけてしまった悪影響です。「発狂」までには至りませんでした。まだ「絶望」の渦中に入っていく段階です。

 私はこれまで冷血漢として、冷酷非情さ、冷徹思考さについてそれこそ冷静沈着に、周囲の人達と比較しても、明らかに精神的に強い人間だと自覚していました。精神状態が制御不能をきたしたことは、ほとんどありません。波があまりないと思います。

 ところがそれは自分の現状認識をわざと鈍感にさせ曖昧にして、無意識にか半ば意識的にか、自分の真実に気付かないように、深く考えなくて済むような楽で安易な道に自分を誘導し、置いておくことについてはかなり成功していたから、精神的に強いと思い込めたのです。自分自身を真実の鏡で見てみれば思いっきり脆弱であり、自分自身に対して酷薄になれていない人間、甘ったれであることが判明致しました。本当の現状認識はかくも残酷でおぞましい怪物です。

 それから脳味噌が指令を出しているのか、それとも防衛本能なのか、何も書けないまま集中思考を続けてはまずい、パニックが悪化する、ということでフテ寝しました。「精神の危機」を回避しました。もっとも危機という壁を正面から突破したのではなく、壁手前のロータリーに戻ってグルグル周回しながら壁の向こう側に行けた自分の姿を想像するという、いつも通りの安全・安泰な場所にオメオメと引き返した、といったところです。

 それから睡眠や散文的執筆以外にも逃げ道として、音楽や映像の鑑賞、ネット検索・巡回による各種の時事的な情報収集などの他に、読書に逃避するというのがあります。これが言い訳のうちでもとても厄介な性質を帯びています。私の場合はかなり悪質でひどいです。

 知性の欲求に見せかけた、一種の中毒というか、強迫観念にとりつかれるのです。例えば、私は現時点で先生の著作群の大半を既に読んでいますが、全部読み終わっているわけではありません。入手出来ていない本もあるからです。それから小室直樹先生の本、片岡鉄哉先生の本、岡田英弘先生の本、吉本隆明先生の本、その他駄本以外で邦書・訳書問わず、数多くの有意義な本の多くを、私は読めていません。となると、全部読んでからでないと、知識に欠点がある、当然にあるであろうから、行動しない、するべきではない、出来ない、という言い訳が脳内で誕生します。

 逃げ道を遮断し、退路を自ら断て、と脳内の別のどこかから警告が飛んでいるのですが、その意志薄弱と優柔不断ゆえに、無視してきました。今までにも何回か、上記に挙げた逃げ道を遮断しようと試みたのです。睡眠時間制限、音楽・映像断ち、読書断ち、ネット閲覧禁止、投稿禁止(たまに2ヶ月とか空いたりするのはそのせい)、散文禁止などです。すると、どうでしょうか。駄目人間としてあまりに逃げに慣れすぎているため、禁断症状が出てくるのです。

 正午になりましたので、ここで一旦投稿します。書き溜めするとまた失敗するからです。