アジア政治経済掲示板から転載貼り付け6
会員番号4655の佐藤裕一です。
更に続けてアジア政治経済掲示板から転載貼り付け致します。
【佐藤裕一による転載貼り付け始め】
[1452] 故・若泉敬氏と密約関係の文章を阿修羅掲示板から転載まとめて保存3 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/11/30(Mon) 02:29:42
会員番号4655の佐藤裕一です。
続けて転載します。
(佐藤裕一による転載貼り付け始め)
<米軍再編問題> 説得する相手が違うのでは?(五十嵐仁の転成仁語)
http://www.asyura2.com/0510/senkyo16/msg/930.html
投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 11 日 20:41:48: KbIx4LOvH6Ccw
(回答先: 中間報告実現へ閣議決定 米軍再編―Yahoo!「琉球新報」 投稿者 天木ファン 日時 2005 年 11 月 11 日 15:43:56)
11月10日
http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm から引用。
(冒頭部分若干省略)
ところで、米軍基地再編問題に対する地元の反対が強まっています。当然でしょう。その必要性が明らかではなく、道理のない犠牲や負担を、どうして受け入れなければならないのでしょうか。
額賀防衛庁長官は沖縄に飛んで、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先となる名護市の岸本建男市長らと会談し、辺野古崎への移設に理解を求めました。
説得する相手が違うのではないでしょうか。地元の反対や要望を携えて額賀長官が飛ばなければならないのは、ワシントンに向けてでしょう。
額賀さんは沖縄で記者会見し、在日米軍の再編に伴う沖縄の振興策について、財政措置を含めた具体策を検討する考えを表明したそうです。
またもや、「振興策」や「財政措置」によって、不況にあえぐ沖縄を懐柔しようというわけです。利権をちらつかせて言うことを聞かせるようなやり方は、地元に対して失礼です。もう止めるべきでしょう。
今回の再編問題でも、日本政府の主体性のなさと当事者能力の欠如は呆れるほどです。でも、それも当然でしょう。この問題のそもそもの始まりから、そうだったんですから……。
この問題については、2004年4月1日付のHPで書いたことがあります。普天間基地の返還問題が、日本側からではなくアメリカ側から促されて持ち出されたものだということを……。
もう、お忘れの方もおられると思いますので、その部分を再録することにしましょう。私は、これについて次のように書きました。
そもそも、この普天間基地の返還は、日本政府が強く要求したものではありませんでした。これについては、春名幹男さんが書いた『秘密のファイル(下)-CIAの対日工作』(共同通信社、2000年)という本に衝撃的な描写が出てきます。
普天間返還は、アメリカ側から促されて日本側が言い出したというのです。春名さんは次のように書いています。
沖縄返還から23年後の1995年、レークは再び沖縄問題に関与するようになった。同年9月、米海兵隊員による少女暴行事件が起き、米軍基地反対運動が再燃した。
この時、海兵隊普天間飛行場の返還というクリントン大統領の決断によって、危機は乗り越えられた。その経緯も極めて興味深い。
1996年2月23日、カリフォルニア州サンタモニカでクリントンに会った橋本は、
「本当に言いたいことはないのか」
とクリントンに促されて、
「あえて付け加えるとすれば、普天間返還を求める声は強い」
と口を開いた、という。
だが、現実には、この時点でアメリカ側は、“落としどころ”は「普天間返還」と読んでいて、橋本の発言を予想していた。
橋本がなかなか口を開かないから、クリントンの方から誘い水を向けたのである。
少女暴行事件で、日米関係の悪化を懸念したレークは、何度かホワイトハウスで朝食会を開き、有識者の意見を聞いていた。その一人、リチャード・アーミテージ国防次官補は早くから、「普天間返還論」を主張していた。アーミテージは1995年11月、筆者とのインタビューでもその点を強調した。
沖縄現地でも、大田昌秀知事が普天間返還を口にしていた。当然ながら、この情報は在沖縄総領事館からワシントンに伝えられていたはずだ。
首相官邸と外務省は、この時も、アメリカ側の周到な準備状況に気がつかなかったようだ。(前掲書、314~315頁)
まことに、驚くような記述です。クリントン米大統領に「本当に言いたいことはないのか」と「誘い水を向け」られ、橋本首相が「あえて付け加えるとすれば、普天間返還を求める声は強い」と口を開いたなんて、にわかに信じられないような描写ですが、本当なのでしょうか。
当時、あれほど高まっていた沖縄の米軍基地縮小・撤去要求が、橋本首相にとっては「あえて付け加える」程度のものだったとは……。それも、「基地を縮小・撤去せよ」と求めたのではなく、「普天間返還を求める声は強い」と、他人事のように間接的に言及するだけだったなんて……。
なお、ここに登場している「レーク」という人物は、アンソニー・レークという人です。1970年4月にカンボジア爆撃に抗議してNSC(国家安全保障会議)のスタッフを辞任した硬骨漢で、沖縄返還問題での佐藤首相の密使・若泉敬とキッシンジャーとの連絡役を務めたこともあります。
カーター政権の下で、国務省の政策企画局長、クリントン政権では安全保障担当の大統領補佐官を務め、CIA長官に指名されましたが共和党の反発が強く指名辞退に追い込まれ、ジョージタウン大教授に転身しました。この本に登場したときは、大統領補佐官として普天間返還に関わったというわけです。
何度、読み返してみても、情けなくなるような記述です。これが「普天間返還」問題の始まりだったとすれば、その後の経過も、今回の対応も当然のことだということになるでしょう。
この文章も、実は、新著『活憲』に入れるつもりでした。しかし、分量の問題などもあって、割愛せざるを得ませんでした。
というわけで、ここに紹介させていただいた次第です。
それはともかく、日本の「属国」化がどれほどの問題を生みだしているのか、暗たんたる気持ちがします。このような日本政府の対応に、「ナショナリスト」は、どうして怒らないのでしょうか。「右翼」の人たちは、このような「属国」的な日本のあり方を、どう思っているのでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3.日本の原子力政策の軍事的側面 藤田祐幸(慶応大)
http://www.asyura2.com/0403/genpatu2/msg/248.html
投稿者 ネオファイト 日時 2004 年 6 月 21 日 11:33:38:ihQQ4EJsQUa/w
(回答先: 2004年日本物理学会第59回年次大会 社会的責任シンポジウム 現代の戦争と物理学者の倫理とは 投稿者 ネオファイト 日時 2004 年 6 月 21 日 11:20:17)
日本の原子力政策の軍事的側面 藤田祐幸(慶応大)
1.学術会議の二つの声明
日本学術会議は1949年1月22日に設立第一回総会を開催し、冒頭羽仁五郎の発議により、発足に当たっての声明が採択された。「(前略)われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であると言う確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである。(後略)」。
さらに学術会議は50年4月、第6階総会において「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」を採択した。「日本学術会議は、1949年1月、その創立に当たってこれまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに科学を文化国家、世界平和の基礎たらしめようとする固い決意を内外に表明した。われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使徒として、ふたたび戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、先の声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないと言うわれわれの固い決意を表明する」。
敗戦直後の科学者の戦争に対する反省と、平和主義の姿勢が率直にここに表明されているが、『これまでわが国の科学者がとりきたった態度』とは何か、『戦争を目的とする科学の研究に絶対に従わない』ために何をすべきか、明らかにされないままの、精神規定に終わっていた。
[投稿者注:精神規定ってのは要するに一億総懺悔のポーズ。]
2.茅・伏見提案と三村演説
1952年10月24日、茅・伏見は学術会議に「原子力委員会を政府に設置すること」を提案した。いわゆる『茅・伏見提案』である。これに対し、広島大の理論物理学研究所三村剛昴会員が反対の演説を行った。三村は広島の惨状を話したあとで、「だからわれわれ日本人は、この残虐なものは使うべきものでない。この残虐なものを使った相手は、相手を人間と思っておらぬ。相手を人間と思っておらぬから初めて落し得るのでありまして、相手を人間と思っておるなら、落し得るものではないと私は思うのであります。ただ普通に考えると、二十万人の人が死んだ、量的に大きかったかと思うが、量ではなしに質が非常に違うのであります。しかも原子力の研究は、ひとたび間違うとすぐそこに持って行く。しかも発電する―さっきも伏見会員が発電々々と盛んに言われましたが、相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化するのであります。それが原爆に化するのは最も危険なことでありましていけない。」と述べて原子力の研究に取り組むのは米ソの緊張が解けるまで待つべきであると主張した。会場は静まり返り、伏見は提案そのものを撤回せざるを得なかった。
しかし、「一夜にしてそれが原爆に化する」とはどういうことなのか、そうさせないためにはどうすれば良いのか、そのような議論は行われないまま、三村議員の素朴な、あまりにも素朴な反対意見の前に学術会議は沈黙した。
3.科学技術庁構想
茅伏見提案の半年前、講和発効と前後して、吉田茂率いる自由党に不穏な動きがあった。1952年4月20日の読売新聞に「(政府は)再軍備兵器生産に備えて科学技術庁を新設するよう具体案の作成を指令した」と報じ、日本産業協議会月報五月号には提案者である前田正男の論文を掲載している。
前田論文は冒頭「敗戦直後鈴木総理大臣は『今次戦争は科学によって敗れた。今度こそ科学を振興して日本の再建を図らねばならぬ』と力説せられたことを記憶している。その後約七年も経過したが、国民はこの科学振興に如何程の努力を拂い、その結果科学の振興が、如何程実行されたか、深く反省する必要がある」と書き出し、前田が51年に米国の科学技術の立法行政の視察した折の経験を披瀝している。「従来米国においても陸海軍関係の研究機関と民間研究機関(大学を含む)との連絡不十分であった。そのため、互いに研究成果を秘密にし、研究の連絡をしなかったため多額の国費を無駄に使用し、かつ充分の成果を短時間に得ることが出来なかった。そこで1947年陸海空の三省を併合して国防省とした際、国防省の内に科学技術振興院を設置し、軍事研究に関して政府所属機関の研究及び委託研究の大綱を統制し、各所における有効利用をはかっている」ことを紹介した上で、「このことは単に米国の軍事研究のみの問題でなく、広く自由主義諸国の間にも推し進めて行きたい」との米国側の要望を伝えたうえで、日本にも科学技術庁の新設が、科学の研究費不足と研究、連絡の不能率を克服するため必要であることを論じている。
それによれば、科学技術庁の任務は、1.科学技術の基本的セ施策の統合企画立案、2.関係行政機関の間の事務の総合調整、3.科学技術研究費の査定、調整、4.科学技術情報の収集周知宣伝、5.特に必要な総合研究及び連絡調整、であり、性格は総理府の外局で、長官には国務大臣を当て、付属機関として科学技術情報所と中央科学技術特別研究所を持つ。
前田は6月にこの案を学術会議に持ち込み、そのとき、中央科学技術特別研究所の目的は「原子力兵器を含む科学兵器の研究、原子動力の研究、航空機の研究」にあるという「部外秘」情報をもらしたと伝えられている(日本の原子力問題、民主主義科学者協会物理部会監修、理論社刊、1953年4月25日、p21)。もちろんこのことは伏せられた。
[投稿者注:物理学会では軍事機関との共同研究や軍事目的研究は禁止されており、化学会や応用物理学会も同様の規定があるだろう。レーガンの時代にスターウォーズ関連で高強度固体レーザーの研究をしていた研究者は猛烈な批判も浴びていた。しかし、その成果が現在のテラワット(10の12乗W毎平方cm)レーザーとして超短パルスレーザーや核融合実験として利用されている(それも核拡散だな)。アメリカでは、爆薬の研究に使えると軍の予算を取ってきて趣味の有機化学合成をしていた学者もいるくらい、学者と軍事機関はオープンに持ちつ持たれつの関係である。]
3.中曽根予算
中曽根康弘は1945年8月6日、高松で広島のきのこ雲を遠望した。「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社(1922)p75)と述べている。高松から広島の爆心地までは150キロほどの距離がある。原子雲のかなたに原子力発電の未来を見たということに、筆者は懐疑的である。このとき彼の目に見えていたのはやはり原子爆弾だったのではなかろうか。
1953年、復員後政治家になった中曽根に、マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属していたコールトンが接近し、ハーバード大学で開催されたキッシンジャーの主催するセミナーに招聘された。セミナーの帰路、中曽根は、コロンビア大学に留学していた旭硝子ニューヨーク駐在員の山本英雄に会って原子力の情報を仕入れた。山本は、「彼はとりわけ原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。中曽根氏は再軍備論者でしたから、将来、日本も核兵器が必要になると考えていたのかも知れません」と語った。
帰国後中曽根は、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、際等憲三などと諮り、原子力予算の準備を始めた。当時中曽根は改進党に属していたが、自由党派過半数を割り、改進党などの同意無く予算審議を進めることはできなかった。改進党の修正予算規模は五十億円、そのうち原子力関係として3億円を提示し、3月1日の三党折衝であっさりと承認された。ことが簡単に妥結したのは、提案者を除く折衝議員の原子力に対する理解不足がその原因であった(原子力十年史)。3月2日の両院議員総会で、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億500万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」と決定した。翌3月3日の衆議院予算委員会に、全く突如として自由党・改進党・日本自由党の三党共同修正案として提出され、4日の衆議院本会議で提案趣旨説明が行われ、予算案は修正案も含めて一括採択された。まさに切迫した審議日程を読み込んで周到に準備された提案であった。
予想外の事態に学術会議の科学者たちは驚愕し抗議し、マスコミも一斉にこれを批判したが、そのことは第五福竜丸が焼津に帰還した3月14日までだれも知らなかった。
4.原子力挙国体制の成立
55年8月8日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際が意義が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての精神国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。
四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9月12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は声明を発し『1.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと、2.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること』など5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。原子力基本法は保革全議員の署名を得て1955年12月に議員立法として成立し、初代委員長に正力松太郎が就任した。
「本問題は政争の圏外におくこと」で原子力は超党派で推し進めることとなり、平和利用三原則を基本法に取り込むこと、原子力委員には労働代表を加えることで、もはや異議を差し挟む者はいなくなった。
5.科学者の武装解除
原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論捜査(ママ、操作の誤りだろう)があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を撒き散らした。自由民主党は、1955年11月15日の「自由民主党立党宣言」とともにはっぴょうされた「党の政綱」において、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。
正力は、原子力による産業革命をスローガンに総選挙に出馬し、一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。ここに中曽根・正力連合が成立し、1956年に正力は原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。
正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。
[投稿者注:正力が原子力推進に燃えたのはこの事業を成功させた実績を引っさげることで総理大臣を目指していたからで、彼自身は核武装を目標としていたわけではない。正力の人となりを知ったらこんな権力亡者のA級戦犯の名前を冠した賞なんて野球選手も貰いたくなくなるだろうな。読売と正力については木村さんの読売新聞・歴史検証も見て頂くと良いだろう。原子炉の型には何種かあったようだが、正力はコールダーホールが出来たときに合わせて大々的にキャンペーンを張ったとのこと。]
6.岸信介の核兵器合憲論と国家意思論
初期自民党の政権は、短期の間に鳩山から石橋湛山に移り、さらに1957年2月に岸信介内閣が誕生した。首相着任の直後の4月26日に政府は「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5月7日に岸首相は「自衛のためであれば核保有は合憲」であると発言し、これはその後の日本政府の統一見解として確定した。
翌58年正月に岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」と書いている。
政治家のこの冷徹な見識に比較して、科学者あるいは市民運動側の認識は、あまりにも貧弱であったといわざるを得ない。政策や国会意思の変化にかかわらず、軍事転用を不可能とするような技術的論議がなおざりにされてきた。
[投稿者注:トリウム熔融塩核分裂型原子炉が軍事転用されない放射性廃棄物の無い原子炉として提案されている。軽水炉もそうなんですか。]
7.佐藤栄作のトリレンマ
岸信介の実弟の佐藤栄作は、1963年7月に池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。砂糖はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。65年11月に病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受けた佐藤は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言した。66年1月に渡米した佐藤はジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じたことは後に述べる。
ベトナム戦争を巡る情勢が混迷する中で、沖縄返還を政治の俎上に載せることは困難を極めることであった。米大統領はジョンソンからニクソンへと引き継がれ、米軍のベトナムからの撤収が現実化する中で、ようやく交渉の前途にめどがついたのは1970年になってからであった。
沖縄問題は米軍基地の問題であり、基地問題は沖縄の核の問題でもあった。沖縄の施政権が日本に移れば米軍基地は本土並みに扱わねばならず、当然核は撤去せざるを得ない。米国がこれを受け入れることは困難であった。おりしも新大統領のニクソンドクトリンは、世界に展開する米軍基地の縮小・撤退を謳っていた。米軍が日本から撤退することになれば、日本は独自の核武装に踏み切らざるを得ないと佐藤は考えていた。佐藤栄作のトリレンマである。
当時の米国は日本の核武装は容認しない方針であった。日米関係のジレンマは密使若泉敬を介した密約によって解決した。表向きは核抜き本土内の返還を実現し、密約で米軍の沖縄基地自由使用を保障した。米国は核の傘を日本に提供することで、日本の核武装を無意味化し、佐藤は非核三原則を国策とすることで米国を安堵させ、ノーベル賞を受賞した。
しかし、ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。
8.日本核武装計画
佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。
最初に著されたのは、1968年7月15日に朝雲新聞社から出版された「日本の安全保障」1968年版であった。これは安全保障調査会によって出版され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。
67年の秋深い頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。
外務省は1969年に「わが国の外交政策大綱」をまとめたが、その中に「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、1.当面核兵器は保有しない政策を採るが、2.核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」と記されている。
内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。
この一連の調査報告は1967年から70年ごろまでの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであり、掣肘を受けないよう配慮して行われたことは、いうまでも無い。
動燃による核燃料サイクル計画は、東海再処理工場の運転に対してカーター政権の介入を受けしばらく停滞したが、80年代には高速炉「もんじゅ」の建設に着手し、そのブランケット燃料の再処理のための施設「RETF」の建設も行われ、青森県六ヶ所村には巨大な再処理工場の建設が行われるにいたった。た。(ママ)しかし、95年の「もんじゅ」におけるナトリウム炎上事故により、佐藤栄作の広壮な計画は頓挫したと言うことが出来よう。
政府は核燃料サイクル計画の頓挫を受けて、軽水炉でプルトニウム燃料を燃やすプルサーマル計画へと重心を移しながらも、再処理工場の建設工事を継続し、「もんじゅ」の再開の機会を測りつつある。技術的にも経済的にも成り立ち得ないこれらの計画を、国策として推し進めるその背後には、一貫した各政策が背後にあることを見逃すことは出来ない。
核燃料サイクル計画に対し、軍事転用の技術的可能性を論ずることが、反原発運動や反核兵器運動の内部において、タブー視される傾向があったことも、指摘しておかねばなる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
沖縄密約の証拠がまた見つかった【天木直人のブログ 6/18】
http://www.asyura2.com/07/senkyo36/msg/786.html
投稿者 天木ファン 日時 2007 年 6 月 18 日 09:55:53: 2nLReFHhGZ7P6
2007年06月18日
沖縄密約の証拠がまた見つかった
17日の東京新聞の一面に「日米密約の資料発見」の大見出しでスクープが踊った。沖縄に核持込を認めた密約の存在を示す新たな資料がまた米国の国立公文書館で見つかったという。
私は毎日主要日刊紙に目を通すのであるが、移動中はすべての新聞に目を通すことが出来ない場合がある。その日の朝も移動中であったので東京新聞を見落としていた。東京に戻ってから東京新聞を買い求めてこのスクープを知った。
1969年の佐藤栄作首相とニクソン大統領による日米首脳会談によって沖縄返還は決まった。その過程で佐藤首相の密使として米側責任者と協議を重ねた若泉敬元京都産業大学教授は、1994年に、「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋刊)という著書を発表し、有事における「沖縄への核持込み」を認める密約に日米両国首脳が合意していた事を暴露した。その後若泉氏はマスコミのインタビューなどに一切応じることなく、沈黙のまま2年後の96年に他界した。
今回発見された米国立公文書館の資料は、この若泉氏とキッシンジャー大統領補佐官(当時)の通話記録89点を含んだ新たな資料だという。日本大学の信夫隆司教授が発見した。その内容は若泉氏の著作で明らかにされた密約の記述と一致するという。「密約」を否定し続ける日本政府はまたしても追い込まれた。
「またしても」と書いた理由は、すでに「密約」は周知の事実であるからだ。その決め手として毎日新聞の元政治部記者であった西山太吉さんの訴訟を通じて明らかにされた事実がある。沖縄返還交渉時に米国側が支払うことになっている米軍用地の原状修復経費400万ドルを日本が密約で肩代わりを約していた。それを示す外務省公電を入手してすっぱ抜いた西山太吉氏は、密約の存在から国民の目をそらす形で、政府に機密漏洩罪を犯したと訴えらた。密約問題はうやむやにされてしまった。
その後2000年に、この密約の存在を示す文書が米国立公文書館の資料で確認された。さらに2006年には当時の外務省担当局長であった吉野文六氏が密約の存在を認める発言を、新聞社のインタビューに答える形で公表した。
西山氏は、2007年5月「沖縄密約」(岩波新書)を上梓し、渾身の力で公文書や当時の記録を調べ上げ、沖縄返還時の密約が複数あることを明らかにした。核持込の密約もその一つである。
今回毎日新聞がスクープしたあらたな米国立公文書館の資料は、日米密約の存在に駄目押しをする事になる。
もうこれで十分であろう。英語で言えばイナフ イズ イナフ だ。我々国民は検事となり、外務省を被告人として訴追すべきだ。奇しくもこのスクープを報じた17日の東京新聞の書評欄に、起訴休職外務事務官の佐藤優氏が、西山太吉氏著の「沖縄密約」の書評を書いていた。佐藤氏はその書評を次のような言葉で締めくくっている。
・・・外務省は、西山太吉「検事」に対して素直に自供することが、国民から情状酌量を得る為の唯一の道であることを認識すべきだ・・・
http://www.amakiblog.com/archives/2007/06/18/#000437
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Re: 夢想と推測は違うぜよ
http://www.asyura2.com/0601/asia5/msg/341.html
投稿者 影の闇 日時 2006 年 7 月 17 日 17:26:09: HiXvZf/FmwPNU
(回答先: Re: 日本が 投稿者 Sirent Tears 日時 2006 年 7 月 16 日 01:47:15)
>私個人の推測(妄想?)である
モーソーモーソー wwww 繰り返すが、無知と妄想は裏腹、前提になる(現実)認識が突飛だから、当然推測??にもならず、丸でお話にすらなってない。
>日本が核兵器の開発を始めた場合には中国の意を汲んだアメリカが全力を挙げて妨害・阻止を行う
ホゥ、では今から40年程前、核兵器を持った中国に刺激されて、日本が核兵器開発の意欲を示した時、全力を挙げてアメリカが妨害・阻止したのだが、それは中国の意図を汲んだものだったわけ? www
断っておくが、当時の日本は勿論、米国にとっても、中国は今の北朝鮮みたいなものだったんだぜ。 www
それにIAEAの査察対象(つまり今のイランや北朝鮮と同じ様な眼差しで見られてたというわけだが)は、少なくとも冷戦が終わるまではその大半がドイツと特に日本だったが、それは中国の息が掛かっていたから、っていうわけかい?wwww
>日本が核を装備するのは中国にとっては正しく「悪夢」ですから
これもモーソーとかムソー、でなければマインドコントロールというものだ。ww
故若泉敬氏の証言にもある通り、日本への、米軍の「核持込」は事実上フリーハンド!だとしたら米軍が所有しているか否かで、実質的には日本に核は在る、ということだろう。
これを中国から見てみれば、一体何処が違う? 国家意思の有無なんて言うなよな。
国家意思が有る無しは、自前の国家戦略を持ってるか否か?だ。
一体、今の日本に’寄らば大樹の陰’以上の「国家戦略」が有るかどうか?-これはこちらから尋ねたいものだ。 そして、それが無ければ今と何処が違う?
それとも、「中国にとっては正しく「悪夢」」というのは「キチガイに刃物、子供に鉄砲」ということかえ?
だとしたら、それは一人中国の「悪夢」ではなく、周り全部であるだろうに!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
米艦船の核兵器持ち込み―ライシャワー元駐日大使の証言(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/09/senkyo62/msg/597.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 5 月 05 日 15:38:33: twUjz/PjYItws
(回答先: 沖縄返還交渉―有事の「核持ち込み」容認、中国向けだった「核の撤去」(毎日新聞) 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 5 月 05 日 15:16:40)
http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2009/05/05/20090505ddm010030140000c.html
アメリカよ・新ニッポン論:検証(その3止) 米艦船の核兵器持ち込み
■検証・米艦船の核兵器持ち込み
◇持ち込みなんて大げさな…--岸信介元首相
原子力兵器を装備した船が入ってきたから持ち込みだなんて、大げさな、そんなこと考えてなんかいませんでした。我々の持ち込みだということの考え方は、陸上に装備されることを言うんでしてね。
……………………………………………………
1981年5月18日、毎日新聞はライシャワー元駐日大使の「核持ち込み」証言を特ダネで報じ、日本中に衝撃を与えた。核搭載米艦船の寄港を知っていながらあいまいなままにしていた日本政府の立場を、誰よりもよく知っていたライシャワー氏は、なぜあえて大胆な証言に踏み切ったのか。
毎日新聞はライシャワー氏への取材に先立つ約半年間、この問題を60年安保改定交渉や沖縄返還交渉時の経緯にまでさかのぼって関係者たちに取材している。あれから28年。歳月は、新たな視点を提供してくれた。当時の取材メモを基に、いま改めて「ライシャワー証言」の意味を検証する。(太字は、いずれも81年当時の取材メモから。肩書は81年時点)
◇そこまでいうと内政干渉に--楠田実・佐藤栄作元首相秘書官
(非核三原則の)「持ち込ませない」というのは、陸に貯蔵庫を造るとかを指している。それ以外は認識の外。そこまでいうと米国の全核戦略体系に触れる問題。(米国への)内政干渉になる。あいまいな部分があっていいということの典型的なものだ。
……………………………………………………
非核三原則は、71年11月の国会決議に「政府は核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずの非核三原則を遵守(じゅんしゅ)する」と明記され、「国是」となった。しかし、政権担当者たちは当初から「持ち込み」と非核三原則の矛盾を自覚していた。
佐藤元首相は67年12月の国会答弁で「私どもは核の三原則、核を製造せず、核を持たない、持ち込みを許さない、これははっきり言っている」と初めて表明。68年1月27日の施政方針演説でも「核兵器の絶滅を念願し、みずからもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意」と明言した。
ところが、佐藤元首相は施政方針演説から、わずか3日後の国会答弁で、非核三原則に「核軍縮」「米国の核抑止力への依存」「核エネルギー平和利用」を加えた「核4政策」も打ちだした。「米国の核抑止力への依存」を非核三原則の前提にすることで、「持ち込ませない」の意味を薄める狙いだった。
楠田氏は81年の毎日新聞の取材に対し「(非核三原則は)核の傘の下にいると言いながら、核の下にいなくなってしまう。危険を感じたので、急に核4政策をでっちあげた」と明かしている。
当時は中国の核実験が64年に行われたばかりで、日本の非核政策の行方が問われていた。「核4政策」は、非核三原則で核武装を否定する半面、その原則を維持するために米国の核の傘に入っていると確認し、核廃絶をすぐには実現できない「念願」と位置づけて整合性をつけた。「でっちあげ」とはいえ、現在も日本の核政策は、この枠組みにのっとっている。
◇国会決議は政策的失敗だ--木村俊夫元官房長官
非核三原則は内閣の方針で、国会で決議すべきものではない。「持ち込ませない」が一番問題になる。しかし、沖縄返還の荒れた国会で切羽詰まって、とうとう公明党(当時は野党)と保利(茂・自民党幹事長)さんが妥協した。佐藤さんも不満なんだが、(沖縄返還協定が国会を)通ればよいと。大きな政策的失敗だった。
……………………………………………………
それでも、非核三原則は71年11月に国会決議された。決議の正式名称は「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する衆議院決議」。時は沖縄返還協定を審議する沖縄国会。自民党総裁として4選を果たした佐藤首相は、69年11月のニクソン米大統領との日米首脳会談で合意した沖縄返還の「核抜き・本土並み」を花道に、長期政権の幕引きに入ろうとしていた。
ところが、自民党は71年11月17日の衆院特別委で、協定を抜き打ちで強行採決した。同24日の非核三原則決議は、その正式名称が示すとおり、この混乱を収拾し、野党側を本会議に出席させるための材料だった。同日、沖縄返還協定も衆院本会議で可決され、約半年後の72年6月、佐藤首相は引退を表明する。
決議は後段で「沖縄返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきだ」としている。だが、69年11月の日米首脳会談では、有事の際、沖縄に核を持ち込む密約が首脳間で結ばれていた。
密約に密約を重ねた日米外交の行き着いた先が、国会決議を巡る動きに表れている。木村氏は政党間の駆け引きによる妥協と証言したが、密約である以上、野党の建前での「非核」「核抜き」の要求を否定することはできなかったとも言える。
木村氏は寄港と沖縄の二つの密約自体を知っていたかは明言していないが、寄港を巡る問題をよく認識し、沖縄密約では佐藤元首相の密使だった若泉敬氏に費用面での手当てをしたことを認めている。木村氏の真の懸念は、密約と政府の公式政策の矛盾が抜き差しならなくなることだったと見られる。
日本政府が米国の日本に対する核の傘に正面から向き合おうとせず、「非核」や「核抜き」という聞こえの良い言葉を前面に出して内政を乗り切ろうとしたことが、日米関係に次第にあいまいな雲をかけていく。
◇米に明言させない、引き継ぎ受けた--竹中義男・元陸将
核兵器について日本が米側に「過去、現在、将来において核を持ち込む」であろうことを明言させるような照会はしない。そういう引き継ぎを先任者から受けた。言い換えれば、何とか米側に明らかにさせないように、日本がすること。
ラロック事件でも、米国に真実を言わせないで、国内の議論を沈静させなければいけなかった。米側は(持ち込んでいないという)日本側の態度について非公式の場では「常識はずれのことにおつきあいはごめんだ」と言っていた。
……………………………………………………
74年10月、「日本を含め寄港時に米艦船は核を搭載している」というラロック元米海軍提督の証言が報じられ、日本政府は大きくよろめいた。ラロック氏は核装備可能なミサイル巡洋艦の艦長だったこともある。寄港する度に核兵器を外すことはしないという証言には強い説得力があった。「どこかで外してくるというばかげたことを信じるものはいない。軍事力としてなりたたない。それを証明したのがラロックだ」(81年の石橋政嗣・元社会党委員長談)
「米政府から何の事前連絡もなく、そういったことはないと考えている。またあらためて米政府に核は持ち込んでいないとの確認を求める必要はないと思う」--。当時の木村俊夫外相は、証言が明らかになった74年10月6日夜、記者団にこう述べて必死にかわした。竹中氏が指摘している「日本から照会しない」という日本政府の「暗黙の対処方針」に沿った対応だった。
「ラロック証言で非常に不利な立場に追い込まれた。伊勢神宮に行った時に証言が飛び出し、同行記者にすぐ(三重県)桑名でやられちゃったんです。重い気持ちで東京に帰ってきた。もう嫌だったですね」(81年の木村氏談)と語っている。
米国人に指摘されるまでもなく、日本国民をはじめ誰もが分かる「常識はずれ」が日米間に困惑を広げた。当時、毎日新聞ワシントン特派員だった斎藤明氏は、報道の翌々日(現地時間10月8日夜)、安川壮駐米大使がわずか20分の会談のためにインガソル国務副長官を自宅まで「夜回り」した事実をメモに残し、日本政府の動揺ぶりを生々しく記録している。
この会談の結果、米側は「一私人によってなされたもので、米政府の見解をなんら代表しうるものではないことはすでに述べられている通りである」とする政府見解を発表した。心中、その不条理をよく知っていた木村外相は、当時の記者会見で「今回、米国は何らかの必要があってこうしたもの(政府見解)を出さなければならないのかと考えたかと思われるが……」と微妙な発言をしている。
密約の実質が、すでに日本政府のために「国内の議論を沈静化させるため」だけのものになっていることが、あらわになり始めていた。
◇「米国を信頼している」という(日本政府の)答えに、私は誠に当惑させられた--ライシャワー元駐日大使
私が駐日大使の時代に、この問題が日本の国会で取り上げられ、日本政府が(核兵器積載米艦船の)通過は許されないという、協定の改ざんとなる解釈を受け入れるといい、「しかし、米国を信頼している」という時、私は誠に当惑させられたものでした。つまり、そういう日本政府の答えは「米国側がごまかしをしている」というように見せることになるわけです。だから、私は外相に会って「そのような形で答弁しないでください」とお願いしたくらいなのです。(ライシャワー発言を報じた81年5月18日付の本紙朝刊から)
……………………………………………………
ライシャワー氏が述べている外相との会談は、後に西南女学院大学の菅英輝教授が米国立公文書館で発見した、駐日米大使から米国務長官あての公電で裏付けられている。会談は1963年4月4日、ライシャワー氏が当時の大平正芳外相を大使公邸に招いた極秘の朝食会として行われた。両氏はその場で、1960年1月に結ばれた核搭載艦船の日本寄港を認める密約の本文を再確認している。
60年安保改定交渉での密約を明らかに知っていたライシャワー氏が、その意味が知られていなかった20年近く昔の「大平・ライシャワー会談」にたびたび言及しているのは、「日米政府間では明瞭(めいりょう)な問題を、なんとかあいまいにしようとする政策は日米関係に悪影響を与える」というメッセージだったに違いない。斎藤明氏は、当時米政府の対日政策立案者の間で「ライシャワー大使の申し入れに大平外相が『ハーイ』と答えた」というエピソードが流布していたと振り返っている。
ライシャワー氏はインタビューで、ラロック証言について「えらく早くしぼんでしまいましたね。その意味するところは、日本では『よくよく考えてみると、それはお笑いだ』と世間が思っている--と少なくとも私は了解しました」と語っている。
米政府内で「ハーイ」のエピソードが軽い笑いとともに語られ、日本の世間は「お笑いだ」と思っている。16歳まで日本で育った知日派元大使の懸念はどこにあったのか。米艦船が核兵器を積載したまま寄港しているかどうかは、少なくともライシャワー氏にとってはすでに本質的な関心事ではなかったはずだ。
ワシントンの知日派の間に、ライシャワー・ハーバード大教授(元駐日大使)が、日本への核持ち込みの真相を公にするかどうか真剣に考えているらしい、とのうわさがボストンから風の便りのように流れてきた。この点をあいまいにしておくことは日米間に相互不信を増幅するだけ、との日米関係の将来への、教授の深い憂慮があったためであろう。(81年5月18日付本紙朝刊から)
米政府は密約にかかわる多くの公文書を公開し、核搭載艦船がかつて日本に寄港していたことは「常識」になったが、日本政府は寄港密約の存在自体を否定し続けている。あいまいさが戦略的に有効であるより、相互不信を増幅すると懸念したライシャワー氏の真意を、日本政府は今なお受け止めようとしていない。
==============
◆ライシャワー元駐日大使の証言
ライシャワー元駐日大使は毎日新聞のインタビューで、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港が日米の合意のもとに容認されていたと明かし、1981年5月18日に報道された。日本政府は非核三原則の「持ち込ませず」との関連について「核を搭載した艦船の領海通過、寄港も含めて核の持ち込みはすべて事前協議の対象」(当時の宮沢喜一官房長官)として、事前協議が行われていない以上、核兵器は持ち込まれていないとの見解を押し通した。この報道で、毎日新聞は新聞協会賞を受賞した。
◆核4政策
・核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず(非核三原則)
・核兵器の廃絶を念願するが、当面は実行可能な核軍縮にわれわれは力を注ぐ
・通常兵器による侵略に対しては自主防衛の力を堅持。国際的な核の脅威に対する我が国の安全保障は日米安全保障条約に基づく米国の核抑止力に依存する
・核エネルギーの平和利用は最重点国策とする
(68年1月30日、衆院本会議での佐藤元首相の答弁)
◆ラロック元提督の証言
1974年9月に米議会原子力合同委員会軍事利用小委員会(サイミントン委員会)が行った公聴会で、ジーン・ラロック元提督(退役海軍少将)が「私の経験では、核兵器搭載能力を持つすべての米国の艦艇は核兵器を搭載している。それらの艦艇が日本など他の国の港に入るとき、核兵器を外すことはない」と証言し、同年10月6日に公表された。
==============
◇「密約」とされる主な日米外交交渉
日時:1953年10月28日
場所:日米合同委員会
出席者:日本側=津田實法務省刑事局総務課長、米国側=トッド中佐
発覚:08年に米公文書館で議事録
日本代表「(在日米軍の米兵が事件を起こした場合)日本にとって著しく重要と考えられる事件以外については第1次裁判権を行使するつもりがない」
■米兵への1次裁判権放棄
53年10月22日の日米合同委員会の議事録によると日本側が「法違反者が日本の当局により身柄を保持される事例は多くないであろう」と身柄拘束もできるだけしないと表明している。米兵らの日本での法的地位を定めた日米行政協定(現在の日米地位協定)は1953年9月に改定され、「日本は(公務中の犯罪を除いて)1次裁判権を行使する権利を有する」とされている。
……………………………………………………
日時:1960年1月6日
場所:東京
出席者:日本側=藤山愛一郎外相、米国側=マッカーサー駐日大使
発覚:99年に米公文書館で会談記録など
事前協議は、米国軍とその装備の日本への配置、米軍機の飛来、米軍艦船の日本領海や港湾への立ち入りに関する現行の手続きに影響を与えるものとは解されない。
■核搭載米艦船の寄港認める
60年の日米安保条約の改定では、核兵器の日本への持ち込みは事前協議の対象とされた。しかし合意では、核兵器を搭載した米艦船の寄港・通過は事前協議の対象としないことが確認されている。
在韓国連軍に対する攻撃によって起こる緊急事態では、在日米軍が戦闘作戦行動をとる必要がある際には、日本の米軍基地を利用してもよい。
■朝鮮有事での自由出撃
議事録には安保条約発効後に開かれる第1回日米安保協議委員会で、藤山氏が発言するとされている。朝鮮半島有事の際、米軍が在日米軍基地から出撃するのに事前協議は必要ないことを日本側が約束する意味がある。
……………………………………………………
日時:1963年4月4日
場所:東京・米大使公邸での朝食会
出席者:日本側=大平正芳外相、米国側=ライシャワー駐日大使
発覚:ライシャワー氏が81年、毎日新聞の取材に証言。99年に米公文書館で、ライシャワー氏から国務長官あての会談の報告公電がみつかる
私(ライシャワー氏)は大平氏と60年1月6日の秘密の記録(密約)をあらためて検討した。大平氏は、米艦船に積載された核兵器の日本への寄港は(事前協議の対象となる)事態には当てはまらないことに注目すると発言した。
■寄港密約を再確認
当時の池田勇人首相が国会で「核弾頭を持った船は日本に寄港してもらわない」などと発言したことに危機感をいだいたライシャワー氏が60年当時の寄港密約の文書を大平氏に示して内容を再確認した。
……………………………………………………
日時:1969年11月19日
場所:ワシントン・ホワイトハウス大統領執務室の隣の小部屋
出席者:日本側=佐藤栄作首相、米国側=ニクソン大統領
発覚:元京都産業大学教授の若泉敬氏が94年に著書で明らかにした
米大統領「重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は日本政府と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とする」 日本国首相「米国政府の必要を理解して、事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要を満たすであろう」
■有事の際の沖縄への核再持ち込み
沖縄返還後も、有事の際には沖縄へ核兵器を再び持ち込むことを日本が事実上拒否しないことを事前に首脳間で合意していた。
……………………………………………………
日時:1969年12月2日
場所:不明(沖縄返還交渉)
出席者:日本側=柏木雄介大蔵省財務官、米国側=ジューリック財務長官特別補佐官
発覚:98年に米公文書館でみつかる
日本政府はこの協定で別の方法で明確に解決されない、返還に伴う基地の移転費用および他のすべての米国予算・コストをカバーするために、合意した2億ドル相当のすべてを、返還後遅くとも5年以内に提供する。
■沖縄返還の日本側財政負担
沖縄における米資産買い取り費として1億7500万ドルの支払い▽基地移転費用など2億ドル--など総額5億1700万ドルに上る日本側の財政負担を決めている。日本側が発表した沖縄返還協定では、日本側の財政負担は3億2000万ドルにとどまっている。
……………………………………………………
日時:1971年6月12日
場所:外務省
出席者:日本側=吉野文六外務省アメリカ局長、米国側=スナイダー駐日公使
発覚:00年に会談の議事要旨が米公文書館でみつかる
日本政府は返還協定に基づいて支出する3億2000万ドルのうち(原状回復補償費の)400万ドルを自発的支払いにあたる米信託基金設立のために確保しておく。
■沖縄密約事件の密約
本来ならアメリカが負担すべき土地の原状回復補償費400万ドルを、日本側が支払うとした3億2000万ドルの中に含めると合意している。2人が署名した別の文書では、ボイス・オブ・アメリカの施設移転費用1600万ドルについても、3億2000万ドルの中に含めることで合意していた。沖縄返還協定に記された日本側の財政負担の内訳は、資産買い取り費▽人件費の増加分▽核兵器撤去費などで、実際の内訳は発表とは異なっていた。
==============
この特集は、伊藤智永、須藤孝、門田陽介、隅俊之が担当しました。
クマのプーさんコメント:本日(5/5)天木直人の有料メルマガにてこの記事を紹介している。3面に及ぶこの特集記事には気づいていたものの、難しそうと敬遠した。しかし天木さんのメルマガを