『保守主義の政治哲学要綱』(昭和35)

菊地研一郎(会員番号2555) 投稿日:2010/06/09 02:12

会員番号2555の菊地研一郎です。

「保守主義の政治哲学要綱」を下に写します。
これは自民党が過去に作ったものです。
この文章はネットの上には無いようです。

引用元は、昭和六十二年一月二十日発行の
『自由民主党党史 資料編』(pp.20-26)です。

作成者は「党基本問題調査会」(会長=清淑一郎)です。
承認されたのは、第七回自由民主党定期大会においてです。

この大会の開催日と場所は昭和3年1月2日の日比谷公会堂、
重要決定事項は、日米安保条約の早期批准実現です。

もくじ

 まえがき
 一 中庸の精神
 二 新国民主義
 三 民主主義の擁護と政治の限界
 四 新しい資本主義と福祉国家への道
 五 結び

(引用開始)

保守主義の政治哲学要綱
昭和三十五年一月二十七日

 保守主義の精神は、良き伝統と秩序はこれを保持し、悪を除去するに積極的であり、且つ、伝統の上に創造を、秩序の中に進歩を達成するにある。
 このことは、保守主義の世界観が、破壊的急進主義を排すると共に、過去と現状のみを守旧する反動的保守主義とも異なる道であることを意味する。

 一 中庸の精神

 近代保守主義の創始者エドマンド・バークは、「維持する性質と改良する能力を併せ持ち、保守と改革を同時に調査的に遂行することが、保守主義の真髄である」と定義し、英国民の発展的改良主義と妥協的な中道精神を尊しとした。
 国家、民族の消長を考える場合、色々な要素の中で其の国民のものの考え方、即ち、哲学が特に重要であると思われる。
 戦前、わが国民、特に指導層は、ものの一面より考えない傾向が強く、これが独善的な観念論となって国をあやまる結果をまねいた。物質を無視した極端な精神主義、他国の立場を考えない八紘一宇の世界征服思想、個人の人権を抹殺した右翼全体主義等はその典型的なものであり、このような白か黒かに割り切ってしまう、一面的なものの考え方が、日本をして敗北せしめたのである。しかし乍ら、終戦後、このような一面的な考え方が、果たして払拭せられたであろうか。この点に関する限り、多大の疑問なき
を得ない。
 社・共両党並びに、いわゆる進歩的文化人の考え方を概観するに、唯心的観念論をマルクス流の唯物論に置き換え、右翼全体主義が共産主義的全体主義にとって代わったに過ぎず、平和と言えば、絶対無防備論以外一切受けつけない、ゆとりのない考え方、かかる思想形式は、軍備と言えば、世界征服以外考えなかった嘗ての一部軍閥指導者の一面的、独善的な考え方と全く軌を一にするものであり、単に、表を裏にしたに過ぎず、そこには、過去の反省からくる思想進化の片鱗すら見出すことが出来ないのは遺憾である。
 愛国心が超国家主義に悪用されたからといって、正しい祖国愛すら捨てて省みなかった戦後の教育と国民思想、日本を植民地化から救った戦鑑「三笠」を朽ちるにまかせた一例でもわかるが如く、極端な歴史と伝統の蔑視、国民自尊の精神の欠如も、斯る軽薄な一面的思想傾向の現れであり、われわれ保守主義者の忍び得ざるところであった。
 誇り高き偉大な国家で、祖国愛と伝統を尊重しない国は、世界の何処にも見当たらないのである。
 保守主義の哲学は、健全なる常識を尊重する。即ち、表を見れば必ず裏を見る中正なものの考え方を尊ぶ。これは又自己の立場と共に他人の立場を尊重する寛容の精神、人道主義的精神に通ずるものである。
 古来哲学思想として、唯心論と唯物論が対立してきたが、共に一面的思考であることを免れず、たとえ弁証法を取り入れたとしても、このことには変わりはない。真理は、むしろ両者の調和にこそあるのである。
 従来、わが国民は、「人間は空気を吸って生きている」と一面的に教えられ指導されて来たが、真理は「人間は空気を吸って、しかも、吐き出すことによって生きている」のであり、また、従来、「人間は、飯を食って生きている」と教えられたが、真理は「人間は、飯を食い、しかも、排泄して生きている」のである。
 このように、陰と陽、男と女、個人と全体の両面を考え、その調和の上に生生発展してゆくことこそ、自然の姿に忠実なるゆえんであり、国家、民族の生生発展の原理も、其の例外ではあり得ない。
 政治の世界において、単に、自由だけがあるならば、それは、放縦な社会になってしまい、また、秩序だけを重んずるならば、それは一種の暴政になってしまう。自由と秩序の調和ということこそ、保守主義の尊重する立場である。
 アジア後進地域に見られるごとく、貧富の差が甚だしい国家は、つねに革命の危険を内包する不安定な国家と言わなければならぬ。釣り合いのとれた中産階級国家・福祉国家・文化的道義国家の建設こそ、保守主義者の目標とする国家である。
 アリストテレスはその著『政治学』において「政治の思想は中庸にあり」と言った。大乗仏教は「中道実相」を説き、儒教は「中庸の徳」を教え、近代においては、エドマンド・バーク並びにヒュー・セシルも、政治における中道を唱えた。日本の現状を眺め、改めてその意味するところをわれわれは、謙虚に味わってみなければならない。保守主義政治哲学の基本理
念は、実にここに存するからである。

 二 新国民主義

 保守主義の政治哲学は、歴史的に連続して存在している民族共同体への愛情と信念をその基本原理とする。真の保守主義者は、わが国の偉大さ、その繁栄、祖国の名誉とその理想を実現するために努力しなければならない。円熟した愛国心こそは、国民道徳の基本であって、広い人類愛への出発点である。
 ひるがえってわが国の現状をみるに、一方においては、マルクス理論を奉ずる社・共両党のように階級闘争至上主義を主張し、革命目的のためには同胞相喰ましめ、自民族の窮乏、国民大衆の困却を顧みない考え方が存在し、他方においては、敗戦の反動として自民族を蔑視し、歴史と伝統を軽視する。個人主義の風潮が存在するとともに、敗戦の結果、徒らなる卑屈と隷従感に陥り、独立国としての自主性と尊厳を自ら放棄するが如き者もあるが、いずれも保守主義の精神とは全く相容れぎるものである。
 しかし乍ら、保守主義政治哲学の基本理念である正しい愛国心は、ファシズムの民族至上主義、国家絶対思想とも根本的に異なるものである。
 今次大東亜戦争の悲劇が、天皇神格論、ヘーゲルの国家観、ヒットラーの『我が闘争』等の思想に影響され、対外的には、選民思想による自民族至上主義の独善にとらわれ、次々に、他民族を征服していったところに、その過誤があったとすれば、国内的には、国民の基本的人権と民主主義を無視して、一部特権階級が超越的な国家絶対思想をつくりあげ、国民を唯々命令的に強制服従せしめたところに、重大な過誤があったと言わなければならない。
 われわれは、かかる誤謬を清算し、世界人類の立場から、わが民族の使命を自覚し、そと、外交においては、人類愛(ヒューマニズム)の精神から世界平和と民族協調を実現し、うち、内政においては、基本人権の尊重と、国民全体の真の民主的な結合体として国家を眺め、良き歴史と伝統に脈打つ民族共同体を愛さなければならない。
 あえて「新国民主義」を主張するゆえんは、実にここに存するのである。
 二十世紀後半は、人類の歴史において特異な二つの課題を抱えている。
 第一は、有史以来初めての究極兵器出現により戦争ということが、勝者も敗者もない人類滅亡戦であるという厳粛な事実であり、ここより、平和問題が第一義的重要性をもって登場する。
 第二は、自由、共産両世界対立の国際情勢下において、国内的には、階級問題の解決、国際的には、後進地域開発の問題である。この問題を解決するためには、ファシズム、民族至上主義もマルクス・レーエン主義、階級至上主義も共に、有害無益というほかはない。
 ヒューマニズムに貫かれ、自民族の立場と共に、人類の平和を考える新国民主義こそ、これが解決の基本原理でなければならない。
 われわれ保守主義者は、奴隷と不正の平和を欲せざるがゆえに、自衛力の保持を是認するものであるが、世界に存在する、もろもろの紛争や「悪」の解決には、武力によらず、国際連合(究極的には、世界連邦を理想とする)の舞台において、平和的に勇敢に主張すべきことは主張し、建設的に処理せんとするものである。
 世界の情勢は、自由諸国は、平等化の原理をとり入れ、自己自身を健全化しつつあり、共産諸国も、自由を欲する人間の本性を無視することが出来ず、自由化の方向に雪どけを開始せざるをえない必然性をはらみつつある。究極平和の理想も決して夢ではないが、現実的には、平和共存の理念により、一歩一歩、両陣営が、イデオロギーにとらわれず、人類の立場で融和する方向に進みつつある。保守主義者は、一方において、偽装平和の宣伝を警戒しながらも、以上の大勢を洞察し、その進展に貢献しなければ
ならない。
 階級問題、後進地域開発問題も、ヒューマニズムに貫かれ新国民主義の精神を基盤としてのみ達成される。民族共同体に対する愛情と信念が、国内に二つの世界を作ることを阻止し、福祉国家。中産階級国家建設への原動力となり、ひいては、国際的に立ち遅れた後進地域への愛情、経済協力となって発露するのである。
 現在の日本に夢がないといわれる。しかしながら、若し、その夢が、かつての日本のような、世界におそれられる「武力国家」「強力国家」を意味するものならば、われわれは、率直に、かかる夢は捨てよと言いたい。
 われわれ国民の新しい夢は、東西両文明の総合、世界に最も尊敬される文化国家、福祉国家の建設にこそあるのである。道義が保たれ、教育が普及し、科学技術の高度な文化国家、国民相互が融合しその生活が均衡し、自由と民主主義の豊かな福祉国家の建設、これこそわが民族の夢であり、新国民主義の理想でなくて何であろうか。
 十九世紀に二人の天才が同時に存在した。一人はカール・マルクスであり、他はアブラハム・リンカーンであった。一人は人間と人間を憎悪、離間せしめんとし、他は人間を融和せんとした。人間融和の使命を達成することこそつねに、保守主義者の目的でなければならない。

 三 民主主義の擁護と政治の限界

 今次の敗戦はわが国民に大きい犠牲をもたらした。併し唯一つ得た良き宝がある。それは「自由」であり「民主主義」である。
 人間人格の尊重こそは、人類の到達した至高であって、人格は他の如何なるものの手段でも道具でもなく、それ自身目的であり、その中に神性を宿す主体として把握するのが、保守主義政治哲学の人間親である。政治上の「自由」も民主主義も畢党するに人間の尊重を基本とするものである。
 これに反し、ファシズムや共産主義は全体の中に個人を埋没せしめ、国家目的の為に個人を手段化して省みないものである。われわれは形の如何を間わず独裁政治の道へ、日本を断じて逆転させてはならないのである。
 終戦後十年余、われわれは此の貴重な「自由」と「民主主義」が深く国民の中に根を下ろしたことを喜ぶものであるが、同時にその将来に一抹の不安なきを得ない。と言うのは、ファシズム、軍国主義の台頭のような右翼からの脅威は今のところ微弱であるが、左翼からの脅威、即ち、共産主義からの脅威は決して無視することが出来ないからである。
 民主主義の本質が個人の人格尊重、言論・思想・宗教の自由、政治結社及び選挙の自由、更に会議中心の政治を基本としている以上、共産主義独裁も明らかに民主主義と相容れないことは極めて明確である。にも拘らずわが国の進歩的文化人、教育者、労働団体の一部には民主主義の名においてファシズムに対しては峻厳な態度を打ち出すが、共産主義に対しては明確な態度を表明せず、迎合に終始して人民民主主義の数鴎の下、敢えて共産主義と民主主義を混同せしめんとする風潮のあることは誠に遺憾である。
 日本社会党は、向坂理論を奉じてマルクス流の階級政党論を今なお主張しているが、これまた真の民主主義と相容れない。「支配階級から権力を完全に、最終的に奪取して革命を行い」社会主義永久政権を作ることを目標とし、その手段としてあえてゼネストも辞せず、二大政党対立による政権交替の如きはナンセンスであると言うのであるから、民主主義・議会主義の本質から、ほど遠いと言わなければならない。階級政党論の対立によって、左右両派が分裂したのは民主主義・議会政治に対する基本的考え方の
相違から来るもので、理の当然と言わなければならない。
 議会政治の運営が、円滑に行われるためには、何よりも必要なことは、各政党が階級対立を超えた国民共同体としての自覚、政策的相違を超えた民主主義・議会政治擁護の共通の信念、独善にとらわれざる中道的な良識と寛容の精神、これらこそ、その必須条件と言わなければならない。英国の政党が、イデオロギーの独善にとらわれず、保守政党は常に進歩的な国民政党であり革新政党は現実的、改良主義的な国民政党であって、おのずからそこに共通の地盤が出来上がり、議会政治の安定している姿は、もって範としなければならない。
 人間の自由の尊重を基本原理とする結果として、保守主義は、また政治権力の限界を自覚するものである。政治の限界を理解することが政治的叡智獲得の芽生えであり、われわれが政治権力の外にあるべき宗教、道徳・慣習。学問・芸術を尊重するゆえんも実にここにある。
 政治権力の限界を自覚する立場は極端な中央集権に反対し、三権分立、権力の分散、地方自治の尊重となって発露する。われわれが単なる産業としてではなく一つの生活様式として農村の利益を擁護して来た理由は、国家の中央集権的傾向に対する抑制力として、農村を認識するからである。
 この立場に対し社会主義、共産主義、ファシズムは真っ向から対立する。これらの政治哲学は政治万能を主張し、中央集権的であり、個人の生活にまで国家権力をしのび込ませようとするものである。かかる立場は地方自治と農村に対する無関心となって現れ、官僚の行うことは善であり、国民の自由行為は悪と見倣す官僚独善主義に陥る危険をはらむものである。
 政治権力の過大視は歴史上多くの独裁者を生み、人類の悲劇をもたらした。われわれは良心の自由を尊重し、「君主も家庭に入るを得ず」また「地方自治は民主主義の道場である」との良き保守主義の伝統を、日本の政治に生かして行きたいと思う。

 四 新しい資本主義と福祉国家への道

 百余年前にマルクス、エングルスによって「共産党宣言」が発表せられ、資本主義崩壊の必然性を唱えたが、百年後の今日歴史はその誤りを如実に証明した。即ち、共産党宣言は、
 第一に資本主義が進むにつれて、プロレタリア勤労大衆はますます窮乏化し、貧民となる。中小資本家や農民もプロレタリアの戦列へと没落し、中間階級のない極少数の資本家と窮乏化した大衆のみが残り、それは必然的に共産革命への道を切り拓くものであるとした。然し現実は、どうであったであろうか。
 人類の叡智は政治の民主主義化と、資本主義の自己修正を行い、今日、社会主義者と雖も、勤労大衆の生活が、欧米各国の民主主義国は勿論、わが国においても、着実に向上していることは、数字の示すとおりであり、マルクスの「大衆窮乏化論」の誤りであることを認めざるをえなくなった。また、中小資本家、中間層並びに独立農民の数も、機械技術の進歩にもかかわらず、没落するどころか全体としてはむしろ、逆に増加していることは、有名な社会民主主義者ベルンシュタインが半世紀以前にすでに指摘し
たとおり、事実がこれを証明している。最近、わが国並びに、先進国において、中産階級の幅が広くなり、国内政治の重要課題として、中産階級の一層の拡大助長が、日程にのぼってきている事実を、地下のマルクスは、果たして予期しえたであろうか。
 第二に、資本主義は資本の必然的集中化の結果として生産過剰となり、破局的な恐慌に見舞われるとの主張も、既に、その根拠を失っている。一九二〇年代のアメリカ大恐慌の後に、ケインズによって唱えられた近代的資本主義理論により、国家による公共投資と景気調節並びに完全雇傭の政策は、いわゆる、「ケインズ革命」となって、自由放任の資本主義の破局的恐慌と失業の必然性を克服する結果となった。このことは、ソ連のマルクス経済学者バルガすらが認めているところである。
 最近の欧州において、歴史的な特異な現象が起こっている。即ち、英国
の労働党や、西独の社会民主党並びに北欧諸国の社会主義政党が、社会主義本来の国有国営化政策に重大な修正を加え、自由経済と生産手段の私有を是認する福祉国家の建設に重点をおきかえつつある。この事実は、何を物語るものであろうか。
 破壊と革命と独裁につながる共産主義、社会主義革命よりも、自由と民主主義を基盤とした改良主義的な福祉国家政策の方が、より多く国民大多数の幸福を約束することを自覚したからに外ならないのである。
 マルクスの理論が、現実において誤謬であることを示すいま一つのよい例はアメリカとイギリスの如く、資本主義が高度に発展した国において、共産革命が成就されず、資本主義の後進国であったロシヤ及び中国において共産革命が達成した事実からも推察することができるであろう。
 従って共産党宣言の意義は、十九世紀の自由放任の原始資本主義(民主主義も、普通選挙による議会政治も、その当時には完成していなかった)の病理学又はアンティテーゼ(反対概念)としては、確かに偉大な思想であったのであるが、現在の進歩した新資本主義(社会主義の長所をとりいれた混合経済とも言われる)の時代にあてはまらない時代遅れのものといわねばならず、日本の社会党が、マルクス理論を後生大事に祖述する向坂理論より一歩も前進していない事実は誠に時代錯誤も甚だしい。
 しかし乍ら、この場合でも、われわれ保守主義者の忘れてはならない教訓は、歴史に内在する「中庸の原理」である。ロシヤと中国において共産革命が起こったのは、マルクス理論のように、両国の資本主義が頂点に達したからではなく、貧富の懸隔が甚だしく政治が腐敗し、圧政と窮乏に堪えられなくなり、その社会に中道が失われていた国民的背景がしからしめたと言うことである。
 人間の本性は、自由と平等の調和にある。極端な自由は、弱肉強食の自由となり、一部の特権階級と大衆が遊離した国家は、必然的に平等化、独裁化へと激動して行く。キャデラックと跣の併存する社会には、共産革命やファシズム革命の危険が常に内在するといわれるゆえんである。
 保守主義の経済原理は、市場経済(自由経済)と私有財産制の尊重を基本原理として堅持する。前者は、国民の需要と供給をはかる最良の尺度であり、後者は、人間の独立自尊の人格を保障する砦であるからである。人間が経済の分野で自由を剥奪されているところには、(それが奴隷経済下の奴隷、共産独裁国家下の人民のいずれであれ)人格の真の独立もなく、政治的自由を行使することもできない。
 しかし乍ら、われわれは、決して、十九世紀的な自由放任経済、独占資本主義を是認するものでもなく、また、少数者の手に、財産を集中することを許すものでもない。
 十九世紀の自由放任の資本主義経済は偉大なる産業革命を達成したが、その反面、資本の集中、定期的恐慌並びに失業と言う弊害をもたらした。われわれは「市場経済」と「私有財産制」を保持しつつも、これらの弊害を除去するため、国家による(一)経済の計画化(三)景気変動の調節(三)税財政の社会化及び社会福祉政策による富の不均衡是正(四)独占の排除と資本の分散大衆化(五)中小企業、自作農等の独立企業者の尊重並びに(六)公共投融資による完全雇用を行わんとするものである。
 共産主義、社会主義者の描く未来図は、私有財産を悪と見倣し資本を国家に独占し、国民をして官僚支配下の自主性なき従業員たらしめるものであるが、われわれの未来図は、国家や少数者の資本独占を排し、全ての国民を中産化し、資本所有者たらしめんとするものである。これこそ新しい資本主義の理想でなければならぬ。(かかる意味からすれば、社会党であれ、民主社会党であれ、社会主義理論を奉ずる政党が、中産階級の育成、中小企業、自作農の為の政治を云々することは、甚だしい自己矛盾と言わなければならぬ。)
 この事は、換言すれば、福祉国家の建設と言うことでもある。
 福祉国家の理念は、保守主義政治哲学の基本原理である民族共同体への愛情と信念を精神的基盤とすべきものであるが、経済的には国民の最低生活が保障せられ、完全雇用若しくはこれに近い状態の実現されている国家を指して言うのである。しかしながら、たとえ、最低生活が保障され、完全雇用が実現されても、自由と民主主義と私企業の自由とが存在しない共産国家を福祉国家と称することは出来ない。何故なら「兵営の完全雇用」や「牢獄の最低生活保障」は、福祉国家の理念とは、およそ縁遠いもので
あるからである。
 福祉国家の正しい理念は、政治上の自由と民主主義と私企業の存在とを前提としながら国家の計画に依り、社会保障及び完全雇傭を達成し、国民の福祉を実現する国家を指すのである。
 したがって自由放任の十九世紀的資本主義では、社会保障及び完全雇用が実現されえないので、福祉国家の実現は勿論不可能であるが、他方、生産手段の国有と経済の完全なる官僚的計画化を原理とする社会主義、共産主義者が福祉国家の建設を云々することも当を得ていない。英国の労働党や、日本の社会党や民主社会党が、福祉国家の建設をスローガンとする限り、既に本来の社会主義を捨て去り、われわれの主張する新しい資本主義に接近しつつあることを示すものと言えよう。
 福祉国家の建設には表と裏の二つの面が存在する。一つは、富の分配であり、他は、富の生産である。社会党は富の分配の面のみを考え、分配闘争に熱中している。しかしながら、分配すべき富が乏しかったならば、いかに公平に分配しても福祉国家にはならない。国民所得の増大をともなう雇用拡大が無ければ社会保障制度そのものが瓦解するのである。生産と分配の調和的生生発展こそ、福祉国家建設への正しいコースである。
 現在の時代は「技術革命」の時代であると言われる。富の生産で忘れてはならないのは、科学技術の進歩である。「有限の中に無限を拓く」ものは新しい技術と発明に依るほかはない。新しい資本主義、新しい保守主義は科学技術の面において、最も進歩的であることを誇りとする。生産性向上
に反対する社会党や一部の労働団体の態度は時代逆行も甚だしいと言わなければならない。西独の労働団体が階級革命論をすて労働時間の短縮、生産性の向上、経営参加、株式の優先取得を主要目標にしている姿は、もって他山の石とすべきである。
 かつてイーデンの言った如く「われわれ保守主義者は古い富の残り滓を争うのではない。われわれは無限に新しい富を創造して国民生活を高く築き上げること(ビルディング・アップ)を信条とし、平均して全体を低くすること(レベリング・ダウン)に反対するものである」。
 終戦後十年余、日本の復興は西独と共に、世界の奇蹟と言われる。鉱工業の生産は戦前に比べ既に三倍以上に達し、国民所得は四割の増加をきたしている。学校教育は普及し、電気洗濯機、テレビ、自動車、バス等の普及に表象される大衆消費経済の時代が到来しつつある。また地主、財閥の解休に依り国民各階層間における所得は戦前に比べ著しぐ平均化し、管理職、技術者、自由職業等いわゆる新中間層は戦前の三倍となり、勤労者、農民、中小企業の所得増加と共に国民の中産階級化への新しいスタートを開始すべき時期が招来されつつある。
 これこそわれわれの保守政党の偉大な功績である。誰がこれを不成功であったと言い得るであろうか。共産圏に編入された東欧社会主義諸国のみじめな国民生活の実情と比較すれば、その答えはおのずから明らかである。
 しかしながらわれわれは、今なお国内において百六十万に及於生活保護世帯並びにそれに準ずる低所得世帯が存在している厳粛なる事実を忘れてはならない。
 国民所得の平均水準が向上したとは言え、なお欧米先進国の水準に及ばない事実を謙虚に反省しなければならない。
 アジア友邦諸国が今なお著しい経済の後進性を示し、平和の脅威になっている事実も忘れてはならない。
 今こそわれわれは新国民主義の精神のもと、新しい資本主義の理念に則り、恵まれぎる人々に対する同胞愛を振起し、所得倍増計画、国民の中産化政策と共に、低所得者の生活向上を目的とした福祉国家の建設並びにアジア諸国への経済協力を、大胆に実行に移さなければならない。

 五 結び

 保守主義の思想は歴史とともに古いものであるが、激動する現代の課題と取り組む意味において、以上述べてきた政治哲学は「新保守主義」の政治哲学とも言わるべきものである。
 最後に政治のモラルについて一言しなければならない。マキアベリーによって唱えられた目的のためには手段をえらばない所謂「マキアベリズム」(覇道)は保守主義政治哲学の採らざるところである。
 ファシズムも共産主義も、反対者は容赦なく粛清し、嘘も欺瞞も暴力も目的のためにはこれを正当化する「マキアベリズム」を信奉する。われわれはかかる方途を排撃し目的を達するためには手段も正当でなければならず、法の支配と信義友愛とを基本とする政治モラルを堅持しなければならない。これこそ民主主義を健全に発展せしめるものであるからである。
 われわれはまた、権力主義、金力主義、派閥主義の行き方も、政治を腐敗せしめ、その根底においては「マキアベリズム」に通ずるもののあることを深く反省し、政治は奉仕であり実践であるとの信念に徹し、国民の期待に応えなければならない。

(引用終了)