「「沖縄式交渉術」が分からなければ菅直人政権でも「普天間問題」は解決しない
「現代ビジネス」の「ニッポンと世界」の「国際ニュース分析官 佐藤優」から貼り付けます。
(転載貼り付け開始)
2010年06月17日(木)
「「沖縄式交渉術」が分からなければ菅直人政権でも「普天間問題」は解決しない
東京の政治エリートは楽観し過ぎている」
菅直人新内閣の成立によって、内閣と民主党への支持率はV字型に回復した。これを国民世論がムードに流されやすいからと見るのは間違いだ。去年8月30日で民主党への政権交代を選択した国民は変化を求めている。
「自公政権が続けば、日本はこれからじり貧になる。民主党政権になれば、とにかく変化が生じる。その結果が良くなるか悪くなるかはわからない。しかし、とりあえず、しばらくの期間、民主党に機会を与えよう」というのが、今回の政権交代の底に流れる国民の基本認識であると筆者は見ている。
鳩山由紀夫総理(本稿における肩書きは出来事が起きた当時のものとする)と小沢一郎民主党幹事長は、政治家が官僚を指揮する構造転換を本気で行おうとした。これがかつてない危機意識を霞が関(中央官庁)の官僚にもたせた。
小鳩政権が「サブスタンス(政策の実質的内容)に通暁せず、無知蒙昧な国民に迎合する民主党のポピュリスト政治家が国家の支配者になったら、日本がダメになる」という官僚の集合的無意識を刺激したのである。
ここで、大活躍したのが検察官僚と外務官僚だ。財務官僚、外務官僚、検察官僚は「霞が関村」で、偏差値が特に高い秀才集団である。それだからこそ、「われわれを抜きにして日本国家は存立し得ない」という強い主観的な使命感をもっている。
検察官僚は、「社会をきれいにしたい」という欲望をもっている。きれい好きの検察官僚の職業的良心に照らして観察すると、鳩山も小沢も自民党の旧来型政治家と変わらないくらい不潔な存在に見える。そこで、特捜官僚(東京地方検察庁の検察官)が、「天に代わりて不義を討つ」と旧陸軍青年将校のような気迫で、小鳩の腐敗を追及した。そして小鳩政権打倒に大きな貢献をした。
さて太平洋戦争に敗北した後、日本が生き残るために米国との同盟が不可欠になった。日米安保条約という名称であるが、その本質は軍事同盟だ。外務官僚は、「外国語に堪能で、国際情勢と国際法に通暁したエリートであるわれわれにしか、日米同盟を維持することはできない」という信念をもっている。そして、外交の素人である政治家が、日米同盟のサブスタンスに関与すると、天が落ちてきて日本国家が崩壊するという形而上的恐怖を抱いている。
鳩山総理は外務官僚の「正しい指導」に耳を傾けない宇宙人だ。宇宙人による日本国家崩壊を防ぐために、ありとあらゆる手段を用いて、外務官僚が鳩山総理を包囲した。岡田克也外務大臣、北澤俊美防衛大臣、平野博文内閣官房長官は、外務官僚と認識を共有する「かわいい政治家」に変貌した。
しかし、米国の名門スタンフォード大学で博士号をとった知識人の鳩山はなかなか外務官僚の言うことを聞かない。そこで外務官僚は、米国からの圧力、外務官僚と共通の視座をもつ記者たちの応援を得ながら、真綿で首を絞めるように鳩山包囲網を構築していった。
ここで漬け物樽を想像してみよう。民主党という漬け物樽の中蓋の上に、検察官僚が「政治とカネ」という大きな石、外務官僚が、「普天間問題」という大きくて重い石を置いた。小鳩政権が崩壊したので、その石が取り去られた。そのことによって、中蓋が再び浮き上がった。国民の変化への希望はまだ消えていない。それだから菅政権の支持率が60~70%という「常態」に戻ったのである。
沖縄戦体験者が負傷すれば抗議活動は止められない
日本の安全保障にとって普天間問題が死活的に重要ならば、7月11日の参議院議員選挙における重要な争点になるはずだ。なぜなら5月28日の日米合意に従って、8月31日までに、<普天間飛行場のできる限り速やかな返還を実現するために、閣僚は、代替の施設の位置、配置及び工法に関する専門家による検討を速やかに(いかなる場合でも2010年8月末日までに) 完了させ(る)>ならば、沖縄が猛反発し、沖縄にあるすべての米軍基地に対する地元住民の感情が急速に悪化するからだ。
さらにその後、工事を強行しようとすれば、座り込みなどの抗議行動が起きる。警察力(機動隊)を用いて住民を排除しようとすると、小競り合いが起き、その過程で負傷者が発生する。座り込み抗議に参加している沖縄戦体験をもつ80代の高齢者が負傷するような事態になれば、保革の壁を超えた文字通り「島ぐるみ」の抗議活動が起きる。そうなると、米軍基地が住民の敵意に囲まれ、日米同盟の機能が低下する。
このような状態に陥ることを避けるためには、日米合意の見直しが不可欠だ。当然、参院選の重要争点になるはずである。しかし、近未来に発生する危機に関する東京の政治エリート(国会議員と官僚)の感覚はきわめて鈍い。
恐らく、沖縄が要求を突きつけるような形で交渉を行わないことの意味を誤解しているため、東京の政治エリートは根拠薄弱な「楽観論」をもってしまっているのだと思う。6月15日、沖縄県の仲井真弘多知事が上京し、菅直人総理と会談した。朝日新聞の報道を見てみよう。
<菅首相、沖縄知事と会談 日米合意踏襲と負担軽減伝える
菅直人首相は15日午前、首相官邸で沖縄県の仲井真弘多知事と初めて会談した。首相は、沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設をまとめた先の日米合意を踏襲するとともに、沖縄の負担軽減に取り組む考えを表明。
知事は「『少なくとも県外』と言った民主党に対する県民の期待は失望に変わった。日米合意は遺憾で、(辺野古移設の)実現は極めて厳しい」と伝えた。
首相は、23日の沖縄慰霊の日に沖縄県を訪問する意向を示し、仲井真氏もこれを歓迎した。また、仲井真氏が普天間移設とは別に米兵が関係する事件事故についても「大幅な軽減に取り組んでほしい」と要望したのに対し、首相は応じる意向を示したという。
約30分間の会談には仙谷由人官房長官らも同席。首相が応接室に先に入り知事を出迎える配慮を見せた。
仲井真氏は会談後、「普天間は危険な飛行場。そのまま置いておくのはおかしい。なるべく早く返還してもらうことが元々のスタートだ。政府が責任を持ってきちんと解決してもらうのが筋だが、どうまとめていこうとしているのか、よく分からない」と不満を語った。> (6月15日asahi.com)
楽観視する外務官僚の「謀略シナリオ」
仲井真知事の「『少なくとも県外』と言った民主党に対する県民の期待は失望に変わった。日米合意は遺憾で、(辺野古移設の)実現は極めて厳しい」という発言を菅総理がどう受け止めたかは不明だ。しかし、外務官僚は、「何とかなる」と考え、次のような戦略(謀略)を考えていると思う。
1.本件を名護市、特に辺野古周辺地区だけが関係する軍事問題であると土俵を限定する。
2.普天間飛行場の危険を除去することができるので、沖縄全体の利益のためにこの決定は必ずしもマイナスでないというプロパガンダ(宣伝)を行う。
3.辺野古移設への反対闘争に「疲れ」が出るのを待つ。
4.東京から「沖縄のほんとうの友人」なる複数の民間人を派遣する。これらの民間人は、首相官邸、外務省、防衛省と独自のパイプをもっている。沖縄人と酒を酌み交わし、いっしょに肩を組んでカラオケを歌う。
そして、最初は聞き役に徹する。辺野古への移設を受け入れさせるために沖縄で鍵を握るのが誰かを物色するために、善人のふりをしているのだ。しかし、その本質は東京のエリートの利益を体現した工作員だ。
5.そして、利益誘導で、辺野古地区への移設を受け入れさせる。
いわゆる「アメとムチ」の政策だ。菅政権が、優れた民間工作員を雇い、数億の内閣官房機密費(報償費)を投入すれば、この謀略は成功するかもしれない。しかし、筆者はそのための「機会の窓」は、ほぼ閉じかけていると見ている。
なぜなら、機密費に対する国民の監視の目が厳しくなっており、自国民である沖縄県民にこのような「裏のカネ」を投入するリスクが大きくなっているからだ。機密費なくして、名護市や辺野古周辺地区での切り崩し工作は不可能である。
また、政府の工作に協力しても、それが露見した場合、非難されることを恐れて、このようなリスク負担の高い秘密工作を引き受ける能力の高い民間人を見つけることが難しくなっているからだ。
普天間問題の突破口をどう見つければよいかについては、入念な研究が必要だ。6月4日、衆参両院で内閣総理大臣に指名された後の記者会見で菅氏は、「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうとも思っている」(6月5日東京新聞朝刊)と述べた。
沖縄返還直前に政府高官が分析した「特別な小説」
筆者は、菅総理が言及した本は、沖縄初の芥川賞作家・大城立裕氏の名著『小説琉球処分』(講談社、1968年)であろうと推定している。1991年の再版に際して、大城氏は、沖縄返還にあたった日本政府の官僚が本書から沖縄との交渉術を学んだという話を披露している。
<琉球処分という言葉すら、およそ知られていなかった。連載がはじまったころ(引用者註*本書の元になる小説が1959年から60年に琉球新報に連載)、ある友人が「処分という言葉はおだやかでないね」とコメントしたほどである。
そのコメントには、当時祖国復帰運動がさかんであった環境のなかで、その情勢に水を差しかねない題名への批判が込められていたと思う。
二年後の一九六二年に、歴史学者の井上清氏が学術論文に琉球処分をあつかったあと、この言葉が歴史家のあいだでは、やおら浸透するようになった。
しかし、「琉球処分」という言葉が日本政府によって作られたということは、いまなお知識としてひろく普及しているとはいえない。沖縄の民衆がそのひがみから生みだした言葉だと、誤解している人が多い。
作品が、連載当時はそれほどの関心をもたれなかったのに、一九七二年の復帰間近になってから、関心をもたれるようになったのは、皮肉であった。復帰路線を敷く作業をしていた日本政府官僚のあいだで、沖縄研究のテキストにしている、という話もあった。
彼らのあいだでは、琉球政府の役人が、琉球処分当時の王府役人と変わりがない、という感想があったと聞いた。また復帰路線のありかたに批判的であった革新の側では、日本政府がその政策の都合ばかりを押しつけてくる、という意味で、政府役人が琉球処分当時と変わりがない、という批判をしていたようである。
そのことは、私自身が書きながら予感していたように思う。松田の報告書を読みながら、両者の文化的基礎が違いすぎることを、つよく感じた。
日本本土と琉球とでは、歴史の出発に一千年も差がつき、琉球は中世をとびこして近世にはいったから、その後の歴史に無理が生じたのだと、私は考えている。つまり、近代を準備する文化が育っていなかった。一方、日本では近世にはやくも近代が準備されていた。このギャップは恐ろしい(拙著『休息のエネルギー』農山漁村文化協会、一九八七年参照)。
その無理が最初にあらわれたのが、琉球処分であった。とくに、松田と王府高官たちとのやりとりに、それを私はかぎとった。松田は沖縄県設置とおなじ年に東京府知事に任命されたが、いわば日本近代のドラスティックな能吏のはしりである。相手の王府高官たちは、まったく前近代の典型である。
資料の行間に、その対照を読みより、それを描くことが楽しみであった。読者が退屈を越えて、それを読み取ってもらえれば、幸いである。>(「後記」大城立裕『ファラオ原点叢書4 小説琉球処分』ファラオ企画、1991年、477~478頁)
沖縄返還当時の官僚には、『小説琉球処分』を読み解くことで、沖縄の内在的論理の把握につとめ、それを政策に生かそうとする知性の幅があった。
民主主義においては、多数派の立場が圧倒的に強い。現在も人口がわずか138万人に過ぎない沖縄は、民主主義制度の下では、常に負け続ける宿命下にある。そのような沖縄には独自の交渉術がある。
日本の国家統合が内側から崩れる日
この交渉術を理解するために『小説琉球処分』は、特別の地位を占めている。袋小路に陥った普天間問題を解決するためのヒントがいくつも隠されている特別の小説なのだ。
1879(明治12)年、警察と軍隊を引き連れ、松田道之処分官が、首里城明け渡しを強要し、尚泰王に上京を迫った。しかし、王の側近たちは、さまざまな遅延戦術をとる。その状況に直面した松田道之処分官の心境を大城氏はこう描写する。
<われながら、よくこれだけの根気を身につけたものだ、と松田はひそかに嘆じた。五年来、何十回あるいは何百回、琉球の高官どもと談判をした。根気くらべの談判であった。しかし、あの談判の相手には理屈があった。詭弁だらけとはいえ、理屈があった。
縦横の詭弁と戦うのは苦労であったが、しかしそれなりに外交官としての張り合いもあった。ところが、この談判はどうだ。理屈ぬきに「九十日延期を。病気だから無理だ」とくる。はねかえしてもはねかえしても寄せてくる—卑小な蚊の群れにもたとえようか。
発言する者は、代表的な二、三人。残りはだまって折ふし表情を変えるが、—-よろしい、この根気どちらが折れるか・・・>(大城立裕『小説琉球処分』講談社、1968年、544頁)
結局、松田処分官は、根気くらべに負け、警察力と軍事力で問題を解決した。このツケが、今日の普天間問題にまで及んでいるのだ。
日本は大国だ。これに対して、琉球王国は小国だった。しかし、小国には小国の生き残りの論理と交渉術がある。沖縄県内への普天間飛行場の移設に関与する東京の政治エリートは、理屈抜きの「はねかえしてもはねかえしても寄せてくる」ような静かな抵抗を沖縄から受けるだろう。
すでに、沖縄では最保守陣営に属し、東京の政治エリートとの諍いを極力回避する傾向の強い仲井真知事が、無意識のうちに、「はねかえしてもはねかえしても寄せてくる」ような抵抗を始めている。
そして、その抵抗を繰り返すうちに、沖縄の人々の間に、かつて自らの国家であった琉球王国が存在し、それがヤマト(沖縄以外の日本)によって、力によって滅ぼされたという記憶がよみがえってくる。そうなると日本の国家統合が内側から崩れだす。
その過程が始まっていることに気づいている東京の政治エリートがほとんどいないことが、現下日本の悲劇である。
(転載貼り付け終了)