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「79」 江口圭一(えぐちけいいち)著 「日中アヘン戦争」(岩波新書、1988年刊)を、何としても、今からでも称揚しなければいけない。2008.8.17 副島隆彦
副島隆彦です。 私は、この4月からずっと、この第2ぼやき書いていないようです。 4月に入って、大学の授業が始まって、かつ、数冊の本を書くことに追いまくられて、かつその他の仕事をすることで時間を奪われて、それで今日まで、ここに文章を載せることができなかった。 いよいよ再開します。

私の、今年の前半戦の苦しい闘いがようやく、昨日で終わりましたので。毎年、恒例の祥伝社(しょうでんしゃ)からの金融・経済本「エコノ・グローバリスト・シリーズ」です。今年の書名は、『恐慌前夜』です。9月5日には、都内の大手の本屋には並びます。

それで、昨日、日本テレビ(4ちゃんねる)で、終戦記念番組の「ふたつの祖国を持つ女諜報員」を、私はたまたま見ました。
オリンピックと、高校野球の合間にチャンネルを回していたら、出くわしたのです。それで俄然(がぜん)、自分の中国研究を再開する気になりました。この課題は、私の昭和史研究にもつながっています。

まず、手始めに、ネットにあった、江口啓一著の「日中アヘン戦争」(岩波新書)を引用している優れた文章に出会いましたので、これを転載します。 そのあと、上記の、中国の1937年の上海第二次事件(戦争)からの、日本軍の特務機関と、中国側のすさまじいスパイ・情報合戦の殺し合いの記録を、どんどん載せてゆきます。

やはり、この江口圭一(えぐちけいいち)氏が書いた、「日中アヘン戦争」を、何よりも大切にして、彼の業績を、一番高く評価することから、始めなければならないと、私、副島隆彦は思いました。すべての真実を皆で表に出してゆきましょう。

副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

(副島隆彦注記。 ネット上にあったもので、誰が書いた文章かは、今のところは不明)


日中アヘン戦争  2003.07.18

 1937年、東京毎日新聞社社長だった藤田勇は陸軍中佐であった長勇から20万英ポンドのアヘンの密輸の話を依頼され行動した。

 「20万英ポンド」は、たとえば、1963年における或解説文によれば、”今日1キロ1億円という麻薬密売市価でいうと9兆720億円というばく大なものだ。麻薬史上世界最大のものである”。そして、この大量のアヘンを売りさばいたのは、里見甫という新聞記者出身の男であった。

(引用はじめ)

 私は数年前に「日中アヘン戦争」(岩波新書、1988年)という本を書きました。いささか意表をつくタイトルで、はて、こんな戦争いつあったかしらと不審に思われた方もおられたようです。
 実は、日本は15年戦争の時期を通じて大量のアヘンを中国で販売し、それを中国支配の重要な手段としていました。アヘンはもちろん国際条約によって禁止されている麻薬ですが、日本は国策として中国でアヘンを売りまくりました。

 その目的は、一つは「満州国」をはじめとする傀儡政権の財源や謀略工作の資金を獲得すること、いま一つはアヘン中毒によって中国の抗戦力を麻痺させることでした。中国はこの日本のアヘン政策を「毒化政策」として非難しましたが、たしかにアヘン政策は毒ガス戦や細菌戦とならぶ日本の戦争犯罪でした。日中戦争は実は大規模なアヘン戦争であったという意味で、「日中アヘン戦争」と呼んだわけです。

(引用終わり)

 これは「証言・日中アヘン戦争」江口圭一編からの引用だが、「日中アヘン戦争」江口圭一著には次のようにある。


(引用始め)

 国際連盟の前記の会議議事記録は、

「有名な満州および熱河の魔窟と工場についで、天津日本人居留地は中国本部[中国中央部]および世界のヘロイン中心地となった。中国民族のみならず、世界のすべての他の国々が弱体化され、堕落させられるのはここから始まるのである。」

 と述べており、日本は全世界の非難の矢面に立たされていた。
 しかし満州国の専売制などを別として、第一次世界大戦期から満州事変期の日本によるアヘン・麻薬の密造・密輸・密売は、現地の日本軍が関与したり保護をあたえたことはあっても、全体としてみれば、悪徳企業や不良日本人の私的な非行であり、犯行であった。この非行・犯行を、日本は日中戦争下に国策として公然と遂行するにいたる。

「世界における全非合法的白色麻薬の九割が日本製であって、天津の日本人居留地、天津周辺、大連市内あるいはその周辺において、あるいは満州、熱河および中国の他の諸都市において、必ず日本人か日本人の管理のもとに製造されるといっても、非常な的外れとはならないであろう。」

 重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・陸・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。

 アヘン政策の目的は、なによりも、その生産・販売によって巨利を獲得することにあった。アヘン収益の使途は、蒙彊政権の場合、表向きは政権維持の財源にあてられたことになっているが、その実態は秘密のベールに包まれて不明である。また収益とされる金額そのものも、どれだけ正確であるか、無条件には信用できない。ともかく、そこには巨額のブラック・マネーが獲得され、運用されたのである。

(引用終わり)

 皇道派の荒木貞夫は、東京裁判において、アヘン・麻薬政策に対して有罪にもなっている。その東京裁判の判決文は以下の通りだった。

(引用始め)

 「日本は中国における占領地域にアヘン法を公布した。……これらの法律は、アヘンと麻薬を官許の店に配給する政府統制の専売機関をつくりあげたのであって、これらの専売機関は、麻薬からの収入を増加するために、その使用を奨励する徴税機関にすぎなかった。

 日本に占領されたあらゆる地域で、その占領のときから、日本の降伏にいたるまで、アヘンと麻薬の使用は次第に増加していた。

 この[アヘンと麻薬]の売買は、軍事行動と政治的発展に関連していたものである。この売買によって、日本側によって設置された種々の地方政権のための資金の大部分が得られたからである。……アヘン吸引者の非常な増加が、中国の民族の志気にあたえた影響は、容易に想像することができるであろう。」

(引用終わり)


 陸軍の潤沢な機密費もこのアヘンの収益から出たが、これらのアヘン事業は、商人たちと最も密接に関った政策だった。商人たちがアヘン商売の領地分けでもめた時には官が仲裁に入り争いを収めた。

 内務省官房主事として特高警察を指揮していた経歴をもつ正力松太郎は、1985年に領有した台湾において、当時の内務省衛生局長としてアヘン収益政策を行った後藤新平が出した資金で、倒産しかかっていた読売新聞を手に入れたのだが、藤田勇はこの後藤新平とも親交があった。


 日章旗の掲揚はアヘンの販売が日本側によって公認されていることの標識であった。このことから日本側にしてみれば、とんだ勘違いが生じた。関東軍総参謀副長から敗戦直前に内閣総合計画局長官となった陸軍中将池田純久(いけだすみひさ)は「陸軍葬儀委員長」(1953年)のなかで、つぎのように書いている。

(引用始め)

 ……[支那]事変当時、日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事しているものが多かった。かれらは治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。

 時々日本の国旗陵辱事件がおこり外交問題に発展することがあったが、よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。

 戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて,「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。……(「日中アヘン戦争」江口圭一著)

(引用終わり)

(転載貼り付け終わり)


副島隆彦拝
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