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「52」 日本最大の暴力団・山口組についての基本情報
副島隆彦です。2007年6月22日です。
 山口組についての基本情報の新聞記事から集めたものを載せておきます。

(転載貼り付け始め)

(1)「指定暴力団・国粋会が国内最大の山口組の傘下に」

 毎日新聞 2005年09月08日

 指定暴力団国粋会が、国内最大の指定暴力団山口組の傘下に入ったことが、警視庁などの調べで分かった。国粋会は銀座、渋谷、六本木など都内の主要な繁華街を「縄張り」に持つ組織で、都内の山口組の勢力は一気に拡大。国粋会が傘下に入ることで、稲川会を超え、住吉会、極東会に次ぐ都内3番目の勢力となる見通しだ。 ( 毎日新聞 2005年09月08日13時01分 )

(2)「山口組6代目組長が継承式 国内最大の指定暴力団」

2005年8月27日12時32分更新

 国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)が27日、神戸市灘区の総本部で、篠田建市(通称司忍、つかさしのぶ)6代目組長(63)の就任に伴う継承式を行い、直系組長ら約100人が集まった。兵庫、愛知両県警の私服警察官らが周辺を警戒、緊迫した雰囲気に包まれた。

 山口組は7月の新組長決定後、「若頭」など最高幹部の交代に着手。兵庫県警は、組織内の主導権争いを警戒しているが、現在まで目立った抗争はない。篠田組長は名古屋を拠点に活動し、銃刀法違反罪で実刑判決を受け上告中。

 山口組組長の交代は16年ぶり。警察庁によると、昨年末時点で山口組の組員、準構成員は計約3万9200人で、全国の暴力団員の45%を占める。  (共同通信8月27日12時32分更新)

(3)「 東京の国粋会、山口組傘下に 対立組織を刺激の恐れ」

朝日新聞 2005年09月08日

 東京に本拠がある指定暴力団国粋会(工藤和義会長)が、国内最大の指定暴力団山口組(総本部・神戸市)の傘下に入ったことが警察当局の調べでわかった。東京には住吉会、稲川会という二大団体がある。国粋会以外にも山口組傘下に入る団体があるなどの情報もあり、警察当局は対立抗争の恐れもあるとみて警戒している。

 山口組では7月末、渡辺芳則・5代目組長(64)が引退し、篠田建市(通称・司忍)被告(63)=銃刀法違反の罪で実刑判決、上告中=が6代目組長に就任。これを機に山口組の傘下に入ったり、関係を強めたりする団体があるとされる。

 警視庁などによると、工藤会長は7日、篠田被告と「兄弟」分の関係を結んだ。6日には、住吉、稲川両会など関東に拠点を置く暴力団6組織の懇親団体で、山口組の東京進出に対抗する「関東二十日会」からの脱退をほかの組織に通知したという。

 国粋会は東京、埼玉、茨城など1都6県に1060人の構成員と準構成員がいる。01年春、工藤会長の組織運営をめぐって内部抗争が発生、東京・銀座などで銃撃戦が相次ぎ、死者も出た。だが、03年10月に山口組の仲裁で収束。その後、双方の組の間で親密な関係が続いていたという。

 警察庁によると、全国の暴力団の構成員と準構成員は04年末現在、8万7000人。このうち広島、沖縄を除く45都道府県に勢力がある山口組は3万9200人おり、全体の45.1%を占める。2位の住吉会1万2600人、3位の稲川会9500人を大きく引き離している。


(4)「 国粋会が山口組傘下に 東京での勢力拡大を警戒」

共同通信 2005年 9月8日

 東京に本拠を置く指定暴力団国粋会が、6代目組長が就任したばかりの国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の傘下に入ったことが7日、警視庁の調べで分かった。警視庁は、山口組が東京での勢力拡大を狙った動きの一つとみて警戒を強めている。

 警視庁によると、国粋会は構成員約470人。今後、都の公安委員会などの手続きを経て暴力団対策法に基づく指定が取り消される見込み。

 山口組は7月に篠田建市(通称司忍)6代目組長の就任を決定し、8月に神戸市灘区の総本部で継承式が行われた。さらに、ナンバー2のポスト「若頭」に、篠田6代目組長が初代会長を務めた山口組の2次団体・弘道会(名古屋市)の高山清司会長が就任した。 (共同通信 2005年 9月8日2時23分更新


(5)「山口組、国粋会を傘下に…警視庁が警戒強化」

読売新聞 2005年 9月 8日 (木) 03:04

 指定暴力団国粋会(本部・東京都台東区)が、同山口組(同・神戸市)の傘下に入ったことが7日、警視庁組織犯罪対策3課の調べで分かった。
 同課では、首都圏の山口組勢力が一気に拡大するのに伴い、他の指定暴力団などとトラブルが起きる恐れもあるとみて、各警察署に情報収集と警戒強化を指示した。

 同課や関係者によると、国粋会の工藤和義会長(68)と山口組の司忍こと篠田建市組長(63)が7日、山口組総本部で会合し、〈1〉国粋会は山口組傘下に入り、山口組国粋会となる〈2〉工藤会長は山口組の最高顧問になる――ことなどを確認し合ったという。

 同課によると、国粋会の組員と準構成員を合わせた勢力は今年6月現在、東京、千葉、埼玉など1都6県で計約1060人。このうち都内勢力は約560人。同会の組員らがすべて山口組傘下に入ると、山口組(全国勢力約3万9200人)の都内勢力は約900人から1400人余に拡大する。山口組の篠田組長は先月、新組長に就いたばかり。

(6)「 暴力団国粋会、山口組傘下に」

神戸新聞  2005/09/08

 東京に本拠を置く指定暴力団国粋会が、六代目組長が就任した国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の傘下に入ったことが七日、警視庁の調べで分かった。

 警視庁は、山口組が東京での勢力拡大を狙う動きの一つとみて警戒を強めている。警視庁によると、国粋会は構成員約四百七十人。今後、都の公安委員会などの手続きを経て暴力団対策法に基づく指定が取り消される見通し。

(7)「 山口組が東京本格進出か、国粋会を傘下に」

日刊スポーツ 2005.9.8

 東京に本拠を置く指定暴力団国粋会が、6代目組長が就任したばかりの国内最大の指定暴力団山口組(神戸市)の傘下に入ったことが7日、警視庁の調べで分かった。警視庁は、山口組が東京での勢力拡大を狙った動きの1つとみて警戒を強めている。

 警視庁によると、国粋会は構成員約470人。今後、都の公安委員会などの手続きを経て暴力団対策法に基づく指定が取り消される見込み。 山口組は7月に篠田建市(通称司忍)6代目組長の就任を決定し、8月に神戸市灘区の総本部で継承式が行われた。さらに、ナンバー2のポスト「若頭」に、篠田6代目組長が初代会長を務めた山口組の2次団体・弘道会(名古屋市)の高山清司会長が就任した。

 警察庁幹部によると、国粋会は現会長が弘道会と数年前から親交があり、弘道会の影響下にあったという。警視庁は「6代目組長の就任で、東京での勢力拡大をもくろむ山口組の動きが本格化しているようだ。今後、関東地方の暴力団との勢力争いを懸念している」と警戒感を強めている。 (2005/9/8/09:03)

(8) 「山口組トップ交代、3大暴力団抗争の再燃を警戒」

 2005/08/27(土)

 国内最大の指定暴力団山口組(本部・神戸市)のトップが16年ぶりに交代したことが、警察当局の調べでわかった。

 指定暴力団を巡っては、住吉会や稲川会(いずれも本部・東京都港区)も今年になって、最高幹部の役職変更や死去などで“変化”の兆しが出ている。 山口組が東京での勢力拡大を進める中、警視庁では、組織に不安定要因を抱える暴力団同士が、都内でトラブルを起こす可能性もあるとみて、警戒を強めている。

 関係者によると、山口組総本部で7月29日、緊急会議が開かれ、渡辺芳則5代目組長(64)が、幹部を通じて傘下の組長らに、「体を悪くして組長としての責任を果たすことができなくなった」などと引退を伝えたという。6代目組長には、名古屋市を拠点にする山口組系弘道会の司忍こと篠田建市・前会長(63)が就いた。 27日に組長継承式が行われるという。

 警視庁によると、渡辺前組長は1989年の就任以降の16年間で、 組員と準構成員を合わせた勢力を約2万人から約3万9200人にほぼ倍増させた。山口組が東京に本格進出したのも、渡辺体制発足後だ。八王子市などでの抗争事件をきっかけに地元組織を吸収するなどして、91年以降、都内の組織拡大を進めた。現在、都内に55か所の事務所を構える。警視庁が把握する都内の山口組勢力は約900人。関連企業などを含めると、約3000人ともいわれる。

 一方、住吉会は今年4月、西口茂男総裁(76)が兼ねていた「住吉一家総長」という役職を、ナンバー2の福田晴瞭会長(62)に譲った。警視庁では、将来のトップ交代を見据え、権限の一部が委譲されたとみている。

 稲川会では5月、稲川土肥会長が64歳で病死して以降、会長ポストが空席のままとなっている。暴力団対策法に基づく代表者は父親の稲川角二総裁だが、90歳と高齢だ。

(9)2005/08/31(水) 14:22:14

六代目山口組執行部
六代目組長 篠田建市(司忍)
   若頭 高山清司 二代目弘道会
   舎弟頭 野上哲男 二代目吉川組
   最高顧問 岸本才三 岸本組
   顧問 石田章六 章友会
   顧問 大石誉夫 大石組
   顧問 西脇和美 西脇組
   顧問 尾崎彰春 心腹会
   総本部長 入江禎 二代目宅見組
   若頭補佐 滝沢孝 芳菱会
   若頭補佐 橋本弘文 極心連合会
   若頭補佐 寺岡修 侠友会
   若頭補佐 青山千尋 二代目伊豆組
   若頭補佐 鈴木一真 旭導会
   若頭補佐 井上邦雄 四代目山健組
   舎弟頭補佐 英五郎 英組
   舎弟頭補佐 後藤忠政 後藤組
   舎弟頭補佐 古川雅章 古川組

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝


「この「第2ぼやき」記事を印刷する」

「51」 真実のニュールンベルグ裁判の全体の概要を解説した文章を載せます。
副島隆彦です。今日は、2007年6月13日です。

以下に、ニュールンベルグ裁判(1945年11月20日開廷)の全体の姿を解説した文章を載せます。こちらの文章の集成の方が、真実の全体像を描いているだろう。 副島隆彦拝


(転載貼り付け始め)

「ニュルンベルク裁判考」

  東京裁判に先立って敗戦国ドイツの戦犯を裁くためのニュルンベルク裁判(正式には国際軍事裁判)が開かれている。

 イタリアの場合はどうなったのか分からない。1945(昭和20).8.8日戦勝国がポツタム宣言に基づいて「戦争犯罪人の訴追と処罰に関する協定」を作成し、ニュルンベルク裁判及び東京裁判はこれを援用した条例により設置された。

 ニュルンベルク裁判は1945.11.20 日に開廷された。裁判官は、東京裁判の11ヵ国に比べると、アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連の4ヵ国からの各1名、検察官も前記の4カ国から1名ずつ、首席はアメリカのジャクソン検事のみで、報復の意図と切迫感を示している。

 被告人は日本の場合の28名より少ないナチ政権の重鎮24名であること、敗戦直前に自殺したヒットラーが(対ソ連のアメリカの戦略的意図から日本の天皇と共に)除外されていること、政治家でも軍人でもない哲学者のローゼンベルクが含まれていることが印象的である。

 罪名は東京裁判と同じ「平和に対する罪」(侵略戦争の計画・準備・開始・遂行に対する責任が問われた)、「人道に対する罪」(一般市民の虐殺や暴行に対する責任が問われた)、「殺人罪」から構成されていた。弁護人については、東京裁判と同様に各被告人についてドイツ人1名と補充の弁護人が認められたのであろうが詳細は未調査となっている。

 審理期間は、1945.11.20日から1946.10.1日の判決まで1年以内で、東京裁判の約2年半に比べて短い。これも報復の意図と切迫感を示している。判決は、病死者1名、自殺者1名を除く22名についていい渡され、19名が有罪を宣告された。

 死刑はゲッペルス、ゲーリング、リッペントロップ外相、ローゼンベルクら12名、終身刑は副総統へスら3名、有期刑4名。東京裁判の全員有罪に対して無罪が3名あるが、死刑の比率が大きい。処刑の日付は未調査であるが、日本におけるのと同様に判決直後の絞首刑であろう。

 エルンスト・ツンデル氏著作「ニュルンベルク:消えざる犯罪」(アドレス:ttp://www.nsjap.com/v_b/12.html)には次のように記されている。

  私は、彼らへの敬意に頭を垂れる。彼らはニュルンベルクで法的に殺害されたのである。彼らは世界の殉教者であり、悪党などではない。公正な裁判で裁かれていたなら、彼らの誰一人として死刑にはならなかっただろう、そう、一人として!忘れてはならない.彼らが西洋文明を救うためにドイツ国家全体、そして最後には自分自身を犠牲にしたことを。彼らは、着飾った殺し屋、軍服を着たギャング、いかさま師に雇われた陰謀者たちに敗れたのである。東欧ゲットーあがりの殺し屋、ギャング、陰謀者たちに。

 ニュルンベルク裁判裁判はその後49.4月まで継続して開かれ、計177名の被告が裁かれた。ドイツは49年に東西に分裂するが、その後も両国で裁判は続いた。ユダや人虐殺関連のいわゆるホロコースト責任に関しては時効が停止され、現在まで至っている。


(私論.私見)

Re: ゴルバチョフが公表したアウシュヴィッツの「死亡リスト」──実際には7万4千人。うちユダヤ人は3万人。

http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/439.html

 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 2 月 18 日 00:27:44: SjhUwzSd1dsNg

(回答先: ゴルバチョフが公表したアウシュヴィッツの「死亡リスト」──実際には7万4千人。うちユダヤ人は3万人。 投稿者 ジオン兵士 日時 2005 年 2 月 17 日 02:40:54)

http://www.nsjap.com/v_b/12.html が消えかかっているようなのでgoogleのキャッシュからコピペしておきます。

ニュルンベルク: 消えざる犯罪

エルンスト・ツンデル

  他でもないナフム・ゴールドマンの『ユダヤの逆説』の引用から,この論考を始めよう.この書物はさまざまな事実を提供してくれるばかりか,考えるヒントも与えてくれる.ゴールドマンは長年,世界ユダヤ会議(WJC) の議長を務めた人物である.

 「私は強制収容所の解放後,生存者と出会うためにドイツに戻った.しかしそれを除けば,公的にアデナウアー首相と会談した時のみ,私はドイツを訪れた.私がアデナウアー首相と会談したのは,賠償について交渉するためであった.この賠償は,国際法の観点から見れば大きな進歩であった.

 それ以前にも,ある国家が戦争に負けた場合,戦勝国に損害賠償を支払うケースはあった.しかしそれは国家間,あるいは政府間の話題であった.第二次世界大戦後,ドイツという国家は初めて,一般市民かイスラエルに賠償を支払うことに応じた.しかしイスラエルという国は,ヒトラーが犯罪を行っていた時代には存在していなかったのである.この賠償という画期的な考え方を思いついたのは,実は私ではない.

 戦争中,WJCはニューヨークに「ユダヤ問題研究所」を設立した (現在,その本部はロンドンにある).当時の所長は二人の偉大なリトアニア在住ユダヤ人弁護士ヤコブ・ロビンソン,ネーミア・ロビンソンである.彼らの尽力により,ユダヤ問題研究所は二つの新しい考え方を打ち立てることができた.つまり,ニュルンベルク裁判とドイツによる賠償という二つである.」

 アメリカでは現在,新しい特別テレビ局「コート・テレビ」が,北米の人々に向けてニュルンベルク裁判に関する特別番組を放映している.これは,人々に誤った歴史を植え付ける番組で,トータルで15時間に及ぶ.同じようにカナダ放送会社・ラジオ局も最近,連続番組を放送した.

 それは古い短波録音によるニュルンベルク裁判 (1946年) 中継を放送する番組だった.いつものことだが,これらの番組では,コメンテーターは偽証や作り話だらけの証言を繰り返していた.そしてそれらの証言に,ドイツの軍事・政治指導者たちが行った悲しい「証言」 (それらはしばしば拷問された結果であった) が付け加えられていた.

 私は,これらの番組は人々に「憎悪をかき立てる」だけだと考えている.カナダでは特定の民族集団 (この場合はドイツ人) を批判することは法律で禁じられている.しかしこれが,歴史の名の下に行われている.現在のドイツ政府は,従属政府,売国政府である.

 この政府は戦後,連合国によって作り出された政府であり,連合国が復讐のために敗戦国ドイツに押し付けた政府である.現在のドイツ政府は,憎悪・虚偽の垂れ流しからドイツ人を守ってはいない.そこで私が,その防御の役割を買って出よう.心して読んでいただきたい.

 ニュルンベルク裁判についてこれまでと違った角度から考えることは,読者にとってはこれが最初かもしれない.私たちはドイツ人が貶められ,名誉を汚されることにあまりにも慣れているので,それをおかしいとも思わない.私たちはドイツが「ナチ犯罪」の罪を着せられ,非難されることにあまりにも慣れているので,この作り話について深く考えることもない.

 ナフム・ゴールドマンは書いている.

 「ロンドンでの世界ユダヤ会議の間,ノア・バロンというロシア在住ユダヤ人,彼は素晴らしく偉大な理想主義者だったが,その人物が私に話しかけてきた.アデナウアーとの最初の会談で,私が指導的役割を果たすよう彼は説得してきたのである.私はこの説得に対し,心の中では非常に躊躇していた.

 なぜなら,再びドイツ人と話を交わすことは,私にとって非常に抵抗あることだったからである.しかし最終的には,心ではなく頭で,私は交渉の席に望むことを決断した.しかし私は前提条件を出した.アデナウアー首相が交渉前にドイツ議会で声明を出すべきだ,と私は主張したのである.彼はこう言わねばならない.

 『確かに現在のドイツ政府は,アウシュヴィッツを作り出したドイツ政府とは違います.しかし現在のドイツ政府は,ナチスの責任を引き継いでおり,賠償義務を負っています』と.彼はこうも付け加えねばならない.『物質的賠償を行っても,ドイツ人がユダヤ人になした悪業を消すことはできません』と.」

 このようにして戦後ドイツは始まり,現在に至っている! ニュルンベルク裁判の結果,罪の意識と莫大な賠償がドイツ人に押し付けられ,それが過去50年間搾取されたのである.

 私たちがニュルンベルク裁判を考える時,アウシュヴィッツ,ベルゲン・べルゼン,ダハウを思い出す.これらは連合国が「解放」した場所であり,ここで彼らは「多くの骸骨」を発見したのである.そうした骸骨は写真に撮られた後,多く利用され,その後に行われたさまざまな主張の裏付けとされた.

 罪の意識は,プロが使えば大きな武器となる.それは強力な武器であり,ゆすりの種になる.実際「ドイツに戦争犯罪を押し付ける」という政治計画は,ナチス・ドイツの「犯罪」が明らかになるずっと以前に,計画・実行されていたのである.それは,そうした「犯罪」がメディアのセンセーショナルな見出しで世界に伝えられ,世界が口もきけず,震え,恐れおののくずっと以前のことであった.

 ニュルンベルク裁判に関しては,ナチスの「犯罪」を告発すべく数百万の言葉が費やされ,あらゆる言語で何万冊もの本が書かれた.しかし,それらは全て連合国による戦後のプロパガンダを踏襲しており,それぞれの本が互いの脚注を交換し合っている有様である.

 連合国による嘘は数百万回繰り返されたが,しかし繰り返したからと言って,嘘が真実になるわけではない.私はこの論文で,こうした嘘の前提条件,そしてその理由について考察していこうと思う.この忌むべきニュルンベルク裁判こそ,ホロコーストというプロパガンダの源泉だからである.

 第二次世界大戦後に大人になった世代は,ニュルンベルク裁判を批判的に見ることなどほとんど許されなかった.例えば,議論されていない次のような事実がある.被告人は事実上無力であり,裁判全体が軍事占領下,連合国によって行われたという事実である.この欺瞞裁判について,当時の重要人物たちはどう考えていたのだろうか.

 ナフム・ゴールドマンによれば,既に戦争中,ニュルンベルク裁判は注意深く狡猾に計画され,嘘の下地が固められていたのである.第二次世界大戦は同族戦争であった.アメリカにしても,この戦争に参加したところで何ら国益を得ない筈であった.

 にもかかわらずアメリカは,多くの若者をこの戦争に投入した.それは外国人のため,そして当時まだ存在していなかった国家のためであった.そしてこのアメリカ参戦の遥か以前,ニューヨークのユダヤ問題研究所は悪魔的計画を立てていたのである.

ゴールドマンは言う.

「ユダヤ問題研究所の考え方は,ナチス・ドイツが敗戦後,賠償金を支払わねばならないというものであった.この考え方は,ヨーロッパの戦争が連合国の敗北に終わると思われていた時期に出された.しかしチャーチル,ド・ゴールと同じく,私は勝利を信じていた.敗北など一度も考えなかった.

 なぜなら私は,ヒトラーが自分を抑えることなどできず,拡大主義を取り,その結果,アメリカが必ず参戦すると思っていたからである.ユダヤ問題研究所の結論としては,ドイツによる賠償はまず,ナチスによって財産を失った人々に支払われねばならない.

 さらに,もし私たちが望んでいるようなユダヤ国家を建設できるなら,ドイツ人は生存者がその国へ移住するための補償を行わねばならない.この考え方が最初に出て来たのは戦争中であり,ボルティモア会議でのことであった.」

 私たちが皆知っている通り,そして忘れてはならないことだが,予定通りヒトラーは敗北した.そして敗北したドイツの指導者にスターリン式見せしめ裁判を行い,世界に悪党の面々を曝す手順となった.これを「罰」と呼べるのだろうか? もう一度考られたい!

ゴールドマンは続ける.

 「ニュルンベルク裁判を裁いた判事たちの重要性は,あまり認識されていない.実は国際法では,命令に従っただけの兵士を罰することはできない.兵士を罰則対象にするという前例のない考え方を持ち出したのは,ヤコブ・ロビンソンだった.彼がこの考え方をアメリカ最高裁で述べた時,判事たちは彼を素人扱いにした.判事たちは言った.

 『あなたは前代未聞とおっしゃるが,ではこのナチス兵士たちが何をしたのですか?』彼らは続けた.『ヒトラーやゲーリングなら話は別です.しかしあなたが罰したがっている人々は単なる兵士だったのであり,命令を忠実に実行しただけではないですか.』私たちは連合国判事たちを説得するのに一苦労であった.

 兵士を罰則対象にすることに対し,イギリスは真っ向から反対,フランスはほとんど関心を示さず,彼らは後に議論には加わったが,積極的役割を果たさなかった.この考え方が最終的に通ったのは,ロビンソンが最高裁判事ロバート・ジャクソンを説得したからであった.」

 こうして何が行われたのか? 検閲により情報が完全に統制・操作されたのである.

 戦争が終結し,ドイツが降伏した後,連合国は実際,軍事政府を作り上げた.この政府は軍事独裁政府と呼べるものであり,多くの点でヒトラー政府より高圧的で,全ての通信を掌握した.この事実はどれほど強調してもしすぎることはない.

 郵便・電報・電話・ラジオ・本・新聞・雑誌,これらが全て統制・監視の対象となった.連合国は「許認可制度」という巧みな方法を用い,連合国のプロパガンダに与しない者については,罰として許認可を取り上げたり一時停止したりした.例えばジャーナリストは執筆を禁じられ,新聞社であれば紙・インクの配給を止められ,輸送割引を取り上げられた.

 それに加えドイツは,軍事的占領区域に分割された.その区域はミニ国家のようなもので,独自のパスポート,そして食料・燃料・衣服・文具の配給カード,クーポン券を発行していた.戦争直後の占領ドイツでは,ある区域から別な区域に行くためには,管轄の軍事当局に書式申請をしなければならなかった.その際,移動理由,会う人,滞在場所を書かねばならなかったのである.

 不在期間の配給クーポン券も申請しなければならなかった.他にも,ニュルンベルク裁判の弁護人にとって極度に不利な条件があった.それらのうち,あるものは意図的であり,あるものはミスによるものであった.当時,列車は石炭不足のため定刻通りに走っておらず,全く走っていない場合もあった.

 ほとんどの建物には暖房設備がなかった.人々は飢えており,国には男たちがいなかった.見渡す限りの廃墟で,悲惨が全てを覆っていた.それは困難な戦時中よりも,ひどい悲惨だった.


 私は多くの人と話を交わし,多くの人にインタビューを行った.あるいは私自身,裁判の場に現れたこともある.そこから分かったことだが,裁判官・検事・弁護士の誰一人として,1946~49年のニュルンベルク裁判の最中,弁護団がどのような状況に置かれていたかを知っている人はいなかった.

 ましてや今日の世代は,ハイテクを駆使したお祭り騒ぎ,あるいはメディアの提供する精神錯乱によって洗脳されている.ドイツ弁護団がどのような状況下で弁護したのか,彼らはさっぱり知らされていない.全く知らされていないのである!

  私は思うのだが,今日のシニカルな世代,つまり金が儲かり,自分さえよければいいという世代の裁判官・検事・弁護士たちは,当時の驚くべき真実・現実には全く目を向けていないのではないのだろうか.しかし当時のことについては,歴史のためにも記録しておかねばならない.

 想像してほしい.もしあなたがニュルンベルク裁判で弁護側に立って証言したいと言えばどうなったかを.つまりあなたは,ルドルフ・ヘス,ヨアヒム・フォン・リッベントロープ,カルテンブルナー,ゲーリング,シュトライヒャー,あるいはカイテル,ヨードル,ディーツ,レーダーらの軍事指導者の弁護側に立つわけである!

  そして証言許可を得ようして,あなたが軍事当局に出向いた時,あなたの前に立った人がロシア,フランス,アメリカ,イギリスの軍服を着たユダヤ人だったと想像してみよう.その軍人は何と返答してくるだろうか? 彼は,あなたが「ナチス的愛国者」であり,未だ「犯罪」を続行しようとしていると思わないだろうか?

  多くの人々がこのような立場に身を置きたがらなかっただろうことは,何もロケット科学者の知性がなくとも分かることである.多くの人々は弁護側の証言者に立てなかった.彼らは残酷な戦争,恐ろしい空襲,そして「解放」という名の強姦・強奪をやっとの思いで生き抜いたのである.このような状況下,誰が自ら進んで逮捕・殴打・拷問などを受けたいと思うだろうか?

 しかし驚くべきことだが,自ら進み出て,ニュルンベルクの不運な罪人たちを弁護しようとする証言者もいたのである.しかし次のような例も1,2件ではなかった.ニュルンベルク裁判の弁護士たちが,弁護側にとっての重要証言者の居場所をつきとめ,割り出した.しかし,検事には実に都合のいい話だが,そうした証言者たちはニュルンベルクに来る途中「行方不明」になった.そして彼らの証言を必要とする審理が終わったずっと後で,彼らは姿を現したのである.

 弁護士たち自身,全く勝ち目のない裁判を戦わねばならなかった.彼らは寒く,湿った,空襲で焼け残った事務所,半ば崩れかかり,窓に板が張られた事務所で活動していた.彼らは寒さと忍び寄る湿気から身を守るために,オーバーコートを羽織り,帽子・スカーフ・手袋を着用して文章を書き,弁論を練ったのである.

 そして彼らが弁護しようとしている罪人たちは日々,報道機関・ラジオ・メディア・連合軍ラジオの中で,軽蔑すべき化け物,非人間的・犯罪者として誹謗されていた.彼ら弁護士は,まるで自分がカフカの小説に出て来る悪魔的裁判 (それがニュルンベルク裁判であったが) にいるような気がしたことだろう.

 ドイツ人にとってまさに絶望的な時代だった! 弁護活動は,人員,場所,タイプライター,リボン,カーボン紙の不足により遅々として進まなかった.そう,カーボン紙までなかったのである! コピー設備,紙の供給も不足していた.私たちは忘れてはならないが,1945年当時,コピーは写真で撮られていたのである.

 まず文書を特別カメラで撮影し,ネガを作り,それを乾かし,このネガを暗室で拡大し,写真用紙にプリントしなければならなかった.この写真用紙へのプリントのためには,当時入手しにくかった化学物質を使わねばならず,また写真用紙を乾かすためにも貴重な電力を消費しなければならなかった.当時,電気は厳しい配給制限下にあり,1日2時間 (1人当たり) の割り当て量しか配電されなかった.

 これらを踏まえた上で,あなたが弁護士であると仮定してみよう.弁護団は20数名で,弁護しなければならない被告は多数いた.そして検事から30ページ,50ページ,100ページ,200ページに及ぶ文書を数多く手渡される.裁判までの日数は限られており,その間に研究し,分析し,罪を計り,無実にできそうな被告を探さねばならないのである.

 当時のドイツは空襲に焼け出され,通りには何千万ものホームレスがさ迷い,凍え,飢えていた.電話帳も市民台帳も事実上使えなかった.なぜなら,電話はまだ多くの場所で復旧されておらず,民間人が管轄当局から電話・敷設許可を得ることなどほとんどできなかったからだ.あなたが医者のような「重要人物」でない限り,それは無理だったのである.

 弁護士を選択できるという被告人の権利について考えてみよう.これは,ほとんどの文明国で認められている神聖な権利である.しかし戦後ドイツ,つまりヒステリックで無法の戦後ドイツにおいて,この権利が守られたとあなたは思うだろうか?

 「ナチスの化け物」の弁護を担当できる弁護士などいただろうか? これよりずっと後,平和な民主政治カナダでも,私の裁判中,私の担当弁護士が「被告人 (つまり私) とあまりに密接な関係を持ち過ぎている」と,メディアのコメンテイターに非難されたことがあった.現代社会ですら,弁護士,場合によっては裁判官が,私のような誹謗されている被告人に,攻撃的で不寛容な態度を見せる.

 しかし,被告人の運命を握っているのは彼らなのである.ニュルンベルク裁判で弁護を引き受けた弁護士には,どれほどの勇気が必要だったかを考えてみよう.彼らにも妻子があり,彼らとて戦争を生き延びたことを喜び,1946年の敗北し,荒廃し,分断されたドイツ,その廃墟の中で新しいキャリアを積もうとしていたのである.

 気力だけの問題ではない.秩序・公正さを本当に献身的に愛しているかどうかが問われたのである.そのような愛は,今日の社会ではほとんど誰一人として持ち合わせてはいない.

 このような英雄的な弁護士の立場に,あなたが立ったとしよう.あり得ることは,連合軍があなたに「ナチス」の烙印を押し,犯罪者扱いをすることである.なぜなら当時,ナチ党は連合国から犯罪組織と見なされていたからである.ドイツの精神的エリートの大半は国家社会主義党に入党し,彼らの大多数は戦争へ行った.

 そして死ぬか,重傷を負うかした.生き残った者たちの境遇は,文字通り「悲惨」であった.彼らは苛酷な戦争から帰還し,その結果,犯罪者扱いされ,市民権・人権を奪われたのである.これが残忍な連合国の所業であり,その連合国について,白人は皆「素晴らしい新秩序」というプロパガンダを絶えず喋り続けているのである.

 こうした状況全てを乗り切って,あなたが弁護士としてニュルンベルク裁判に登場し,訊問を受け,弁護士としての質を問われたとしよう.あなたは実際には何に直面するだろうか? この言わゆる国際軍事裁判を,冷静に厳密に分析してみよう.

 「国際軍事裁判」という呼び名は,正義で高潔な裁判というイメージを聞く人に与える! しかしこれは,多くの欺瞞を覆い隠してしまう.ニュルンベルク裁判の欺瞞は,今なお残っている.

 以下に,ニュルンベルク裁判とは何だったかを記してみよう.

 それは,国際軍事裁判でも何でもなかった.言葉の定義において,国際的ですらなかった.逆に,戦勝国が敗戦国を裁いたのである.ハーラン・フィスケ・ストーン判事(当時アメリカ最高裁・裁判長でジャクソン判事の上司)は,雑誌〈フォーチュン〉の記者とのインタビューで次のように答えている (ジャクソン判事はニュルンベルク裁判・アメリカ検事団長).

 「これはあなたに個人として申し上げます.アメリカ最高裁は,ニュルンベルク裁判とは直接的にも間接的にも関係がありません.あるいはニュルンベルク裁判を取り仕切った政治権力とも,関係がありません.私はジャクソン判事の参加について,新聞に出て初めて知りました.

 ニュルンベルク裁判は,戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けた裁判でした.つまり,敗戦国が侵略戦争を行ったというわけです.しかし私は,今でも残念に思いますが,ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判でした.それは裁判ではなく,戦勝国の政治行動だったというのが,最も正しい言い方でしょう.

 恐らく連合国は,道徳的には正しかったのであり,それは1815年のナポレオン追放が道徳的には正しかったのと同じことです.しかし連合国は当時,法的根拠のない裁判への釈明を行いませんでした.実際問題,近代戦争において,どの国が戦争を仕掛けたかを決める基準は,難しく曖昧なようです.それゆえ私たちは,ニュルンベルク裁判の手法を未来に受け継がせることに躊躇します.まずは戦勝国が,裁判の手法について釈明しなければなりません.

 実際には全ての戦争は侵略戦争です.そして今のところ,正当性の源泉は敗戦国に対する戦勝国の権力のみです.

 もし連合国が当時,ドイツの指導者をオープンかつ率直に悪者であると罰していたなら,私はあまり悩むことはなかったでしょう.しかしニュルンベルク裁判はコモン・ロー〔不文法〕,あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり,これが私を考え込ませています.私たちはある命題を支持してしまったようです.つまり,いかなる戦争においても,敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない,という命題です.」

 真実はこうだったのだ.ジャクソン判事はニュルンベルク裁判中,最重要の審理で検事を担当した.彼は大統領になる野望を持っており,そのため高い経歴を必要としていた.ニュルンベルク裁判は言ってみれば,彼の大統領選出馬への下地だったのである.ニュルンベルクの裁判官は,中立国スイス,スェーデン,あるいはアフリカ,アジア,南米諸国から選ばれていたわけではなかった.

 連合国裁判官の中心を占めていたのは,大部分アメリカの文民裁判官であり,軍人将校ではなかった.軍人将校であれば,戦争という極限状況での軍事指導者,その政府が行ったことについて,いくらかは理解と同情を寄せていただろう.軍人将校なら必ず,ドイツが絶望的な戦争状況において取った戦時政策のいくつかについて理解できたはずである.しかし自由主義国アメリカの田舎裁判官では,いくら経験を積んでいても,こうしたことは理解できなかったのである.

 さらに厚かましいことに,連合国は戦闘終了後も,他の手段を使ってドイツに対する戦争を継続した.それは爆弾・弾丸を使った戦争ではなく,心理を悪用した戦争,さらにひどい場合には拷問による戦争であった.冷たく残忍な調査官が揃えられ,彼らは容疑者を拷問にかけ,殴り,鞭打ち,飢えさせ,首を絞め,手足を切断したのである.そして容疑者に告白や陳述を行わせたのである.そうした告白・陳述がこの暗い時代,ニュルンベルク裁判という魔女裁判の証拠資料として提出されたのである.

 ニュルンベルク裁判の不当性は,アメリカ最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーンだけでなく,アイオワ州立裁判所のチャールズ・F・ウェナーストラムによっても述べられている.ウェナーストラムはアメリカ中西部出身の判事で,ニュルンベルクでは比較的罪の軽い容疑者を裁く裁判を担当した.

 ウェナーストラムは〈シカゴ・デイリー・トリビューン〉紙・記者とのインタビューに応じた.これはその後有名になり,議論を醸すことになったインタビューである.彼はその中で,調査官,検事の中にすらユダヤ人が多くいたことを伝えている.彼らユダヤ人はナチス・ドイツから逃げ去り,連合国の軍服を着てドイツへ戻って来た人々であった.

 彼らが戻って来たのは国家社会主義者を拷問し,復讐を遂げるためであった.なぜなら国家社会主義者は,ユダヤ人を戦争遂行・西欧文明にとって有害と見なし,ヨーロッパから追い出そうとしたからである.

 以下の抜粋から,戦後ドイツに私的な目的で戻って来た人々についての理解が得られるだろう.これはウェナーストラムがニュルンベルク裁判での仕事に嫌気がさし,帰国を決めてからの話である.

 ウェナーストラムはアメリカへの荷造りをしながら,友人に言った.

 「もし私が七か月前にこうした状況を知っていたら,決してここへは来なかったでしょう.ニュルンベルクの主要裁判は,アメリカ,ロシア,イギリス,フランスの検事・裁判官によって裁かれています.しかし,彼らが時間・努力・出費をかけて今行っていることは,連合国の責任を払拭し,第二次世界大戦の罪をドイツのみに押し付けようとする試みです.

 この裁判には国益が絡んでおり,それは判決にも表れています.この裁判の開廷の際に崇高な動機が述べられましたが,それは全く現実には反映されていません.

 判決は,復讐・個人的野心とは関係のない客観的立場から下されねばなりませんが,それが全く守られていません.世界が今後の戦争を避けるために役立つ前例を,ニュルンベルク裁判は提示できませんでした.

 ここの雰囲気は全体的に気が滅入るものです.通訳者が必要です.アメリカ人は外国語ができないことで有名です.たしかに法律家・事務員・通訳者・研究者が雇われましたが,彼らはつい最近アメリカ人になったばかりで,それ以前はヨーロッパで憎悪・偏見の対象となっていた人々でした.」 (〈シカゴ・デイリー・トリビューン〉1948年2月23日)

 つまり,連合国が雇っていた調査官の多くはユダヤ人だったのである.これについては,そうした調査官の犠牲となった人々の証言がある.彼ら犠牲者は,生涯のいずれかの時期にユダヤ人の周囲にいたことがあり,それゆえユダヤ人を見分けることができた.

 ドイツ人であれば,あるいはドイツ語を話す人であれば,調査官の人種について容易に見分けることができただろう.それは調査官の訛り・話し方からだけでも分かるのであり,ラジオ放送やメディア放送ですら見分けることができる.

 ニュルンベルク裁判で提出された証拠のほとんどは,「文書」であった.それは,連合国が膨大な容疑者記録から選び出したものであった.文書選択は悉く検事団に委託された.弁護団が利用できたのは,検事団が「裁判に関係があり,弁護団に手渡してもよい」と判断した文書のみであった.

 つまり連合国は,文書の公表・隠匿を選択できたのであり,戦後戦略・戦後計画に都合の悪い文書に関しては破棄することもできたのである.連合国はまた,戦争中,宣伝部・諜報機関を使ってナチスの印章・通行許可証・パスポート・指令書・身分証明書を偽造したことについても認めている.そうした偽造は完璧であり,ナチスの目を何度もごまかすことができた.

 これについて連合国の諜報機関は,現在も自慢しているほどである.こうした官僚・諜報要員が戦後に何を行ったかについては,別に豊かな想像力がなくとも容易に推測がつくだろう.今や彼らは文書を手に入れ,タイプライターを没収し,印章を手にし,国家社会主義党に関するあらゆる記述が書かれた手紙を集めたのである.

 そうした文書が証拠として「疑わしい」ことは置くとしても,被告人の証言がいかに作られ,実際には何を意味したかについては,見ていく必要があるだろう.

 ニュルンベルク裁判については,おなじみの感嘆符と共に「大量殺戮」,「ガス室」,「600万人の死者」という言葉が述べられる.こうした言葉,それらが醸し出す意味は大部分,ある人物の告白・陳述書に基づいている.その人物とはルドルフ・ホェスであり,彼は戦時,アウシュヴィッツ司令官であった.

 ルドルフ・ホェスは,連合国が「ホロコースト」を持ち出す上で最重要の証言者であった.彼の証言はニュルベルク裁判の審理・判決で大きく引用されただけでなく,報道機関によっても喧伝された.「アウシュヴィッツのガス室で何百万人が大量殺戮された」という主張の根拠・有効性は,ひとえに彼の証言から来ている.ホェスの「告白」は,ラウル・ヒルバークらの歴史家によって,今日に至るまで重要証言として引用されている.

 戦慄すべき「残虐行為」を,ホェスがニュルンベルクで証言したことは事実である.自ら署名した陳述書の真偽について,彼が宣誓したことも事実である.彼はこの中で,何百万人をガスで殺す指令書を受け取ったことを認めている.しかし,この陳述書は英語で書かれており,家族の話では,ホェスは英語を話すことも聞くこともできなかったのである.

 私たちには今,『死の軍団』という本がある.この本の中では,ルドルフ・ホェスが拘留中,死ぬほど殴打されたことが記されている.彼を殴打したのはイギリス警察に属するユダヤ人であった.彼らは殴打後も,ホェスが悲しい「証言」,「陳述書」を書くまで拷問を続けた.そしてこの証言が,連合国宣伝部によってその後ずっと用いられたのである.以下にルパート・バトラーによる『死の軍団』からの抜粋を示そう.判断するのはあなたである.

 「1946年3月11日午後5時,ホェス夫人は玄関のドアを開けて6人のイギリス軍服を着た諜報員を中へ入れた.彼らは皆,背が高く,高圧的で,容赦ない訊問を行う技術を身に付けていた.

 家族には身体的暴力はほとんど加えられなかった.必要なかったのだ.夫人と子供は引き離され,それぞれに護衛が付いた.クラークの声音は意図的に低く,くだけた調子を響かせていた.

 彼は穏やかに話し始めた.『ご主人は昨晩あなたに会いに戻られましたね.』

 ホェス夫人はすぐに答えた.『私はこの数か月主人に会ってはおりません.』

 クラークはなおも穏やかながら,非難の調子を込めてもう一度言った.『そうではないでしょう.』それから彼の態度は豹変し,彼は叫び始めた.『もし言わないのなら,お前をロシア人に引き渡すぞ.ロシア人はお前に一斉射撃を浴びせるだろう.お前の息子もシベリア行きだ.』

 これは効き目があった.とうとうホェス夫人は力尽き,夫の所在を明かした.元アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ホェスは,フランツ・ランクと名乗っていた.同じ脅迫が息子・娘にも行われ,夫人と一致する証言が得られた.

 ホェスを捜し出した時の模様について,クラークは鮮明に回想している.

 『ホェスは新しい絹のパジャマを着て,三段ベッドの一番上に寝ていた.後に分かったことだが,彼はナチス指導者の大半が持っていた毒薬を失くしていた.また彼はそれを使うチャンスもなかった.なぜなら私たちが,彼の口に懐中電灯を突っ込んだからである.』

 ホェスはイギリス軍服を見ただけで,恐怖のあまり叫んだ.

クラークは言った.

『お前の名前は何だ?』

 ホェスが『フランツ・ランク』と答える度に,彼はその顔を殴りつけた.それが4度続いた後,ホェスは自分の正体を認めた.

 その場にはユダヤ人外科医もいたが,ホェスが正体を明かすやいなや,彼は嫌悪感を抑えられなかった.彼の両親は,ホェスが署名した指令によってアウシュヴィッツで殺されていたからである.

 ホェスは三段ベッドから引きずり降ろされた.パジャマは引きはがされ,彼は裸のまま取り調べ机へ引きずって行かれた.殴打と叫びが長く続いた.

 とうとう医療班長が訊問リーダーに言った.『殺したくなければ,もうやめさせて下さい.』

 ホェスには毛布がかけられ,クラークの車まで引きずられた.そこで外科医は彼の喉に大量のウィスキーを流し込んだ.その後ホェスは眠ろうとした.

 クラークはホェスの目を棒でつつき,ドイツ語で命令した.『起きていろ,豚め.』

 彼らはハイデに午前3時頃に戻った.雪はまだ吹雪いていたが,ホェスは毛布をはぎ取られ,真っ裸で独房まで歩かされた.彼から一貫した証言を得るまでに3日かかった.」

 このように拷問と脅迫で得られた証言が,私たちがよく知っている「ユダヤ人をガス室で殺した」事件の証拠となっているのである.

 歴史家も今日ではやっと,ホェスの証言があてにならないことを認めている.しかしこれも不思議ではない.ホェスは「ヴォルツェク」という実際には存在しなかった強制収容所についてまで証言しているのである.彼は「250万人がガス室で殺され,焼かれた」と証言した.

 「50万人の病死者を加えて死者総数は300万人である」とも述べた.ところが1990年7月18日の〈トロント・サン〉紙は,150万人説を挙げている.同じ日の〈ワシントン・ポスト〉紙も,150万人説を掲げている.クルジスロフ・レスキの記事から引用してみよう.

「ポーランド政府は,アウシュヴィッツの強制収容所で殺害された推定人数を400万人から100万人強へと改定した.

 死者の多数はユダヤ人だったことが,今では確かめられている.もっとも前ポーランド共産主義政府は,ユダヤ人とポーランド人は同数死んだと主張していた.

 新しい研究結果により,ヒトラーの絶滅計画の規模について議論が巻き起こりそうである.

 強制収容所の生存者で,イスラエル議会・労働党議員シェバク・ヴァイスは,この改定を虚偽と見做し『奇妙でショッキング』と受け止めている.

 イスラエルのホロコースト記念館,『ヤド・ヴァシェム・メモリアル』の館長シュムエル・クラコウスキは,この改定は正しいと述べた.

 『司令官ルドルフ・ホェスによって400万人という数字が述べられました.これを真実と見る人もいますが,誇張されています.』

 ポーランド政府は,ソ連が没収したドイツ文書を調べない限り,死者総数の正確な推定はできないと語っている.しかしソ連政府は,この文書の返還を拒絶している.」

 何と都合のいい言い訳だろう! 私は1989年,当時のソ連指導者ゴルバチョフに対し署名運動を起こした.それは,赤軍が1945年にアウシュヴィッツ強制収容所を占領した際,持ち去った死亡リストを公表させる署名運動だった.数か月経ち,この要求は認められた.ゴルバチョフはこの重要リストを赤十字に公表したのである.これには,アウシュヴィッツで死んだ人々の出生地・住所・死亡時刻・死亡原因などが細かく記載されていた.

 このリストに掲載されていたのは7万4000人であった.そのうち,ユダヤ人は約3万人で,ポーランド人がほぼ同数,それに他国籍の人々がいた.

 驚くほど少ないホロコーストである! 私たちは半世紀の間,「何百万人」という話をずっと聞かされ続け,今もこの話は出回っている.しかしこの話は全て,哀れなホェスの証言に基づいている.彼はドイツ敗北後の凍てつく夜,殴打されてこの証言を述べたのである.

 歴史家のクリストファー・ブラウニングも,最近の〈バニティー・フェア〉紙の記事で,ホェスの証言があてにならないことを最終的に認めた.彼は言う.

「ホェスの証言は常に根拠がなく,混乱している.それ故,見直し論者たちは常にホェスを持ち出しながら,アウシュヴィッツの記憶全体を疑問視しようとしている.」

 彼がこう言ったからと言って,見直し論者の主張・手法が無意味になるわけではない.全くそうではなく,むしろ逆である.結局,ホェスの証言は道具として使われたのであり,それは「ガス室,大量殺人」というホロコースト神話を打ち立てるためだった.見直し論者がこれまでホェスに注目してきたのも,まさにこの理由からである.

 つまりホェスこそ,ホロコーストに関する歴史家の主張・誇張を誘発してきた源泉だからである.『在欧ユダヤ人の絶滅』の著者ラウル・ヒルバーク (この本はホロコーストの聖書となっている) は,ホェス証言に大きく依拠している.ニュルンベルク裁判でも,ユダヤ人絶滅に関してホェスは主要な証言者であった.彼は裁判で「自分はひどい拷問を受けた」と述べたにもかかわらず,である.

 さらに言えば,連合国によるホェスの処遇,そして彼の証言の信憑性のなさは,実は驚くに値しない.ニュルンベルク裁判の被告人のどれほど多くが拷問を受けたかについて知ることは,私たちにはできない.なぜなら,彼らの拷問に関する裁判記録が抹消されているからである.そう,連合国にとって不利な情報は,ニュルンベルク裁判の記録から抹消されているのである!

 そのよい例が,シュトライヒャーの場合である.〈ロンドン・タイムズ〉紙によれば,シュトライヒャーは拷問を受け,鞭で打たれ,唾を吐きかけられ,便所の汚水を飲まされたと証言した.しかしこの証言は,後に裁判記録から抹消された.それは検事側の積極的工作によるものであり,当然,検事団長の指示によるものだった.シュトライヒャーの弁護士すら,この抹消には一役買ったのである!

 しかし,ニュルンベルク裁判の拷問記録の中で,残っているものもある.その一つは大管区指導者〔ガウライター〕ザウケルの証言で,彼は自分の家族が脅されたことを述べている.1946年5月の証言で,ザウケルは「私は10人の子供がロシアに送られると脅されたため,内容を確かめずに署名しました」と述べている.

 究極的に言えば,私たちは忘れてはならないが,こうした拷問・証拠隠匿こそが,文明国の名の下に行われた裁判手続きだったのである.この言わゆる国際軍事裁判,つまりニュルンベルク裁判の手続き・判決に不服申し立てを行おうと思っても,そのための機関は何一つ存在しなかった.

 連合国は,ドイツというヨーロッパ最大人口を抱える国に,残虐で大量殺戮に近い戦争を行った.そのドイツの指導者に対する判決は一度きりで,それは死刑であった.

 最近のテレビ・ラジオにおける感情的な誇張を読んだり,見たり,聞いたりする時,これらのこと全てを心に止めていてほしい.その理由はこうである.

 ユダヤ人指導者ナフム・ゴールドマンは『ユダヤの逆説』の中で,あらゆる嘘の源泉について述べている.ドイツには戦後,連合国の傀儡国家ができ,その最初の首相にアデナウアーが選ばれた.ゴールドマンは彼と合意に達した後,次のように述べている.

 「ドイツは総額8000億ドル支払うことになった.イスラエルが国家としてスタートした最初の十年間,ドイツからの賠償金がなければ,現在のインフラの半分も整備されていなかっただろう.イスラエルの全ての鉄道・船・電力設備・産業基盤はドイツ製である.その上,生存者に支払われる個人賠償があった.

 イスラエルは現在,ドイツから毎年何億ドルの賠償金をドイツ通貨で受け取っている.もう数年経てば,イスラエルがドイツから受け取った賠償金の総額は,宝石売却による資金の2倍,もしくは3倍になるだろう.この賠償に現在,不服を言う者は誰もいない」

これなのである!

ニュルンベルク裁判から誇張と嘘を剥ぎ取ればこうなる.

 全ては連合国の仕業である.連合国は外国の海岸で戦った.その戦いの目的の一つはイスラエル建国であった.連合国は,当時シオニストの間に広がっていた政治野心を助長したのである.連合国はニュルンベルク裁判という舞台を使って,イスラエルの建国,そしてその財政基盤確立を援助した.連合国の要員たちはイスラエルを守るために,刑事・調査官・訊問者・検事・裁判官・死刑執行人となった.

 彼らは全て一つである.連合国は「専門家」を派遣し,彼ら専門家がドイツの文書を検閲した.それらの文書は全て連合国の支配下に置かれていた.彼らは罪を立証する文書を最大限誇張し,無実を立証する文書は破棄した.連合国の調査官は,「被告人」に不利な文書のみを拾い出すよう命じられていた.私はこの話を,アメリカ人学者チャールズ・ウィーバー博士から聞いた.

 彼は当時の連合国・調査官の一人であり,私の判決で証言したこともある人物である.彼ら調査官は,被告人であるドイツ人指導者たちの罪を軽くする文書は無視するよう命じられた.ニュルンベルク裁判では,この方針で全ての言葉・行為が実行され,それに不服申し立て一つ出なかった.

 アメリカ最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーンは,アメリカ検事団長ジャクソンについて次のように述べている.

 「ジャクソンはニュルンベルクで高級なリンチを行っている.私は彼がナチスに何をしようと気にはしない.しかし,彼がコモン・ローに基づいた手続き・判決を行っているふりをしていることには,私は嫌悪の念を感じる.

 これは私のような古い考え方の者にとっては,少々聖人ぶった嘘に映る.」

 全く聖人ぶった嘘である!

 連合国には誇らしげな記録が残っている.それは,病的で倒錯したマルクシスト/シオニストの法律・茶番劇をお膳立てしたことを誇る記録である.この茶番劇により,ドイツ人指導者たちに死刑が言い渡された.しかし,彼らドイツ人指導者の努力こそ,「悪の帝国」による「嫌悪のイデオロギー」を防ごうとする歴史上唯一の軍事行動だったのである.

 彼らドイツ人指導者は報いられなかった.ヨーロッパ,そして西洋文明の防衛者である彼らに対し,アメリカや「自由世界」は忘恩で報いた.この勇敢で正直な男たちは校首刑に処せられた.退廃・偽善を食い止めようとして,彼らは獅子奮迅の努力を見せたにもかかわらずである (この退廃・偽善を私たちは現在,恐ろしいことに「新世界秩序」と呼んでいる.)

 私は,彼らへの敬意に頭を垂れる.彼らはニュルンベルクで法的に殺害されたのである.彼らは世界の殉教者であり,悪党などではない.公正な裁判で裁かれていたなら,彼らの誰一人として死刑にはならなかっただろう.そう,一人として! 忘れてはならない.

 彼らが西洋文明を救うためにドイツ国家全体,そして最後には自分自身を犠牲にしたことを.彼らは,着飾った殺し屋,軍服を着たギャング,いかさま師に雇われた陰謀者たちに敗れたのである.東欧ゲットーあがりの殺し屋,ギャング,陰謀者たちに.


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  連合軍のホロコースト! 『消えた百万人(のドイツ兵捕   虜)』ジェームズ・バクー著

http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/403.html

投稿者 ジャック・どんどん 日時 2005 年 2 月 17 日 01:10:01: V/iHBd5bUIubc
(回答先: 裏付けは? 投稿者 外野 日時 2005 年 2 月 17 日 00:19:49)

 ヒトラー・ナチが黒くなればなるほど、『奴ら』の白さが際立つってもんだ。

 ジェームズ・バクー著『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所死のキャンプへの道』(光文社)
http://www.asyura2.com/0311/war45/msg/687.html

http://www.asyura2.com/0311/war45/msg/637.html

参考にしていただければ幸いです。

◎皆川博子著『総統の子ら』集英社

 ドイツの首都殲滅、その間ドイツ国民の食料・燃料は底をつき、国民生活は悲惨を極めた。このような、状況で占領地のユダヤ人のことなどかまってられるのでしょうか?

 ただ、言えることは、ドイツ軍最後の大反抗「バルジの戦い」で捕虜になった多数のアメリカ兵でさえ、ドイツ国内でキチンと戦争捕虜として、ドイツ軍は扱っていたということです。
しかも、東部戦線で捕虜になったソビエト兵でさえ同じようにキチンと扱われていた。ただし、正規兵隊でないパルチザンやレジスタンスには例外である。

◎カート・ボネガット『スローターハウス5』ハヤカワ文庫

◎映画『戦争のはらわた』サム・ペキンパー監督作品


皆川博子『総統の子ら』集英社

下の方に出てたから紹介:『消えた百万人』ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道
http://www.asyura2.com/0311/war45/msg/687.html
http://www02.so-net.ne.jp/~muraji/gunji/1000000.htm

「消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道」 (1999.8.31 追加)
 ジェームス・バクー 著 申橋昭 訳  光人社
 初版発行 1993年11月27日  定価 本体1,748円+税  ISBN4-7698-0665-5

 1945年5月、ナチスドイツ第三帝国崩壊。

 ヒトラーの自殺後、新総統に就任したデーニッツは、一人でも多くの兵士を人道的な扱いを期待できる西部戦線のアメリカ軍に降伏させようとしていました。しかし、ほとんどの第2次世界大戦を描いた書物では、そこで話が終わってしまい、アメリカ軍を中心とする連合軍に捕まった捕虜がどういう運命を辿ったかが書かれている書物はまず有りません。この本は「その後」を描いた本です。

 結論から言うと、

「西部戦線で捕虜になった約900万人の捕虜のうち、1年もしないうちに約100万人が連合軍(主にアメリカ軍)の過酷な取り扱いにより餓死や伝染病で記録上から消えた」

 連合軍から、「捕虜」では無く「犯罪者」として扱われた武装SS所属の兵士は、終戦後、 「野ざらしで雨を遮るテントもない『捕虜収容所』。食料はほとんど支給されない、赤痢や1日に数百人が死んでトラックで運び出される。時たま連合軍兵士がジープで乗り込んで、機関銃を連射しながら、適当に捕虜達を銃殺していく」

 といったような扱いを受けたことはよく知られていますが、一般の兵士もそういう扱いを受けていたわけですね。若い兵が多かった武装SSとは違って、戦争末期にはほとんど10歳代か35才以上までの年齢層で構成されて、基礎体力の無い人間が多かったドイツ国防軍で、これはかなり致命的です。

   もともと連合軍の捕虜死亡率が高かったわけでは無く、むしろ1945年4月まではかなり厚遇されていたといって良いでしょう(残虐だと連合軍の間で評判になり、降伏しても即座に銃殺されることの多かった武装SS所属の兵士を除いて)。その点では生き残った将兵を出来るだけアメリカ軍に引き渡そうとしたデーニッツの判断は間違っていたとは言えないでしょう。

 ただドイツ降伏後になってから扱いはいきなり変わり、連合軍司令長官で後のアメリカ大統領たるアイゼンハワー直々の肝いりで、食料とかはまともに支給されなくなり(当時のアメリカ陸軍には食料が有り余って、処分に困るくらいだったのに!)、かなり非人間的な扱いを受けて、次々と死者が出ていきました。

 もちろん、この扱いに反対する良心的な連合軍の人間もいましたが、最高司令官直々の肝いりに逆らえるわけも無く、その試みのほとんどは無駄に終わったのです。

 発生した大量の死者は、書類上の操作で最初から存在していないように扱われ、この本の著者は各地の公刊資料などを綿密に調べ「意味不明の曖昧な記述」から、実態を調査していくしか無かったほどです。

 まあ、死亡率60パーセントと言われた東部戦線でドイツ軍に捕まったソ連軍の捕虜(さらに味方によって解放されても、信用されずに地雷探知機がわりに地雷原の上を歩かされたり、本国に帰っても強制収容所に放り込まれることが多かった)や、降伏したときには9万人いたけど、帰国したときには5000人になっていたスターリングラード戦のドイツ第6軍の生存者とか非道い例はいくらでも有りますけど、今までアメリカ軍は「紳士的」と思われていたことが多かったですからね、これはかなり意外でした。

 当時、目撃者なども多数いたのに、このことが全然話題にもならず、反対に「西側連合軍は捕まえたドイツ軍捕虜を厚遇した」などという伝説が生まれてしまったのには、スターリングラード戦などのソ連軍による捕虜、民間人に対する虐待行為があまりにも広まりすぎていたことにも有るようです。つまり冷戦が始まる中、戦争末期に帰って来なかった捕虜は「ソ連軍に捕まって非道い扱いを受けたあげく死んだ」ってことに出来ましたからね。現にヒドかったことは事実ですし<ソ連軍による残虐行為

 まあ、結果的にはどこの国もやっていることは、そんなに変わらなかった訳ですけどね。万が一ドイツがWW2に勝ったら、ドイツのやったことは、世間には広まらずアメリカとかイギリスとかの残虐行為が広く宣伝されるだけですし。「歴史は勝者によって作られる」とはよくぞ言ったものです。

 しかし、この本に書かれている文句、

「婉曲な言い回しは残虐行為のはじまりである」

はまさしく至言だと思います。

 物事を問わず官僚的な作文では良くあることですが、まともに言えないからこそ、そのような言葉遣いが必要になるわけで。

 あと、こういう上からの圧力を受けつつ、ドイツ人捕虜の待遇改善に力を尽くしたアメリカ軍やフランスの人間も描かれていますが、そういう人たちの勇気にはホントに感心させられます。そのせいか、出世は出来なかったみたいですけど。

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ユダヤ人将軍アイゼンハワーのホロコースト(虐殺されたのはドイツ人の方だった?)

http://www.asyura2.com/0311/war45/msg/637.html

投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2003 年 12 月 30 日 09:05:56:d/vusjnSYDx0.

 170万人のドイツ人が終戦直後の米軍収容所で死亡した、というこの情報(著者不明)が正確なら第二次大戦史を大きく書き換えるものとなろう。アイゼンハワーは自分がユダヤ系であることからドイツ人を憎悪していたようである。

 最高司令官たるアイゼンハワーの直接命令で、ドイツ軍捕虜が相当劣悪な衛生状態に置かれていたこと、またドイツ軍捕虜への食料補給が意図的に阻害されていた(ドイツ軍捕虜に対する規制外の食料提供は死罪だった由)ことは真実のようだ。

 170万の犠牲者数はユダヤ人のホロコースト犠牲者数同様、多少誇張されているきらいがあるが、ドイツの厳冬を考えれば、暖房、食料の不足によって数十万単位で死亡することは十分ありうることである。現に100万人が死亡したと断言する下記のような米軍戦史家もいる。この戦史家(フィッシャー大佐)はバルジの戦い従軍した101空挺師団に所属していた軍人だけに、その言葉には説得力がある。

Starting in April 1945, the United States Army and the French Army casually annihilated one million [German] men, most of them in American camps . . . Eisenhower's hatred, passed through the lens of a compliant military bureaucracy, produced the horror of death camps unequalled by anything in American history . . . an enormous war crime."

-- Col. Ernest F. Fisher, PhD Lt.

101 st Airborne Division, Senior Historian, United States Army
http://www.thetruthseeker.co.uk/article.asp?ID=136

 しかしなぜドイツ人捕虜の同僚その他が今まで沈黙していたのだろうか、それともやはりメディアに黙殺されてきたのか?

 この情報の中で特に興味深いのはスウェーデン系ユダヤ人であったアイゼンハワーと、その配下にあったパットン将軍(スコットランド系)との間の確執である。パットンがドイツ占領行政に際して旧ナチ党員を優先的に登用して、メディアに叩かれ、アイゼンハワーの不興を買ったことは有名であるが、その直後に実に不審な交通事故で死んでいるのである。

 ちなみにパットンはウェストポイント(陸軍士官学校)ではアイゼンハワーの一年先輩だったが、少将だったアイク(アイゼンハワーの愛称)が超スピード出世したため先をこされたのである。しかしこの経歴も、同じくユダヤ系で少将から大将まで超スピード出世したクラーク大将にそっくりではある。

 両方とも「その筋」の代理人になることで栄達を果たしたのであろう。

 今考えればパットンの事故死は、すでに米国軍事行政の中枢に浸食しつつあったシオニスト勢力との確執に起因する暗殺だった可能性十分と見る。

http://www.rense.com/general46/germ.htm

Eisenhower's Holocaust - His
Slaughter Of 1.7 Million Germans
Author Not Known
12-28-03

"God, I hate the Germans..." (Dwight David Eisenhower in a letter to his wife in September, 1944)

 First, I want you to picture something in your mind. You are a German soldier who survived through the battles of World II. You were not really politically involved, and your parents were also indifferent to politics, but suddenly your education was interrupted and you were drafted into the German army and told where to fight. Now, in the Spring of 1945, you see that your country has been demolished by the Allies, your cities lie in ruins, and half of your family has been killed or is missing. Now, your unit is being surrounded, and it is finally time to surrender. The fact is, there is no other choice.

 It has been a long, cold winter. The German army rations have not been all that good, but you managed to survive. Spring came late that year, with weeks of cold rainy weather in demolished Europe. Your boots are tattered, your uniform is falling apart, and the stress of surrender and the confusion that lies ahead for you has your guts being torn out. Now, it is over, you must surrender or be shot. This is war and the real world.

 You are taken as a German Prisoner of War into American hands. The Americans had 200 such Prisoner of War camps scattered across Germany. You are marched to a compound surrounded with barbed wire fences as far as the eye can see. Thousands upon thousands of your fellow German soldiers are already in this make-shift corral. You see no evidence of a latrine and after three hours of marching through the mud of the spring rain, the comfort of a latrine is upper-most in your mind. You are driven through the heavily guarded gate and find yourself free to move about, and you begin the futile search for the latrine. Finally, you ask for directions, and are informed that no such luxury exists.

 No more time. You find a place and squat. First you were exhausted, then hungry, then fearful, and now; dirty. Hundreds more German prisoners are behind you, pushing you on, jamming you together and every one of them searching for the latrine as soon as they could do so. Now, late in the day, there is no space to even squat, much less sit down to rest your weary legs. None of the prisoners, you quickly learn, have had any food that day, in fact there was no food while in the American hands that any surviving prisoner can testify to. No one has eaten any food for weeks, and they are slowly starving and dying. But, they can't do this to us! There are the Geneva Convention rules for the treatment of Prisoners of War. There must be some mistake! Hope continues through the night, with no shelter from the cold, biting rain.

 Your uniform is sopping wet, and formerly brave soldiers are weeping all around you, as buddy after buddy dies from the lack of food, water, sleep and shelter from the weather. After weeks of this, your own hope bleeds off into despair, and finally you actually begin to envy those who, having surrendered first manhood and then dignity, now also surrender life itself. More hopeless weeks go by. Finally, the last thing you remember is falling, unable to get up, and lying face down in the mud mixed with the excrement of those who have gone before.

 Your body will be picked up long after it is cold, and taken to a special tent where your clothing is stripped off. So that you will be quickly forgotten, and never again identified, your dog-tag is snipped in half and your body along with those of your fellow soldiers are covered with chemicals for rapid decomposition and buried.

 You were not one of the exceptions, for more than one million seven hundred thousand German Prisoners of War died from a deliberate policy of extermination by starvation, exposure, and disease, under direct orders of the General Dwight David Eisenhower.

 One month before the end of World War 11, General Eisenhower issued special orders concerning the treatment of German Prisoners and specific in the language of those orders was this statement,

 "Prison enclosures are to provide no shelter or other comforts."

 Eisenhower biographer Stephen Ambrose, who was given access to the Eisenhower personal letters, states that he proposed to exterminate the entire German General Staff, thousands of people, after the war.

 Eisenhower, in his personal letters, did not merely hate the Nazi Regime, and the few who imposed its will down from the top, but that HE HATED THE GERMAN PEOPLE AS A RACE. It was his personal intent to destroy as many of them as he could, and one way was to wipe out as many prisoners of war as possible.

 Of course, that was illegal under International law, so he issued an order on March 10, 1945 and verified by his initials on a cable of that date, that German Prisoners of War be predesignated as "Disarmed Enemy Forces" called in these reports as DEF.

 He ordered that these Germans did not fall under the Geneva Rules, and were not to be fed or given any water or medical attention. The Swiss Red Cross was not to inspect the camps, for under the DEF classification, they had no such authority or jurisdiction.

 Months after the war was officially over, Eisenhower's special German DEF camps were still in operation forcing the men into confinement, but denying that they were prisoners. As soon as the war was over, General George Patton simply turned his prisoners loose to fend for themselves and find their way home as best they could.

 Eisenhower was furious, and issued a specific order to Patton, to turn these men over to the DEF camps. Knowing Patton as we do from history, we know that these orders were largely ignored, and it may well be that Patton's untimely and curious death may have been a result of what he knew about these wretched Eisenhower DEF camps.

 The book, OTHER LOSSES, found its way into the hands of a Canadian news reporter, Peter Worthington, of the OTTAWA SUN. He did his own research through contacts he had in Canada, and reported in his column on September 12,1989 the following, in part:

 "...it is hard to escape the conclusion that Dwight
Eisenhower was a war criminal of epic proportions. His (DEF) policy killed more Germans in peace than were killed in the European Theater."

 "For years we have blamed the 1.7 million missing German POW's on the Russians. Until now, no one dug too deeply ... Witnesses and survivors have been interviewed by the author; one Allied officer compared the American camps to Buchenwald."

 It is known, that the Allies had sufficient stockpiles of food and medicine to care for these German soldiers. This was deliberately and intentionally denied them. Many men died of gangrene from frostbite due to deliberate exposure. Local German people who offered these men food, were denied. General Patton's Third Army was the only command in the European Theater to release significant numbers of Germans.

 Others, such as Omar Bradley and General J.C.H. Lee, Commander of Com Z, tried, and ordered the release of prisoners within a week of the war's end. However, a SHAEF Order, signed by Eisenhower, countermanded them on May 15th.

 Does that make you angry? What will it take to get the average apathetic American involved in saving his country from such traitors at the top? Thirty years ago, amid the high popularity of Eisenhower, a book was written setting out the political and moral philosophy; of Dwight David Eisenhower called, THE POLITICIAN, by Robert Welch.

 This year is the 107th Anniversary of Eisenhower's birth in Denison, Texas on October 14, 1890, the son of Jacob David Eisenhower and his wife Ida. Everyone is all excited about the celebration of this landmark in the history of "this American patriot." Senator Robert Dole, in honor of the Commander of the American Death Camps, proposed that Washington's Dulles Airport be renamed the Eisenhower Airport!

 The UNITED STATES MINT in Philadelphia, PA is actually issuing a special Eisenhower Centennial Silver Dollar for only $25 each. They will only mint 4 million of these collector's items, and veteran's magazines are promoting these coins under the slogan, "Remember the Man...Remember the Times..." Pardon me if I regurgitate!

 There will be some veterans who will not be buying these coins. Two will be Col. James Mason and Col. Charles Beasley who were in the U.S. Army Medical Corps who published a paper on the Eisenhower Death Camps in 1950. They stated in part:

 "Huddled close together for warmth, behind the barbed wire was a most awesome sight; nearly 100,000 haggard, apathetic, dirty, gaunt, blank-staring men clad in dirty gray uniforms, and standing ankle deep in mud ... water was a major problem, yet only 200 yards away the River Rhine was running bank-full."

 Another Veteran, who will not be buying any of the Eisenhower Silver Dollars is Martin Brech of Mahopac, New York, a semi-retired professor of philosophy at Mercy College in Dobbs Ferry, NY. In 1945, Brech was an 18 year old Private First Class in Company C of the 14th Infantry, assigned as a guard and interpreter at the Eisenhower Death Camp at Andernach, along the Rhine River. He stated for SPOTLIGHT, February 12, 1990:

 "My protests (regarding treatment of the German DEF'S) were met with hostility or indifference, and when I threw our ample rations to them over the barbed wire. I was threatened, making it clear that it was our deliberate policy not to adequately feed them."

 "When they caught me throwing C- Rations over the fence, they threatened me with imprisonment. One Captain told me that he would shoot me if he saw me again tossing food to the Germans ... Some of the men were really only boys 13 years of age...Some of the prisoners were old men drafted by Hitler in his last ditch stand ...

 I understand that average weight of the prisoners at Andernach was 90 pounds...I have received threats ... Nevertheless, this...has liberated me, for I may now be heard when I relate the horrible atrocity I witnessed as a prison guard for one of 'Ike's death camps' along the Rhine." (Betty Lou Smith Hanson)

 Note: Remember the photo of Ike's West Point yearbook picture when he was dubbed "IKE, THE TERRIBLE SWEDISH JEW"? By the way, he was next, or nearly so, to the last in his class. This article was first printed in 1990, but we thought it was meaningful to reprint it now.

 Note: During Cadet Eisenhower's time at West Point Academy, Eisenhower was summoned to the office of the headmaster and was asked some pointed questions. At the time, it was routine procedure to test a cadet's blood to insure White racial integrity.

 Apparently, there was a question of Eisenhower's racial lineage and this was brought to Eisenhower's attention by the headmaster. When asked if he was part Oriental, Eisenhower replied in the negative. After some discussion, Eisenhower admitted having Jewish background.

 The headmaster then reportedly said, "That's where you get your Oriental blood?" Although he was allowed to remain at the academy, word got around since this was a time in history when non-Whites were not allowed into the academy.

 Note - The issue of Eisenhower's little-known Jewish background in academically essential in understanding his psychopathic hatred of German men, women and children.

 Later, in Eisenhower's West Point Military Academy graduating class yearbook, published in 1915, Eisenhower is identified as a "terrible Swedish Jew."

 Wherever Eisenhower went during his military career, Eisenhower's Jewish background and secondary manifesting behavior was a concern to his fellow officers. During World War II when Col. Eisenhower was working for Gen.

 Douglas MacArthur in the South Pacific, MacArthur protested to his superiors in Washington (DC) that Eisenhower was incompetent and that he did not want Eisenhower on his staff.

 In 1943, Washington not only transferred Col. Eisenhower to Europe but promoted him over more than 30 more experienced senior officers to five star general and placed him in charge of all the US forces in Europe.

 Thus it comes as no surprise that General George Patton, a real Aryan warrior, hated Eisenhower.

 [Ed: Patton was keen to fight the Soviets, and reportedly kept some German units ready to move against the Soviets...unsurprisingly he was killed; after the war, in a 'car crash,' just like Lawrence of Arabia was conveniently bumped off, in a similar manner, for his 'pro-fascist' views].


Comment
From George
12-28-3

 Finally, the truth about Ike. He was a zionist!, a racist! and a slaughterer of innocents! He was always these things. And all anyone remembers is his famous quote "to beware of the military/industrial complex." Like this knowledge means he was a great precient prophet, when he was really a part of the NWO and helped set the US up for all that followed.

 The tooling jobs and industry started to leave the US in the early '50's, when Ike got into power. It was Japan they were building. Notice the difference between the destruction of Japan and the quick buildup of the Philipines and Japan and the Pacific the US took over, after the war of hegemony to steal the wealth of the Pacific Rim and present day Afghanistan, Iraq etc., now that the zionists rule the 'world'. The zionist essence is evil, destructive and self-destructive. Ike was a tool of the zionist evil essence.


 German POW's Diary Reveals More Of Ike's Holocaust
12-29-3

 Note - The following diary extract has been provided by the nephew of the author under the conditions we honor his request for anonymity. -ed

A transcript of my Uncle's words...from my Mother's diary:

"Suddenly an American Jeep moved towards us and several American Soldiers surrounded us. There was no officer in charge, and the first thing the 'Amis' did - they liberated us, I mean, from our few valuables, mainly rings and watches........ We were now prisoners of war- no doubt about it!

 The first night we were herded into a barn, where we met about 100 men who shared the same fate. To make my story short, we were finally transported to Fuerstenfeldbruck near Munich. Here we, who were gathered around Hermann, interrupted him and gasped in dismay.

 Fuerstenfeldbruck had become known to us as one of the most cruel POW camps in the American zone.

Then my brother continued:

 Again we were searched and had to surrender everything, even our field utensils, except a spoon. Here, in freezing temperature, 20,000 of us were squeezed together on the naked ground, without blanket or cover, exposed day and night to the winter weather.

 For six days we received neither food nor water! We used our spoons to catch drops of rain.

 We were surrounded by heavy tanks. During the night bright searchlights blinded us, so that sleep was impossible. We napped from time to time, standing up and leaning against each other. It was keeping us warmer that sitting on the frozen ground.

 Many of us were near collapse. One of our comrades went mad, he jumped around wildly, wailing and whimpering. he was shot at once. His body was lying on the ground, and we were not allowed to come near him. He was not he only one. Each suspicious movement caused the guards to shoot into the crowd, and a few were always hit.

 German civilians, mainly women of the surrounding villages, tried to approach the camp to bring food and water for us prisoners. they were chased away.

 Our German officers could finally succeed to submit an official protest, particularly because of the deprivation of water. As a response, a fire hose was thrown into the midst of the densely crowded prisoners and then turned on. Because of the high water pressure the hose moved violently to and fro.

 Prisoners tumbled, fell, got up and ran again to catch a bit of water. In that confusion the water went to waste, and the ground under us turned into slippery mud. All the while the 'Amis' watched that spectacle, finding it very funny and most entertaining. They laughed at our predicament as hard as they could. Then suddenly, they turned the water off again.

 We had not expected that the Americans would behave in such a manner. We could hardly believe it. War brutalizes human beings.

 One day later we were organized into groups of 400 men .... We were to receive two cans of food for each man. This is how it was to be done: The prisoners had to run through he slippery mud, and each one had to grab his two cans quickly, at the moment he passed the guards. One of my comrades slipped and could not run fast enough, He was shot at once ....

 On May 10th , several truckloads of us were transported the the garrison of Ulm by the Danube..... As each man jumped into the truck, a guard kicked him in the backbone with his rifle butt.

 We arrived in the city of Heilbronn by the Neckar, In the end we counted 240,000 men, who lived on the naked ground and without cover.

 Spring and summer were mild this year, but we were starving. At 6;00 am we received coffee, at noon about a pint of soup and 100 grams of bread a day........

 The 'Amis' gave us newspapers in German language, describing the terrors of the concentration camps. We did not believe any of it. We figured the Americans only wanted to demoralize us further.

 The fields on which we lived belonged to the farmers of the area...soon nothing of the clover and other sprouting greens were left, and the trees were barren. We had eaten each blade of grass.....

 In some camps there were Hungarian POW's. 15,000 of them. Mutiny against their officers broke out twice amongst them. After the second mutiny the Americans decided to use German prisoners to govern the Hungarians. Since the Hungarians were used as workers they were well fed. T

 here was more food than they could eat. But when the Germans asked the Americans for permission to bring the Hungarians' leftovers into the camps of the starving Germans, it was denied. The Americans rather destroyed surplus food, than giving it to the Germans.

 Sometimes it happened that groups of our own men were gathered and transported away. We presumed they were discharged to go home, and naturally, we wished to be among them. Much later we heard they were sent to labor camps! My mother's cousin, feared that he would be drafted into the Hitler Youth SS, he volunteered to the marines, in 1945 his unit was in Denmark.

 On April 20th they were captured by the Americans. his experience in the POW camp was identical that of my brother's. They lived in open fields, did not receive and food and water the first six days, and starved nearly to death. German wives and mothers who wanted to throw loaves of bread over the fence, were chased off.

 The prisoners, just to have something to chew, scraped the bark from young trees. my cousins job was to report each morning how many had died during the night. "and these were not just a few!" he adds to his report he wrote me.

 It became known, that the conditions in the POW camps in the American Zone were identical everywhere. We could therefore safely conclude, that it was by intent and by orders from higher ups to starve the German POW's and we blamed General Eisenhower for it. He, who was of German descent could not discern the evildoers during the Nazi time from our decent people. We held that neglect of knowledge and understanding severely against him.

 I wish to quote the inscription on the grave stones of those of my German compatriots who have already passed away:

 We had to pass through fire and through water. But now you have loosened our bonds.

以下参考サイト

http://www.thetruthseeker.co.uk/article.asp?ID=135

http://www.thetruthseeker.co.uk/article.asp?ID=136

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝


「この「第2ぼやき」記事を印刷する」

「50」 かつて私の弟子であった奥田君が書いた「正義論」が見つかりましたので、ここに載せます。
副島隆彦です。かつて私の弟子で、大阪に住む奥田君が書いた、「正義論」を載せます。

 この論文は、アリストテレスの系統の冷酷な「分配的正義」の正義(ジャスティス)に、傾いていて、リバータリアン思想の影響をうけた、「法と経済学派」の考えに近いです。 それとは大きく対立する「永遠の正義、人間を大切にする思想としての正義論」の説明はなされていません。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)


【今日のぼやき】論文『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』


「547」 論文『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』。これは『日本の近代(a modern)への対策と副島隆彦の思想』の続編でもあります。 奥田勝典 記 2004.4.3

論文『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』 奥田勝典 記

 『正義論』とはジョン・ロールズが書いた有名な本だが、現在この本は絶版になっている。出版社に電話で聞いてみたが、重版の予定はないようだ。

 私は洋書を25ドルで買ったが、日本では定価が6,500円で、ネット・オークションで16000円の高価格で売られているのを最近見た。あまりこんなことは書きたくないのだが、大阪私立中央図書館という大阪最大級の図書館にもこの本はないのだ。そのこと自体が、日本人の政治思想における水準の低さを物語っている。

 政治哲学史家のレオ・シュトラウスの弟子たち(disciples)と噂される思想家集団のネオ・コン派が、ブッシュ政権を操っているという現実を目の当たりにすると、日本の今の状態に憂慮しないわけにはいかない。

 実は、私には、何故このロールズの『正義論』で、所得や富を再分配することが正義(justice)かどうか議論しているのかがわからなかった。そもそも正義(justice)とは何なのかがわからなかったからだ。

 OXFORD英英辞典にはjustice(正義)とは the fair treatment of people(人々を公正に扱うこと)と書いているが、何が fairness (公正)の基準となるのかが疑問だった。しかし、ようやく、正義(justice)とはそもそも何なのか、ということを理解することが出来たので、その理解できたことを書こうと思う。

まず、副島隆彦著ぼやき「539」より転載する。


(転載はじめ)

 女神ユスティティアは右に天びん棒を持っていて、左手に剣(つるぎ)持っているのである。これは、パワー、つまり、暴力、軍事力、支配力を意味しているということだ。相手を剣の力で押さえつけるわけである。

(副島隆彦著ぼやき「539」)

(転載おわり)


奥田勝典です。この正義とは力である、ということはすぐ理解できた。以下の本を読んでいたからだ。

Natural Right and History By LEO STRAUSS p133より引用します。

(引用はじめ)

 Justice and coercion are not mutually exclusive; in fact, it is not altogether wrong to describe justice as a kind of benevolent coercion. Justice and virtue in general are necessarily a kind of power. To say that power as such is evel or corrupting would therefore amount to saying that virtue is evil or corrupting.

(Natural Right and History By LEO STRAUSS p133)

(引用おわり)

レオ・シュトラウス著『自然権と歴史』p149より

(引用はじめ)

  正義と強制は相互排除的なものではない。事実、正義を一種の善意ある強制とのべたとしても、あながち間違っているとは限らない。正義徳一般は、必然的に一種の力である。力そのものが悪いとか腐敗をもたらすと言うのは、したがって、徳は悪いとか腐敗をもたらすと言うのと同じことになろう。

(レオ・シュトラウス著『自然権と歴史』p149)

(引用おわり)

奥田勝典です。このように、レオ・シュトラウスは、正義・徳一般は必然的に一種の力である(Justice and virtue in general are necessarily a kind of power.)と言っている。言い換えれば、力がないと正義は実現されないということであるが、これはもっともなことだと思う。爆撃機に民間人が空爆されているときに、いくら正義が踏みにじられていると念仏のように叫んでも、何も効果がないのと同じことだ。

 私は、このレオ・シュトラウスの簡潔な定義を、先生である副島隆彦に見ていただくだけのつもりで、メモとして書いた。ここで終わるはずだった。しかし、なにげなく洋書のレオ・シュトラウスの『自然権と歴史』の1枚目のページをめくった時、私は心の中で、ああっ、と声をあげた。頭の中を稲妻が走った。そしてそのときに、正義とはそもそも何なのかがわかった。その後、私は、思いつくかぎりの反論を考えたが、ほんの数十秒後に間違いないと確信した。

 では、何を基準に人に判決を下すのか?何を基準にfairness(公平、公正)だというのか?

 そこには、1953年の初版の表紙が記念に収められていた。その旧版にあたる表紙には、Natural right and history というタイトルと、作者名By LEO STRAUSSと書かれている間に、正義のもう1つの側面を表す「天びん」の絵が大きく描かれていたのだ。そして、これが正義の基準とは何であるのかを物語っているのだ、と気付いた。

 つまりこの絵で、レオ・シュトラウスは、Natural Right(自然権)が正義判断の基準であり、ドイツの人定法は正義判断の基準などにはなりえない、と暗に批判しているのだ。だから、人定法、自然法、自然権、人権それぞれの思想対決とは、私の思想こそが正義の基準となるのだ、と言っているのである。

 誤解を恐れずに、この思想対決を単純化して書くと、人定法派は人が決めた法が正義の基準なのだ、自然法派は神の法が正義の基準なのだ、自然権派は神より与えられた所有権が正義の基準なのだ、人権派は神の望む万人の幸福が正義の基準なのだ、と言っているのである。

 だから、私たちが思想を語るときそれは正義の基準を語っているのだ、と言ってよい。そしてそれを正義論というのだ。この思想対決については、副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章に詳しい。

これで、今まで読んでもさっぱりわからなかった、『ノートン現代思想事典』に書かれていたことも理解できた。

The Norton Dictionary of Modern Thoughtより

(引用はじめ)

justice.

 said by many writers to be the first of social virtues, justice has been the subject of intense argument in the last two decades.Recent discussion has centred on the work of John Rawls, Robert Nozick and Friedrich von Hayek. John Rawls’s A theory of Justice (1971) argued that recent political theory had been too utilitarian (see UTILITARIANISM), too unconcerned with individual rights; by asking the question

‘What rules would mankind contract to obey if they were to establish a social order in conditions where none of them could take advantage of their fellows ? ’

 he hoped to arrive at an account of justice which any dispassionate reader would accept. Rawls’s view is that justice demands ‘maximum equal liberty’ and a distribution of economic benefits which makes the least-favoured person as well off as possible ―the so-called ‘maximin’ conception of justice, which concentrates on maximizing the minimum benefit.

 This view has been attacked both by Robert Nozick and F. A. von Hayek. In their view, justice is not a matter of how benefits are distributed, but a matter of protecting individual rights to resources.

 Hayek has argued that ‘social justice’ is a chimera, and that appeals to social justice imply that some authority or other, notably the STATE, has the right and the duty to distribute goods and opportunities as it sees fit. But this is incompatible with individual liberty, which requires that we should be able to use what is ours as we choose.

 Similarly Nozick denies that there is such a thing as ‘DISTRIBUTIVE JUSTICE’. The concept implies an agency entitled to achieve it, but when we look closely, we can see that everything worth distributing already belongs to some owner or other.

 All the rights over goods and opportunities that there are, are in the hands of single individuals. The state cannot lay hands on any of these things without violating those individual rights.Goods and opportunities are justly distributed when they are in the hands of their rightful owners. Any egalitarian (see EGALITARIANISM) claim for further redistribution is a reflection of the ‘politics of envy’, not of justice.

(The Norton Dictionary of Modern Thought)


(拙訳)

  正義とは、多くの書き手によって社会道徳的美点の第1の物であると言われ、正義はこの二十年間激しい論争の主題でありつづけてきた。

 近年におけるやり取りは、ジョン・ロールズ、ロバート・ノージック、そしてフりードリヒ・フォン・ハイエクの研究が中心になっている。ジョン・ロールズの『正義論(1971)』では、最近の政治理論は功利主義的になり過ぎ、個人の権利について無関心すぎると、以下の疑問を投げかけることによって述べる。

 「もしも、彼らのうちの誰も、彼らの仲間を利用出来ないような状態において社会秩序を確立しようとするならば、一体どのような従うべき規則を決めようとするのだろうか?」

 彼は、どんなに冷ややかな読者でも受け入れるであろう、正義についての個人的な体験にもとづくような話にする事を望んだのである。ロールズの見解は、正義は「最大限の平等な自由」と、最も恵まれない人びとが出来るだけ不自由しないような経済的利益の分配―最小の利益を最大化しようとするという、いわゆるマキシミン(奥田注:マキシマム・ミニモラムから由来する)という正義の概念―を要求する、というものである。

  この見解は、ロバート・ノージックとF.A.フォン・ハイエクの両方から攻撃されてきた。彼らの見解では、正義とは、どのように利益が分配されるかの問題などではなく、財産における個人の権利を守る事、という問題なのである。

 ハイエクは、「社会的正義」はキメラ(奇怪な幻想)であり、「社会的正義」への訴えは、何らかの権威、特に国家が、適正とみなすやり方で財や機会を分配する権利と義務を持つということを暗に意味することになるのだと主張する。しかし、これは、個人の自由とは矛盾する。そして、個人の自由は、私たちが、私たちの選択する私たちの物を使うことができるべきである、と要求するのだ。

 同じようにノージックも「分配的正義」などというものがありえるということを否定した。この考えは、政府が「分配的正義」を達成する権利を与えられている事を暗に意味しているのだ。しかし、注意深く見てみるならば、我々は分配するに値する全てのものが、既にある所有者に属している事を見ることが出来る。そこに存在する財や機会についての全ての権利は、個人個人の手の中に在るものなのである。

 国家は、それらの個人の権利を侵害することなしには、どのような物も手に入れる事は出来ないのだ。財や機会は、それらが正当な権利を持っている所有者の手の中にあるときにこそ正しく分配されている。それより先の再分配へのあらゆる平等主義者の主張は、「ねたみの政治的手段」の反映であり、正義などではないのである。

(引用おわり)


奥田勝典です。このように、自分の思想こそが正義の基準であるのだと主張しているのがわかると、簡単に理解できる。つまり思想対決とは正義論になるのだ。ちなみに、この『ノートン現代思想事典』での思想対決は、ハイエクとノージック対ロールズの対決なのだが、ハイエクはクラシカル・リベラル(古典的自由主義)であるし、ノージックの思想は独創的だが、これは人定法派と人権派の対決と言ってよい。

 それでは、何故、ここでの正義論が、所有権は絶対だとか、財を再配分するべきだ、などのお金の議論に終始するのだろうか?

 これを簡潔に説明すると、国家や社会というものが既に現実としてある今では、自然状態から社会契約をするということは、必然的に所有権を守る為の政府が必要なので(たとえ最小国家であったとしても)、お金の負担をどうするのかという議論になってゆくのだ、と言える。

 そして、ここで、ロールズは、恵まれない人びとがへのお金の再分配が正義の基準だと言っているのであり、ハイエクとノージックは所有権を守ることが正義の基準だと言っている。だから、どこまでが所有権なのかの議論が、正義論の論争となっている。近代以降の正義論とは、所有権の定義での争いなのだ。

 所有権の定義での争いにおける自然権派と人権派の対立は、The Declaration of Independence the Thirteen Colonies in Congress(アメリカ合衆国独立宣言)からの解釈と言ってよい。

(引用はじめ)

  We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.

 我々は、自明の真理として、万人が平等に創造され、創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求が含まれていることを信ずる。

 The Declaration of Independence the Thirteen Colonies in Congress(アメリカ合衆国独立宣言)

(引用おわり)

奥田勝典です。「創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され」というところが、ロックの自然権という思想であり、神から与えられた所有は絶対なのだ、という正義の基準となる。そして、「幸福の追求が含まれている」という部分の解釈が人権派の思想につながる。ここが、解釈として対立するのである。

 だからアメリカでは、共和党が政権の時には共和党の思想にもとづいた正義の基準を政策で主張し、民主党が政権の時には民主党の思想に基づいた正義の基準を政策で実現しようとするのだ。つまり、お金持ちを優遇するのか貧乏人に福祉をするのかという、小さな政府か大きな政府かというのが議論の対象になる。司法においても同じことで、最高裁長官が共和党か民主党どちらになるかで正義の基準が変わるから大きな興味の対象となる。

 さらに、ハイエクとノージックは、所有権における「天賦」というロックの自然権の形而上学的な残滓を認めない人定法派なので、アメリカ合衆国独立宣言に基づく自然権派や人権派と対立する。所有権での大きな争いは、『ノートン現代思想事典』に書かれているようにここになる。

 ちなみに、自然権派や人権派は神を認めているので、大きくは自然法派に属す。だから、法思想においては人定法派と自然法派が一番大きな対立軸である。つまり、神を信じるのか信じないのかの問題だ。

 ここで、今後混乱しないように書くと、哲学事典などで正義を考えるときは、まず正義そのものについて考えるわけだから、力だとか公正なのだ分配なのだという定義から始まる。そのあとによく正義論(何が正義の基準かの思想対決)について書かれるのだが混同してはならない。この2つは分けて考えなければならない。ここを見誤るとまるでわからなくなる。

 また、この『ノートン現代思想事典』には、現代の思想を扱っているので、justice(正義)とはそもそも何かとは書いていない。reason(理性)、experience(経験)ものっていない。それは基礎的な哲学事典でやってくれということなのだろう。

 そして、それぞれの基準にもとづいて、正義の女神、ユスティティア(Justitia)のごとく正義判断をする。天秤で公正に利益配分し、力の象徴である剣で強制執行をする。正義に力が必要だということは、多くの人が認めるものだ。それがないと正義は機能しない。しかし、公正な利益配分という問題は、これからも論争の問題となるのだろう。ちなみに、justiceという語は、ラテン語ではそのまま彼女の名のjustitiaである。

 これまで分配的正義(distributive justice)について述べてきたが、これを別の角度から説明する。

副島隆彦著 ぼやき「539」より。

(転載はじめ)

 正と不正の問題というのは、簡潔に言えば、俗世間(世俗社会 セキュラリティ)においては、「利益の分配」と言うことに行き着く。ある人が、正しい人であって、ある人が悪の人であると言うことは無いのである。ある人の行動がすべて善であり、ある人の行動がすべて悪であるということもない。だから、争いごとやもめ事においても、結局、どこかで線引きがあって、それぞれの言い分のや主張に妥当性があるなどと言うことは、大人であればみんな知っている。そうすると、結局は、「利益の配分」ということになる。

(副島隆彦著ぼやき「539」)

(転載おわり)

奥田勝典です。上記の正義についての説明を矯正的正義(corrective justice)というが、これは人間の不正を均等化するという意味である。アリストテレスは、正義を分配的正義(distributive justice)と矯正的正義(corrective justice)の2つに分けている。どちらにせよ、近代以降においては、最後は「利益の配分」に行き着くのだ。

 また、近代以降において、天秤で公正に利益配分するということは、レイシオ思想という好き嫌いなどの価値判断を含まない、比例配分のような冷酷な「お金の計算の思想」のことであると言える。これを別の言葉で言い換えるならば、啓蒙主義以降の合理主義(rationalism)と言い換えれる。これをさらにわかりやすく言うと、近代とは、結局、全てをお金に還元してしまうということなのだ、と言える。

 正義も結局はお金の話なのだ。残念ながらそうなのだ。だから、私は、レイシオ思想を思い切って、「お金の計算の思想」と定義したのだ。大きくは、ここに全てを落とし込むことが出来る。もちろん、比例配分という意味を忘れてはならない。詳しくは、以前私が、「副島隆彦の学問道場」の「今日のぼやき」に書いた、『近代(a modern)への日本の対策と副島隆彦の思想』という論文を読んでいただければ幸いである。

 ここまで書いたことを大きくまとめると、正義そのものは何かと言えば、剣(力)と天秤(公正、均衡)のことであるのだ。その天秤(公正、均衡)の基準を論ずることが正義論である。

 先ほどの『ノートン現代思想事典』の正義の項目のところに、人権派のロールズが功利主義を批判しているが、本文に功利主義についての説明がなかったので説明しておく。この功利主義を理解することは、正義論を理解することにおいては重要である。

 副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章p227 から引用する。

(引用はじめ)

  功利主義(ユーティリテリアニズム)とは、「人間は快楽・幸福を求め、苦痛を避けようと行動する生き物である」という原理であり、この大原理の下に、人間社会は「最大多数の最大幸福」の原理に従って成り立っているとした。

 「功利主義」は、現在も生きている人類史上の大思想のひとつであり、ソシアル・サイエンスの土台である。ベンサムの立場からは、したがって、「法は人間が定めるのであり、何が正しくて(justice正義)、何が善(goodnessグッドネス)であり、何が公平(fairnessフェアネス)であるかは、全てこの地上の現実の人間たちがよくよく議論して決めることであって、予め神や自然の摂理が決めるのではない」となる。

 このベンサムの功利主義思想を、法思想分野に限ったとき、まさしく「リーガル・ポジティヴィズム」となるのである。

(副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章p227)

(引用おわり)

奥田勝典です。私は、ガチガチに論理的に考えると、アメリカ合衆国独立宣言に書かれているようなロックの思想は、それ自体が矛盾しているのだと思う。ロックの自然権は実証できない。何故なら、神の存在が実証できないからである。それらは明白な(positive)ものではないのだ。

 これでは、神学者のトマス・アクィナスが言ったように、信仰と理性は矛盾しないのだと主張しているのと一緒だ。だからこの概念はそれ自体で存在しようとするのなら矛盾し、現実的ではない。また、権利は法から導き出されるものなのに、不可侵の諸権利が最初に自然に存在し、そこから法がもたらされるというのは順序が逆である。

 さらに、副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』p231から引用する。

(引用はじめ)

  リーガル・ポジティヴィズム「法人定主義」の牙城は、歴史的に、ドイツの法学者・法律家たちなのである。彼らは「天」とか「神」とか「自然」が、「人間にこれこれこのように教えた」という言い方を好まない。

 ドイツの哲学者や法学者は昔から、徹頭徹尾ガチガチの理屈言屋であるから、英米人と違ってどこまでも理屈(論理)で押し通そうとする。するとやはり、彼らは「法人定主義」にならざるを得ない。アメリカ人、イギリス人よりもずっとガチガチの論理的な思考をするドイツ人特有の性質にしたがって、ドイツ人特有の性質にしたがって、ドイツの法学者・法哲学者たちは歴史的に、この「法人定主義」(=「法実証主義」派)に属するのだ。

(副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』p231)

(引用おわり)

奥田勝典です。そして、権利も功利から導きだす(人定法という立場では同じであるが、ノージックはこれとは違う)。J.S.ミル著『功利主義論』(世界の名著49)p517より引用します。

(引用はじめ)

  そこで、権利を持つということを私なりに考えると、それを所有したときに社会が保護しなければならないものを持つのである。どうして社会が保護しなければならないのかと尋ねる反対者がいれば、私は、一般的功利という理由を挙げる他ない。

(J.S.ミル著『功利主義論』(世界の名著49)p517)

(引用おわり)

奥田勝典です。そして、この引用部分にある法人定主義(≒ベンサマイト・リバータリアン)の思想がそのまま、私の考える「アメリカのグローバリストに対決をするため」の正義の基準であり、また正義の基準の議論、つまり正義論になります。

 またこれが、日本の近代(a modern)への対策であり、副島隆彦の正義論でもあります。そして、この正義論は『日本の近代(a modern)への対策と副島隆彦の思想』という前述した私の論文に繋がるのである。

 ここで、誤解しないでいただきたいのは、私は、語りえない目に見えないものを信じている人を否定しているのではない。むしろ、私は、沈黙しているだけであって、そういった美しいものを心から愛している。

 「論理実証主義」と呼ばれる学派の創始者であり、20世紀最大の哲学者であるヴィトゲンシュタインが言うように、「およそ語りうることは、明晰に語られうる。そして、言及することができないことについては、沈黙しなければならない」のである。しかし、私も彼と同様に、語りえない美しいものを否定をしたわけでは決してない。ただ、私は、レイシオ思想を持つアメリカ帝国のグローバリストと戦うつもりの愛国者は、レイシオ思想を持たないとその戦いに勝てないと言っているだけだ。

 また、私は、グローバリストとの戦いに勝つには、少なくとも愛国者にとって、このベンサマイト・リバータリアンという思想が必要だと思うから書いているのであって、日本国民全部がこのような思想を持つべきであると言っているのではない。あくまでも、私は、常に「日本の近代(a modern)への対応」として考えています。愛する日本国が生き延びる為に。

 副島隆彦が日本で最も優れた学者である理由の1つがここにある。副島隆彦はベンサマイト・リバータリアンであるので、頭脳戦でグローバリストと互角に戦えるのだ。この副島隆彦の正義論は誤解を受けることもあるだろう。あるいはその思想を好き嫌いで判断するのだろう。しかし、これは日本国を守るための、命運を賭けた戦いなのだ。

 副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』p26より引用する。

(引用はじめ)

  ベトナム戦争では8万から9万人の米兵が死んだが、アメリカは米兵1人に対してベトナム人100人が死ぬべきであると計算した。今回もアフガニスタンで、米兵1人に対して1000人ぐらいのアフガニスタン兵が死ねばいいというレイシオ=比例配分になっているのだと思う。ここには、倫理道徳的、あるいはヒューマニスティックな価値判断は一切関与しないのである。

(副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』p26)

(引用おわり)

奥田勝典です。このように、人命さえもレイシオ思想で考えるグローバリストを嫌いだと思うのは、人間として当然の心理だと思う。しかし、だからこそ彼らは支配者なのだ。国民のたった2パーセントに過ぎない支配者たち。彼らユダヤ人はレイシオ思想を持つ。そして、アメリカの「最大多数の最大幸福」も考える。

 つまり、彼ら支配者はベンサマイト・リバータリアンなのだ。それらをけしからんと考えるのもいいだろう。別に間違った考え方ではない、否、むしろ正しいと言って良い。しかし、そのままでは、日本もアメリカ帝国の属国としてこき使われるままだろう。だからロッキアンの白人は、いくら偉そうに驕り高ぶって、彼らマイノリティーを差別をしても、結局はユダヤ人に洗脳されてこき使われているのだ。

 ヴィトゲンシュタイン、ハイエクそしてノージックもユダヤ人であり、もちろんロックフェラーやロスチャイルドもユダヤ人である。やはり近代資本主義はユダヤ人が創ったのだ。レオ・シュトラウスやネオ・コン派もユダヤ人だが、前述したようにベンサマイト・リバータリアンではない。これは、彼らが上から操られているということを示しているのだ、と私は考えている。今の私にはこれ以上何も言えない。

 先ほど、「人定法という立場では同じであるが、ノージックはこれとは違う」と書いたが、これについて少し説明しなければならない。私が、法人定主義≒ベンサマイト・リバータリアンとして、イクオール(=)にしなかった理由は、法人定主義であるノージックはベンサマイトではないからだ。

 彼の思想は独特であり、ユートピアという思想を持ち、市場から離れて暮らすという考えも否定しない。つまり、功利主義の「最大多数の最大幸福」という考えを持たない。だから、ハイエクの経済的自由主義の標語でもある、レッセ・フェールという思想とも少し違う。ノージックの思想では勝手にコミュニティーを作って、自給自足の非効率な生活も否定されないのだ。

 だから、細かく言えば法人定主義=ベンサマイト・リバータリアンとはならない。しかし、法人定主義≒ベンサマイト・リバータリアンとは言えるし、大きくは、法人定主義=ベンサマイト・リバータリアンと言ってよい。

 それでは、次に、副島隆彦が重要視した、何故、正義の女神ユスティティアは目隠しをするのかという問題だが、私は、公正に配分する為に偏見をなくす為だと思っていた。しかし、副島隆彦はこう書いている。

副島隆彦著ぼやき「539」より転載する。

(転載はじめ)

  裁判官である女神ユスティティアが、争いごとが終わった後に目隠しをはずして、その事実を認めます、という思想なのではないだろうか。(中略)

 ハッキリ言ってしまえば、裁判官と言う人種は、その時々の国家体制や、権力者におもねるような人たちである、ということである。自分たちのようなただの爺さんになった秀才が、政治体制を巡る正しい間違いの判断などできない。だから、局、彼らは目隠しして現実を認めます、というのが本当のところであろう。

(副島隆彦著ぼやき「539」)

(転載おわり)

奥田勝典です。この洞察は、三権分立がなかった頃の話なので権力におもねることになっていたであろうし、近代以降でも実際はそうなりがちなので説得力がある。この考えの方が、より現実を鋭く見抜いているのではないだろうか。

 この目隠しの説は、これまで歴史家により色々な解釈がなされてきて、例えば、偏見をなくす為に目隠しを取ろう、といったような考えもあるようだ。

 ここまで正義(justice)考えて、OXFORD英英辞典に書かれていたことが、こういうことだったのかとやっとわかった。justiceの項目を引用する。

(引用はじめ)

 justice   ①the fair treatment of poople: ②the quality of being fair or reasonable: ③the leagal system used to punish people who have committed crimes:

(OXFORD英英辞典)

(引用おわり)

奥田勝典です。我々に平等な権利と正義を、と言ったときは①だ。アメリカの戦争の大儀における正義は欺瞞だ、といった場合は②である。正義は一種の力だ、などというときは③だ。これを女神ユスティティアに当てはめると、偏見をなくし人々を公正に扱う為の目隠しが①で、天秤が表すfairness(公正)やbalance(均衡)は②であり、剣が表す力が③になる。そして、①の目隠しには諸説があり、②が近代以降の中心的な議論であり、③は割と多くの人が認めているものだ。

 このように、正義(justice)という抽象語には、何と3つの意味があったのだ。これを世界基準では使い分けていたのであり、それが日本人は理解できていなかったのである。

これまで書いたことをまとめる。

 正義(justice)とは、人を公正に扱うこと、公正、力の3つの意味があり、順番に、神話における正義の女神ユスティティアの目隠し、天秤、剣が象徴する。そして、近代以降では、財の分配が正義の基準の論争となり(レイシオ思想)、その判断が公正なのが正義だとされる。

以上である。私は、これで、正義という1つの言葉がようやくわかったと実感する。しかし、私は、やっと、justice(正義)というたった1つの抽象語を理解したにすぎないのだ。

 最後になるが、私がこの論文で述べていることは、細かい点にわたってまで私の独創であると主張するつもりはない。私の思考に多くの刺激を与えてくれたのは、私の先生である副島隆彦の著作であり、これに多くを負っている。

 私がこの論文で成し遂げたいことは、いつも励ましてくださる副島隆彦先生に恩返しをすることであり、また、深く愛する日本のために恩返しをすることである。この論文が、少しでもそれを為しえたなら、それで私は満足だ。

 今、私の目の前に、手垢や赤線でボロボロになった『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』がある。いつものように。

2004年3月10日記 3月27日加筆修正

(引用文献)

副島隆彦著ぼやき「539」(http://soejima.to/boyaki/diary.cgi)
副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』
副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』
副島隆彦編『英語で思想を読む』
レオ・シュトラウス著『自然権と歴史』
J.S.ミル著『功利主義論』(世界の名著49)
ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
アメリカ合衆国独立宣言
OXFORD英英辞典
Natural Right and History By LEO STRAUSS(paperback edition)
The Declaration of Independence the Thirteen Colonies in Congress
The Norton Dictionary of Modern Thought(2nd rev. ed.)

(参考文献)

副島隆彦全著作
ジョン・ロールズ著『正義論』
ロバート・ノージック著『アナーキー・国家・ユートピア』

2004/04/03(Sat)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

「この「第2ぼやき」記事を印刷する」

「49」 カール・マルクスも秘密結社員であったのではないか、という当時からあった、陰謀論者の側からの、追及の本人インタヴュー記事です。貴重な新聞記事です。
副島隆彦です。今日は、2007年6月12日です。以下に載せるのは、1871年という、今から136年前の、アメリカのニューヨークで発刊されている新聞のインタビュー記事です。

 カール・マルクス本人への、突撃取材のインタヴュー記事です。取材した側の、このR・ランドールという記者の方が、何者で、どういう勢力を背景にした人物であるかは、分かりません。
「ザ・ワールド」という当時のアメリカの新聞の性質も、党派性も明らかではありません。 当時のイギリスの政治警察の意を体現した体制側の新聞であったのではないか、と推測できます。

 受けて立つカール・マルクスの方が、かなり苦しい防御戦を強いられていますかが、それでも、しっかりと答えています。
「陰謀などは無いのだ」という堂々たる態度です。彼はロンドンに亡命者として長く滞在しており、ここで死にました。

 この奇妙な、そして貴重な新聞記事を、訳している、山形浩生(やまがたひろお)という人物は、野村総研の研究員をしている(いた?)人で、生来、かなりエキセントリックな人間で、その性格の異常さは、私、副島隆彦も少し知っています。おそらく軽度の精神障害者だと思います。ですから、職場や友人関係でいろいろのトラブルを抱えている人だと思います。生来の優秀な頭脳をしているのだろうが、その偏向した、偏屈な思考は、周囲に、害毒を与える、その標本(ひょうほん)のような人間です。一度は会って、話をしてみたいと思います。  副島隆彦拝


(転載貼り付け始め)

「カール・マルクス  Interview 」

by R・ランドール、訳:山形浩生  hiyori13@alum.mit.edu

(The World、1871 年 7 月 18 日号)

 インターナショナルについて何かを調べ出せ、という依頼に応えて、わたしは努力してきた。この団体は現在、非常に難しい状況にある。

 ロンドンは間違いなくこの団体の本拠地だが、イギリス人たちはおびえており、ジェームズ王が陰謀のあとで何を見ても火薬のにおいをかぎつけてしまったのと同様に、何があってもインターナショナルの関与を疑うような状態になってしまっている。この組織の意識は、公衆からの疑惑に伴って高まった。

 そしてこの組織を導く者たちに何か秘密があるとするならば、かれらこそは秘密をよく守る人間の鏡である。わたしはその指導者級のメンバー 2 人と連絡をとり、1 人と気さくにことばをかわした。そしてその内容を以下にお示しする。わたしは以下のことを得心した。すなわち、インターナショナルは本物の労働者の集団ではあるが、その労働者を導いているのは別の階級出身の社会政治理論家たちである。

 わたしの面会したそのうちの 1 人は、インタビューの間中、工員のベンチにすわり、時々わたしとの会話を中断して苦情を受けていた。その苦情はかれの雇い主である数多くの班長の一人からのもので、遠慮会釈のない代物だった。この同じ人物が雄弁な演説を公衆の前で行うのを聞いたことがある。

 一節ごとに、自らを支配者と称する階級に対する憎悪のエネルギーをこめていた。この話者の一般生活をこうしてのぞき見てから、わたしはあの演説が理解できた。かれは、自分が完全な政府を組織できるだけの頭脳があると自負しているにちがいない。それなにの、ここでのかれは工員というもっとも敬遠される作業に人生を費やさざるを得ないのだ。

 かれは誇り高く繊細であり、それでいながらことあるごとに、小言に対して会釈を返し、猟師が猟犬に下す命令と同程度の文化性しかない命令に対して笑みを返さなくてはならなかったのだ。この人物は、インターナショナルの一面についてわたしにかいま見せてくれた。それは労働の資本に対する蜂起、生産する労働者の享受する中間層に対する蜂起である。

 それは時がきたれば力強く叩きつぶすであろう手であり、そしてそれを計画する頭についても、わたしは以下のカール・マルクス博士とのインタビューのなかでかいま見たように思う。

 カール・マルクス博士はドイツの PhD であり、実際の生きた社会の観察と書物の両方から抽出された広いドイツ的知識を持っている。また、かれが通常の意味での労働者であったことはないと述べておこう。かれをとりまく環境もその外見も、中産階級の裕福な人物のものである。

 わがインタビューの晩にわたしが通された書斎は、才覚をあらわして財を築きはじめた気鋭の証券ブローカーの部屋としても適切なものだったろう。非常に個人的に快適なものとなっており、趣味のよい気さくな人物のアパートだったが、その持ち主についてことさら何かを告げるわけではなかった。ライン川の眺めを描いた立派なアルバムが机の上に広げられ、それがかれの出自のヒントとなっている。

 わたしは爆弾をさがして慎重にサイドテーブルの花瓶をのぞきこんだ。石油のにおいを求めて鼻をならしたが、嗅げたのはバラの香りだけだった。わたしはこっそり自分の椅子に戻り、陰鬱な気分で最悪の事態を待った。

 かれは部屋に入り、わたしを礼儀正しく迎え、そしていまやわれわれは向き合ってすわっている。そう、わたしはあの革命の主導者、インターナショナルの本物の創始者にして指導精神たる人物、資本に対し、もし労働とやりあうつもりなら家に焼き討ちをかけられるであろうという宣言を書いた人物――つまりはパリ・コミューンの弁護人と、サシで向かい合っているのだ。

 ソクラテスの胸像をご記憶だろうか。当時の神への信仰を告白するよりも死を選んだ人間。横顔にあの見事な額のでっぱりを持ち、それが終わりの方で、鼻を形作る団子状に丸まった、切断された鈎のようなものに陰険につながっているのを? この胸像を思い浮かべつつ、ひげを黒く染め、あちこちに灰色を散らしてみるといい。

 こうしてできた頭を、恰幅のいい中背の身体にのせてみよう。あなたの目の前にいるのが博士だ。顔の上半分にヴェールをかぶせると、生まれながらの教区民と言っても通用する。しかし本質的な部分である巨大な眉をあらわにすれば、すぐに自分が相手をしているのが、あらゆる組み合わせ力の中でも最も驚嘆すべきものであることがわかるだろう――考える夢見者、夢見る思考家だ。

 別の紳士がマルクス博士とともにあった。同じくドイツ人だと思うが、英語がきわめて達者であったため、確信は持てない。かれは博士側の証人なのだろうか。そう思う。「評議会」は、このインタビューのことを聞いて、これ以降にその行いについて博士を喚問するかも知れない。なぜなら革命はなによりも己自身のエージェントを疑うものだからだ。するとここにいるのは、かれの補強証拠というわけだ。

 わたしはすぐに本題に入った。世界は、インターナショナルについて五里霧中です、とわたしは述べた。それを非常に嫌ってはいるものの、その嫌悪の対象がいかなるものなのかについて、はっきりとは言えない状態なのです。その霧の中を他の者より深くまでのぞきこんだと告白する一部の者は、そこに二つの顔を持つヤヌスの姿を見たと申しています。

 その一つの顔は、善良で正直な労働者の笑みを浮かべてるが、そのもう一つの顔には血に飢えた陰謀家の歪んだ表情が見えた、と。この理論を根付かせている謎を解明すべく光を当ててはいただけないものだろうか?

 教授は笑った。おそらくは多少の嘲笑もこめていたのだろう、われわれがかくもかれにおびえているということについて。「解明すべき謎などございませんよ」とかれは、非常に洗練されたドイツ訛(なまり)で口を開いた。

 「ただ唯一あるとすれば、人間の愚かしさというものの謎かもしれませんな。われわれの団体は秘密でもなんでもなく、その議事録は一言一句が出版されていて、読みたければだれでも読めるという事実を果てしなく無視し続けるのですから。あなたもわれわれの綱領を一ペニーで購入できますし、パンフレットに一シリングお出しいただければ、われわれが自分で知っているのとほとんど同じくらいのことを、あなたもわれわれについて知ることができるのです。

  ――いま、「ほとんど同じくらい」とおっしゃいました。そ うかもしれません。が、しかしそれでは知り得ない部分が、  一番重要な秘匿部分なのではありますまいか。正直に申し上  げますが、そして外部の観察者が持つ印象に従っていわせてい ただきますが、世間一般にこうしたあなたの主張が割り引かれ て受け取られているというのは、大衆の無知による悪意という 以上のものがあるにちがいないと思われるのです。そして今お っしゃったことのあとで、敢えておたずねするのが不躾でない ならば、そもそもインターナショナルとな何なのでしょうか?

マルクス:それを構成する個人を見ればわかることです――労働者たちです。

  ――ええ。しかしながら、兵士はそれを突き動かす国家体の 具現であるとは限りません。あなたがたのメンバーには何人か 会いました。そしてかれらが陰謀家のような代物でないことは 信じられます。だいたい、百万人の知る秘密はもはや秘密とは 呼べませんから。しかしながら、これらの成員たちが単なる道 具にすぎず、それがもっと強力で、こう付け加えるのをお許し 願いたいのですが、大胆な秘密会議の手に握られているとした らどうでしょう。

マルクス:そんな証拠は一つもないでしょう。

 ――先日のパリの暴動は?

マルクス:まずそもそも何らかの陰謀があったという証明を是非ともお願いしたいものです――あそこで起こったことがすべて、あの時点における状況の必然的な帰結でなかったという証明を。あるいは、そこに陰謀があったとしても、それにインターナショナルが荷担していたという証拠をお示し願いたいものです。

――インターナショナルのメンバーたちが数多く集団で参加していました。

マルクス:ではそれがフリーメーソンの陰謀だとも言えるわけですな、個人として参加していたフリーメーソン会員の数は多大なものでしたから。ローマ法王なら、まさにあの暴動をすべてフリーメーソンのせいにすることでしょう。

 そうなってもわたしは驚きませんがね。しかしながら、他に説明のしようがあるのではないですか。パリの暴動は、パリの労働者によるものです。労働者の中でもっとも有能なものが、その暴動の指導者であり指揮者であったことはまちがいないでしょう。

 しかしながら、もっとも有能な労働者は、同時にインターナショナルの会員でもあったのです。でも、だからといって集団としてのインターナショナルは、かれらの行動にいささかも責任があるわけではない。

  ――でも世間はそうは考えますまい。人々は、ロンドンから 秘密指令が下ったとうわさしておりますし、資金まで出たとも 申しております。インターナショナルの議事の表面上の公開性 を主張なさっていますが、連絡上の秘密すら完全に存在しない のだと考えていいわけなんでしょうか。

マルクス:これまで組織された団体の中で、公開部分とそうでない部分を両方持たずに仕事を行ってきたものなどありませんよ。 しかしながら、ロンドンからの秘密指令などという話は、中央のローマ教皇的な圧制と策謀から真義と道徳に関わる託宣が下されるようなお話ですが、そもそもインターナショナルの性格を完全に誤解したものです。

 もしそれが事実なら、インターナショナルは中央集権化された政治形態を持っているということになりますが、その実際の形態は地域のエネルギーと自主独立性を最も重視するよう設計されているのです。実のところ、インターナショナルは労働階級の政府とすら正しくは申せません。それは組合の連合であって、制御する力ではないのです。

  ――してその組合の目的とは?

マルクス:政治権力の奪取による労働者の経済的解放です。そしてその政治権力を、社会の目標のために行使することです。したがって、われわれの活動はあらゆる労働階級の活動を包含する広範なものでなくてはならない。ある特殊な性格のものにすれば、それを一部セクションのニーズに合わせることになります――つまり労働者だけの国家、ということです。

  しかしながら、少数者の目的を追求するために、すべての人々に団結するようお願いしたりなんかできないでしょう。それをするなら、インターナショナルはその名前を捨てなくてはならない。この団体は、政治運動の形態を指示するものではない。その目的に対して言質を与えるものなんです。

 それは労働の世界津々浦々に広がる、結びあった社会のネットワークなんです。世界の各部分で、問題のそれぞれ別の面が露呈してきて、その地の労働者はそれぞれ独自のやりかたで、自分たちの関心事に対応していくんです。

 労働者の中での組み合わせは、細かいところでは絶対にちがってきます。ニューキャッスルとバルセロナとではちがうし、ロンドンとベルリンでもちがう。たとえばイギリスでは、労働階級にとって政治的な力を示す方法はさまざまに開かれています。平和的なアジテーションが迅速かつ確実に目的を達成できるのに、暴動を起こすなんてきちがい沙汰です。

 フランスでは、何百という抑圧的な法律と階級間の道徳的な反目のため、社会的戦争という暴力的な解決方法が必要となるようですね。その解決方法の選択は、その国の労働階級の問題です。インターナショナルはその点について、指示するつもりはありませんし、ほとんど助言さえ与えません。しかし、そのすべての運動に対して、インターナショナルは共感を寄せ、自分の規定によって課された制限の範囲内で支援をさしのべるのです。

  ――して、その支援とはいかなる性質のものなのでしょう   か。

マルクス:たとえばですね、解放運動のもっとも一般的な形態は、ストライキです。かつて、ある国でストライキが起こると、それは別の国から労働者が輸入されることによって打倒されてしまいました。インターナショナルは、これをほぼ完全に止めました。

 ストの計画を報されると、メンバーたちにその情報を広め、かれらはすぐにその闘争の地が不可侵なものとなるよう手配します。主人たちは、自分たちの雇い人と交渉するしかなくなります。ほとんどの場合、これ以上の支援は必要とされません。

 かれら自身の会費や、かれらがもっと直接的に関わっている社会が資金を供給しますが、かれらへの圧力が重くなりすぎて、そのストライキがインターナショナルの認めるものとなれば、共通財源から必要資金が供給されます。この手段によって、バルセロナの葉巻製造者のストは先日勝利をもって終わりました。

 しかしながら、社会はストライキに興味はありません。ただし、限られた状況下でそれを支持することはありますが。金銭的な視点からいえば、社会がストライキで何かを得ることは絶対になく、むしろ失うことのほうが多いでしょう。一言で要約するとこういうことです。労働階級は、富の増加のなかで貧しいままにおかれ、奢侈の増加の中で窮乏のままにおかれるのです。

 その物質的な欠乏は、道徳的な地位や肉体的な地位をも貶めるのです。それに対して他の者たちに頼ることもできません。このようにして、かれら自身が自分たちに関わる事象を自ら掌握することが、避けがたい必須事項となったのです。

 労働者は、自分たちの内部における相互の関係や、資本家たちや地主との関係を改めなくてはなりません。ということはつまり、社会を変えなくてはならないと言うことです。これが現存するあらゆる労働者組織の最終目標です。

 土地組合や労働組合、交易組織や友愛組織、生協店舗や共同生産は、そこに到達するための手段にすぎません。これらの組織の間に完全な結束を作り出すのがインターナショナルの仕事です。その影響は、あちこちに見られるようになってきています。

 スペインでは二紙、ドイツでは三紙、オーストリアとオランダでも同数、ベルギーでは六紙、スイスでも六紙がわれわれの考えを広めています。さて、インターナショナルのなんたるかを説明いたしましたので、それが陰謀に加担したとかいうお話についてご自分なりの見解をまとめていただけるかと思いますが。

  ――おっしゃることがよくわからんのですが。

マルクス:旧社会が、議論と団結という自らの武器を手にした労働に張り合う力を求めようとして、陰謀集団という汚名を着せるというでっちあげに頼らざるを得なくなっているのがわかりませんか?

  ――しかし今回の一件についてフランスの警察は、インター ナショナルの関与について証明できると宣言していますが。こ れ以前の事件のこともありますし。

マルクス:しかしそうした事件については、よく見ていただければ、インターナショナルに対してかけられた陰謀の嫌疑がいかに浅はかなものかを示しているのだ、ということは言わせていただきましょう。

 この前の「陰謀」話をご記憶でしょう。国民投票が行われると報じられました。選挙民の多くは、判断がつかない状態でした。皇帝支配の価値がはっきりと感じられない状態になっていたんです。皇室が自分たちを守ってくれる対象としての脅威とな危険について、信じられないようになってきたからですね。新しいお化けが必要とされていました。

 それをねつ造すべく、警察が動きました。あらゆる労働者組織が警察には嫌悪を抱いていましたから、警察側としてはもともとインターナショナルに好意は抱いていなかったわけです。ここで警察はうまいことを思いつきました。インターナショナルを悪者にしてしまえばいい。そしてその団体の評判を落とすと同時に、皇帝側の利益になるようにしてしまおう、と。

 このうまい考えから、皇帝の命を狙った陰謀と称するとんでもない代物が出てきたわけです――われわれはあんな哀れな老人を殺したいなどとは思っちゃいないのですがね。

 で、警察はインターナショナルの指導者を逮捕しました。証拠をねつ造しました。裁判のために起訴状をつくり、その間に国民投票を行ったわけです。しかしながら、茶番がただの粗雑なでっちあげなのは、あまりにも明白でした。このスペクタクルを目撃した賢明なるヨーロッパは、その性質について一瞬たりともだまされませんでしたよ。

 だまされたのは、フランスの農民選挙民たちです。あなたがたイギリスの新聞は、この惨めな出来事の最初の部分だけ報道しましたが、その結末を報じるのは忘れてしまったのです。フランスの裁判官たちは、陰謀の存在は対政府サービスで認めたものの、インターナショナルの関与を示すものは何もなかったと宣言するしかなかったのです。今度のも、前と同じなんですよ。

 フランスの小役人がまたもや動いているわけです。世界で前代未聞の市民運動に説明をつけろといって呼ばれてきているわけです。これだけ時代の徴が出てきているんだから、正しい説明がわかりそうなものです――労働者の知性の高まり、その支配者たちの奢侈と無能の拡大、権力がついにある階級から人民へ移行しようとしていること、解放の大運動のために時も舞台も機会も満ちていること。

 しかしながら、これだけのことを見てとるためには、この小役人は哲学者でなくてはならないのですが、現実のかれはmouchard、イヌにすぎません。そしてその存在の法則に則り、かれはイヌの説明にすがっているわけです――「陰謀だ」という。昔ながらの偽造文書の束が、その証明を提供してくれるでしょうし、今回はヨーロッパも、おびえのためにそのお話を信じるでしょう。

  ――それはヨーロッパとしても無理からぬことでしょう。あ らゆるフランスの新聞がそれを報じていますから。

マルクス:あらゆるフランスの新聞ね! ここにもその一例があります(とル・シチュアシオン紙を手にする)。事実関係についてのこいつの報道の価値を、ご自分で判断してご覧なさい。(読み上げる)

 「インターナショナルのカール・マルクス博士は、フランスに渡ろうとしてベルギーにて逮捕された。ロンドン警察はかれが関わっている結社に長いこと目をつけており、いまやそれを弾圧すべく積極的な動きに出ている」文章二つ、ウソ二つ。ご自分の判断で、この証拠を確かめられるでしょう。

 ごらんのとおりわたしは、ベルギーの牢屋にいるかわりにイギリスの自宅におります。また、イギリスの警察がインターナショナルやその関連結社に手出しできていないことはご承知のことと思います。しかしながら、あまりにも通例となっているのが、この報道が何の訂正もなされずに、大陸の新聞を駆けめぐるということなのです。そして、わたしがヨーロッパの全雑誌にここから回状を配ったとしても、それは続くでしょうな。

  ――こうした誤報に対して訂正を試みたことはおありです  か?

マルクス:やりましたが、やがてうんざりしてやめてしまいました。マスコミ連中の信じられないずさんさの例として、たとえばその中の一つでは、フェリックス・プヤットがインターナショナルの会員にされていましたよ。

  ――するとちがうのですか。

マルクス:あんな野蛮な人物の居場所は、インターナショナルにはありませんよ。あの人物はかつて、無遠慮にもわれわれの名前を使って派手な宣言をしてくれましたが、すぐに撤回されました。が、もちろんながら新聞はこの撤回の方は無視してくれましたがね。

  ――ではマツィーニは、あなたがたの一員ですか。

マルクス:(笑いながら)いやいや。かれの思想の枠内にとどまっていたら、われわれはほとんど進歩しなかったことでしょう。

  ――これは驚きですね。わたしはてっきり、かれが一番進歩  的な考え方の代表だと考えていたのですが。

マルクス:かれが代表しているのは、古くさい中産階級共和国の考え方にすぎません。われわれは中産階級とはなんら関係を持つつもりはないのです。マツィーニは現代運動の最後尾にまで脱落してしまい、いまやドイツの教授たちといっしょです。

 かれらも、ヨーロッパでは未だに未来の文化的民主主義の使徒と思われていますがね。まあ、一時はそうでした――たぶん 48 年以前までは。当時はイギリス的な意味でのドイツの中産階級は、まだしかるべき発展をほとんど遂げていませんでした。

 しかしながら、いまやかれらは相対として反動側に行ってしまったので、プロレタリアートとはもはや袂を分かちました。

  ――あなたの結社に実証主義的な面を見ようとする人々もお りますが。

マルクス:そんなものはありません。会員に実証主義者はおりますし、会員ではなくてもいっしょに活動する人々の中にも、そうした者はおります。しかしながらこれはその哲学のためではありませんし、われわれの理解しているような人民政府とも関係なく、古い階級関係にかわって新しい階級関係をつくりだそうとするだけのものです。

  ――すると、インターナショナルの指導者たちは結社のみな らず新しい哲学を生み出さねばならないように思えるのです  が。

マルクス:まさにその通り。たとえば、資本に対する戦いにおいて、もしミルの政治経済学から戦術を引き出すなら、われわれに大した勝利は望めますまい。かれは労働と資本の関係の一種類をたどってみせました。われわれは、別の関係をうちたてることが可能だと示したいのです。

  ――で、宗教は?

マルクス:この点については、社会の代弁者として語るわけには行きません。わたし自身は無神論者です。確かに、このような発言をイギリスで耳にすると驚かれるでしょうが、ドイツやフランスでは公然と述べることができるというのは、まあいささかの慰めではあります。

  ――それなのにこの国イギリスに本部をおいていらっしゃ  る?

マルクス:理由は明らかでしょう。結社の自由は、ここでは確立されています。ドイツでは、存在はしていますが、実際には無数の困難に取り囲まれています。フランスでは、そんな自由は長年存在すらしていませんでした。

  ――ではアメリカは?

マルクス:われわれの主要な活動拠点は、今のところヨーロッパの旧社会の中にあります。いままでは、多くの状況のため、アメリカでは労働問題がすべてを圧倒する大問題とはなってきませんでした。

 しかしながらそうした状況は急速に消滅しつつありますし、ヨーロッパで見られたのと同様、労働階級がコミュニティの他の部分とは別個に成長し、資本から切り離されるにつれて、急速に全面に出て来つつあります。

  ――このイギリスにおいては、あなたが希望なさっている解 決は、なんであれ革命という暴力的な手段に頼らずに実現され るものと思うのですが。演説や新聞によってアジテーションを 行い、少数派が転向して多数派になるというイギリス式のシス テムは希望が持てると思うのですが。

マルクス:その点、わたしはあなたほど楽天的ではありません。イギリスの中産階級は、自分たちが投票の独占を保てる場合には、多数派の審判を受け入れる用意があることを常に示してきました。

 しかしながら賭けてもいいが、中産階級がきわめて重要な問題と考える点について投票で破れたばあい、この国でも新たな奴隷所有者の戦争が起こることでしょう。


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 わたしはこの印象的な人物との会話の趣旨を、記憶できた限り再現した。結論を出すのはお任せする。コミューン運動への関与について、肯定的・否定的に何を言われているにしても、インターナショナルは、よかれ悪しかれ文明社会が自らの中にあるものとして認識せざるを得ない新しい力を持つものであることはまちがいない。


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 Comment:ニューヨークの World 記者R・ランドールによるマルクス・インタビュー。記事は 1871 年 7 月 3 日に脱稿されている。インタビューの間中ずっといっしょだったもう一人のドイツ人紳士は、エンゲルスだったと考えられている。これに先立つことほんの数ヶ月、マルクスも関わっていたパリ・コミューンが流血の末に閉鎖されている。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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「48」 2ちゃんねるの主宰者の西村博之氏の闘い方について、そろそろ私も、本格的に評論しなくてはと思います。副島隆彦
副島隆彦です。今日は、2007年6月8日です。

 以下に載せるのは、全国民的な規模の 情報掲示板に育ってしまって、今やそれを国家権力(政府、自民党、官僚たち)と雖(いえど)も打ち倒すことは出来なくなっている、2ちゃんねるの主宰者(管理人)の西村博之(にしむらひろゆき)氏の発言です。

彼が、表に出てきている姿は私にとっては新鮮です。
 私は、ひろゆき氏 の顔写真をこのようにはっきり見たのは、初めてです。以下の他に、数本の記事を見つけました。

 私は、ひろゆき氏が、今年の一月に、裁判所の差し押さえ命令の判決を受けても、まったく屈服しないで、支援者たちと、海外にサーバーを移したり? して、対抗して、「のれんに腕押し」で対応したのは偉いと思った。

 2ちゃんねるに書き込まれる、勝手な匿名の中傷文の類の投稿の膨大な量を、自分たち管理人の責任にされて訴えられても、自分たちにはどうしようもない、「名誉毀損の規制としての、ネットの発達に対応した、新しい 法律をつくったらいいではないか」とひろゆき氏は反論している。この ひろゆき氏の態度が大きくは正当だと思う。

 2ちゃんは、「ニュース」とかいう、板(スレッド)が、一番、多くの人が見に来る、とか私は、そういうことはほとんど知りません。 誰か、2ちぇんねる 論とか、分析とかをやりたい人は学問道場には、いないでしょうか。

 ひろゆき氏 が、 「ネットは、(規制のメディアと比較して、までまだ)力が無い」 と言っていることに、私も同感だ。私の切実にそう思う。 そういう発言、判断、分析 こそが、これから重要である。

 それでも、私は、 「だからこそ、そろそろ(2008年ぐらいから)、ネットが力をもつのではないか」 と、副島隆彦は、思うようになりました。 誰か、2ちゃんねる論 とか、ひろゆき論とか書く人は いませんか?

 私たちの学問道場の、創立、立ち上げの頃にいた、北島君は、自分自身が西村博之氏と、同格であり、全く同じ時期にネットを始めた同期生である。この日本のネット第一世代の者たちが、私たちの学問道場の、出発点の基礎を作ったのです。今から8年まえのことです。すでになつかしい過去のこととなりつつあります。

 いくら裁判所と言っても、西村ひろゆき氏だけを悪者(わるもの)にして、2ちぇんねるの閉鎖、廃止を狙えばいいとは、考えないだろう。

日本国民のお下品な匿名投稿、流言飛語 体質(落首、らくしゅ、川柳の伝統)の、 陰からガーガー言う卑屈な、国民体質 と、それでも、これが日本の国民言論、世論(せろん)のの本当の有り場所、所在ですから、それを、裁判所(司法官僚)
ごときが、簡単には押しつぶせないと分かっている。

 ここはまさしく、言論の自由の原理が働く場面だから、こわくて、押しつぶそうとは、しないでしょう。社会的な影響力、というものを、彼ら役人は、彼らなりに考えますから。

私は、ひろゆき氏が、裁判の事例で、今から4年ぐらい前に、まとめて8件とかで、合計3億円とかの損害賠償金金の支払いを命令する判決が出た。このことをを報じた新聞記事とかを、私は、どこかに貯めていたのですが、それらが、どこにいったか、今では、分からなくなりなりなりました。

この問題も、私たち自身のネット言論革命にとっても、切実な問題であり、重要なことですから、これからは正面から、論じないといけない。そろそろかな、と私は思っています。

副島隆彦拝


(転載貼り付け始め)

「ひろゆき氏「市民メディアはマスコミに勝てない」

 ネット新聞「JANJAN」の市民記者交流会に、2ch管理人の ひろゆき氏が登場。「市民記者は構造的にマスコミに勝てない」などと率直に語り、会場を驚かせた。

2006年03月13日 12時04分 更新

 「市民記者」によるネット新聞がここ最近、脚光を浴びている。新聞社などの報道機関に所属する職業記者と異なり、広く一般から募った記者が執筆した記事を掲載するスタイルが特徴で、「JANJAN」や「livedoor PJニュース」などが存在感を高めており、韓国の市民記者新聞「Ohmynews」も日本進出を決めた。

 一方で、簡単に記事を公開できるブログの普及が進み、国内最大規模の匿名掲示板「2ちゃんねる」(2ch)も健在だ。あえて「市民記者」をうたわなくても、誰でも手軽に情報発信する環境は整った。実際にブログを活用して活動するジャーナリストも登場してきている(関連記事参照)。

 ブログ時代の「市民メディア」の役割とは――このほど都内で開かれたJANJAN市民記者交流会で、編集委員や市民記者が議論を交わした。ひろゆき氏こと2ちゃんねる管理人・西村博之さんも遅れて参加。「市民記者は構造的にマスコミに勝てない」「ブログや2chのリンク集で十分」などと率直に語り、JANJANの市民記者や編集者に衝撃を与えた。

パネリストは、左から武蔵大学講師でJANJAN編集委員の松本恭幸さん、元沖縄タイムズ記者でJANJAN市民記者の比嘉康文さん、フリーライターでJANJAN市民記者の山本ケイさん、西村博之さん、元TBSキャスターで市民メディアアドバイザーの下村健一さん、市民メディア「ツカサネット新聞」元編集長の木佐芳男さん、JANJAN編集委員の須田春海さん

 JANJANは2002年にスタートしたネット新聞。マスメディアのフィルターを通した二次的な情報ではなく、事件の当事者自らが発言するメディアを目指してきた。

 記者登録すれば、誰でも実名かペンネームで記事を書ける。記事は編集部で編集し、事実確認や文章の校正などを行ってから掲載する。原稿料は支払っていない。

 現在の月間ページビュー(PV)は約400万。登録記者数は約3000人で、編集委員は24人。収益は広告でまかなっているという。

 編集委員の須田春海さんは「ブログが出てきて個人が自分でメディアを持ち、Google検索で欲しい情報も得られる今、我々は何をすればいいのか」と問題を提起する。投稿記事を先にブログに公開する市民記者もおり、対応に苦慮しているという。

 また、市民記者の投稿記事は、マスコミが流した情報に関連する二次的な情報が多く、当事者発信メディアになり切れていないことも悩みだ。


「市民メディアはマスコミに勝てない」

 JANJANへのアドバイスを求められたひろゆき氏は、投稿に記者登録が必要なことや、編集者の手を入れて記事のクオリティを高めていることで、投稿へのハードルが高くなっていると指摘。当事者が参加しにくくなり、マスコミ的にならざるを得ないと話す。

ひろゆき氏 「2chに当事者が多く、マスコミに少ないのは、単純に数の問題。ある新聞の記者が1000人いるとして、2chのユニークユーザーは1000万人。参加者が当事者である可能性は高くなる」(ひろゆき氏)

 「JANJANがハードルの高さを存在価値とするなら、マスメディア側にいくしかない。しかしマスメディアには、取材費用をもらえ、毎日物を調べているだけでご飯を食べられる人がいる。市民メディアはそうではなく、兼業の人が多いから、市民メディアは構造的にマスメディアに勝てない。ならばやらないほうがいいと思う」(ひろゆき氏)

 当事者が必ずしも情報発信したがらない、という問題もある。「例えば事故を起こした人は、わざわざネットに情報発信するより、慰謝料でおいしいもの食べた方がいい」(ひろゆき氏)

 それでも当事者による発信メディアが必要なら、「2chやブログのリンク集でいい」とひろゆき氏は言う。「2chやブログが既にネット上にある。その中から編集者が面白い記事を適当にピックアップして載せればいい」(ひろゆき氏)


● ニュース
「2ch.net」ドメイン差し押さえ?

 ZAKZAKによると、2ch管理人・ひろゆき氏の財産の仮差し押さえを債権者が申し立てた。対象は「2ch.net」ドメインにまで及ぶ見込みという。

2007年01月12日 14時34分 更新

 ネット界激震!! 賠償命令を無視し続けてきた日本最大の掲示板「2ちゃんねる」(2Ch)の管理人、西村博之氏(30)の全財産が仮差し押さえされることが12日、分かった。債権者が東京地裁に申し立てたもので、対象となるのは西村氏の銀行口座、軽自動車、パソコン、さらにネット上の住所にあたる2Chのドメイン「2ch.net」にまで及ぶ見込み。執行されれば掲示板の機能が一時停止するのは必至だ。

 12日午前、仮差し押さえを申し立てたのは、西村氏に対して約500万円の債権を持つ東京都の会社員の男性(35)。

 男性は2Ch上で自身や家族の実名、住所を晒され、「人間の屑」「ネットストーカー」などと誹謗中傷されたため、昨年8月、管理人の西村氏を相手取り、東京地裁に書き込み者の情報開示を求める申し立てをした。

 西村氏が出廷してこないまま同9月に開示を命じる仮処分が出たが、何ら対応が得られないため、間接強制で1日5万円ずつ制裁金を科すこととなった。それでも西村氏の法廷無視は続き、決定から100日を経て債権は500万円に膨れあがった。

 夕刊フジ既報の通り、西村氏は一切の賠償命令を意識的に無視し続けている。昨年11月の講演会では「子供の養育費の踏み倒しと同じ。賠償金を払わせる方法はこれ以上ない。イヤなら法律をつくればいい」と強弁した。

 強気の背景には、何ら差し押さえられるはずがないという自信があるとされる。西村氏には固定資産がなく、給与の流れも不明なので、一般的な差し押さえは無理。弁護士が銀行口座を探り当てるなどしてきたが、西村氏も海外に資産を移すなど対抗策を講じてしまい、どの債権者も手をこまねいているのが現状だ。関係者によれば「(西村氏は)時効成立まで逃げ切るつもり」だという。

 男性も西村氏が所有する軽自動車の標識番号や銀行口座など、差し押さえられるものを何とか突き止めた。申し立てに際して周囲から「返り血を浴びる」「またネットでたたかれる」とたしなめられたが、「年収は1億円」とさまざまな媒体で放言する西村氏を見て意を決した。

 「被害者はみな、高い弁護士費用をかけながら賠償金を取ることもできない。当の西村氏は悠然と賠償命令を無視して億単位を稼ぎ、『賠償金が取れない法律に問題がある』と開き直っている。だから恨み言や批判を言うのはやめて、法律にのっとって被害者の痛みを少しでも知ってもらう」

 今後、西村氏の異議申立期間もあるが、これまでと同様に出廷しない場合、早ければ再来週にも強制執行が始まる。

 今回の仮差し押さえは、西村氏個人はもとより、1000万人ともされる2Chユーザーにも大きな影響を及ぼす公算が大きい。東京地裁の「値段がつくものは差し押さえ可能」との判断から、「日本国内では前代未聞」(ドメイン登録機関)とされるドメインの仮差し押さえも行われるからだ。

 手続きが進んでドメインの所有権が移り、2Chというサイトがネット上の住所を失ってしまうと、ユーザーが従来の「2ch.net」にアクセスしても、何ら閲覧できなくなる。

 運営側が掲示板の継続を望むなら、新たなドメインを取得して全システムを引っ越す必要があるが、「2Chはリスクを分散するため、50台ものサーバーが各自独立しており、全体を統括するサーバーがない。データの書き換えは容易でなく、引っ越しに2週間は必要だろう。さらに新ドメインを周知するのが大変だ」(IT業界関係者)。

 男性は「西村氏の収入源は2Ch上の広告なので、すぐに新しい掲示板をつくるだろうが、いたちごっこは望むところ。次は自分以外の債権者が同じ手段に訴えてくれるはず」と、泣き寝入り状態にある全国の債権者に共闘を呼びかける。

 元旦から全国紙に登場するなど注目度満点の西村氏だが、新春から手痛いしっぺ返しを食らうことになった。

(転載貼り付け終わり」

副島隆彦拝
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