「異常事態」発生。コードネーム「Podam」の読売新聞で、『在日米軍基地 米軍と国連軍、「2つの顔」の80年史』という本の書評が掲載された。

かたせ2号 投稿日:2024/04/29 18:53

かたせ2号です。

今月(2024年4月)、読売新聞のサイトに、表題の本(2024年1月発刊)の書評が掲載された。
本の内容からして、掲載されたことが異常事態である。
ワタシはまだ読んでませんが、まず書評を引用します。ご参考ください。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/reviews/20240408-OYT8T50060/
(2024年4月12日掲載)

(引用開始)
『在日米軍基地 米軍と国連軍、「2つの顔」の80年史』 川名晋史著
評者:遠藤乾(国際政治学者・東京大教授)

新書だが、読後感がずしりと重い。史料に基づき、日本のあり方を「基地」からあぶりだす。
図式的に言えば、戦後日本は、憲法9条をもって平和主義を掲げ、国際政治の暴力的な側面を米国に外部化し、そのコストを沖縄に押しつけてきた。在日米軍基地は、戦後「国体」の象徴でもあり、実体でもある。

一般的なイメージでは、そのコストの代わりに、いざというとき米軍が日本を守ってくれると観念される。しかし、米国が公式に認めるのは、米軍基地(+周辺)と米兵(+家族)の防衛だ。

本書は、さらに進んで、いくつかの重要なことを明らかにする。もともと、日米安保体制では、表の条約に裏の帳簿が付随し、秘密外交の影がちらつく。その「裏」が容赦なく可視化される。

まず、横田や嘉手納など米軍基地は国連軍基地でもある。もともと連合国軍が占領軍としてやってきたところ、朝鮮戦争の際、国連安保理の決議を受けて米軍主体の有志連合軍が立ち上がり、それが国連軍を自称して、いまなお日本に駐留する。複雑だが、要は、米国がいつでも国連の旗を使い、いつでも友軍を在日基地に迎え入れ、極東に軍事作戦を展開でき、そのために日本と「事前協議」する必要はないということだ。

この国連軍は、サンフランシスコ条約に法的始原があり、仮に日米安保条約が破棄されても、朝鮮半島の南北和解がない限り、日本政府の手の届かないところで、そこにあり続ける。

また、国連軍は多国籍軍である。米英豪仏比などで構成し、はなから戦後日本は多国間安全保障の枠組みのもとにあった。その枠を有効利用し――あるいは隠れ 蓑みの に使い――現在は対中シフトを敷いて、同志国との軍事連携が進む。沖縄の普天間、嘉手納、ホワイトビーチは、実態は米軍基地だが、その行動の自由のために、沖縄返還に先立って国連軍基地とされ、なかば永続化する。

叙述は平易だが、日本政治の根本をえぐる良書。手に取っていただきたい。(中公新書、1210円)
(引用終わり)

かたせ2号です。
このような、米軍が米軍と国連軍の2つの顔を使い分けて日本に駐留してきた経緯、実態、そして動機とを活写する本の書評が、「Podam」読売新聞に掲載されたのは異常事態である。

さて、ワタシがここで述べている「Podam」とは何か? 
読売新聞および日本テレビを率いた正力松太郎のコードネームである。

ここで、どらえもんさんの小説「銀白色の涙」から引用する。
以下で記述された事実からすると、やはり、起こり得ない異常事態が実際に今月(2024年4月)に起きているのだ。
読売新聞読者が読むのだから、この書評の影響力は案外に大きいと思う。

https://ncode.syosetu.com/n8122gs/29/

(引用開始)
CIAが作った放送局と“原子力の父”

日本がまだ連合国軍総司令部(GHQ)の統治下だった1951年10月、日本で初めての民間放送局となる大日本テレビの免許申請が電波監理委員会に提出された。提出したのは、黄泉売新聞社長の正力松太郎。いわゆる“大正力”である。第二次世界大戦開戦時に大政翼賛会総務で小磯内閣顧問だった正力は、A級戦犯として巣鴨拘置所に収容され、公職追放により貴族院議員を失職した。しかし、1947年9月、不起訴となり、岸信介らとともに釈放されていた。

大日本テレビは、日本の独立から3カ月後の1952年7月31日、NHKに先駆けて日本で初めての放送予備免許を受けた。GHQが実質審査を終えていたためで、その後ろ盾がCIA(米中央情報局)だった。

2000年以降に次々に米国で公表された外交文書によって、当時、巣鴨拘置所に収容されていたA級戦犯のうち10人がCIAのエージェントとなって米国に協力することを誓い、釈放されたことが明らかになった。正力も名前が明らかになっているCIAエージェントの一人だ。

米国立公文書記録管理局が公表した外交文書によると、CIAがつけた正力のコードネームは「podam」。英語で「我、通報す」という意味だ。冷戦下で、旧ソ連や中国との対立を深めていた米国は、日本を反共産主義の砦とするべく正力の黄泉売新聞(コードネームPOBULK)と大日本テレビ【=日本テレビ】を通じて「反共親米」に日本国民の意識を導く情報操作作戦を行った。作戦名は「Operation Podalton」。「Podalton」は、大日本テレビのコードネームだった。大日本テレビは、開局時の放送機材をすべて米国から輸入したため、免許では先んじたものの、実際の放送開始は、国産で放送機材を揃えたNHKの半年後だった。

正力がCIAの非公然工作に協力していたことは早稲田大学の有馬哲夫教授が、週刊新潮2006年2月16日号で、米国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにしている。

正力の名前は、当時CIAが行ったもう一つの作戦でも登場する。作戦名は「KMCASHIR」。日本に原発施設をプラント輸出するため、広島、長崎への原爆投下で強く印象つけられている日本人の原子力に対する恐怖心を取り除くよう正力率いる黄泉売新聞・大日本テレビグループのメディア力を使ったプロパガンダが展開された。それはまさに、原発安全神話の啓蒙活動だった。

1955年当時、正力に接触したCIAエージェント(富士基地所属)は、アイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」計画に基づいて、正力が原子力の安全性と反対する共産主義活動家の排除に関して長期的なキャンペーンを「グループの全力で行う」ことに同意したと7月5日付の公電で本国に報告している。正力は1955年11月から6週間、東京で黄泉売新聞グループ主催の「平和のための原子力展示会」を開催。初日にはアイゼンハワー米大統領のメッセージが届いた。主催者発表で37万人をあつめたイベントは、黄泉売以外の新聞、テレビでも大きく報じられた。11月17日付の正力からアイゼンハワー大統領に宛てた感謝レターもCIAの公電とともに公表されている。

1955年2月に衆議院議員に当選した正力は、保守合同で11月に誕生した第三次鳩山内閣で北海道開発庁長官兼原子力担当大臣として入閣。翌年の原子力委員会(1月)、科学技術庁発足(5月)に伴い初代の原子力委員長、科学技術庁長官となった。1957年7月、第一次岸改造内閣で4代目の科学技術庁長官にも就任し、原発推進の姿勢を貫いた正力は、“原子力の父”とも呼ばれることになる。大臣就任後に、正力のコードネームに「POJACKPOT-1」が加わった。CIAにとって自ら進んで米国の利益に貢献する正力は、まさに大当たり(JACKPOT)だった。

1956年1月4日、初代原子力委員長に就任した正力は、初会合で日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。これに対して、後にノーベル物理学賞を受賞する原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。
(引用終わり)

以上