「2052」 映画『マルクス・エンゲルス』を見た感想を書きます(第3回・全3回) 2018年6月14日
 副島隆彦です。今日は2018年6月14日です。

(第2回目からの続きです)

 映画『マルクス・エンゲルス』の話の第3回目です。

 かつて、ロシアや中国でやった残虐な大量殺人を、国家がやった事実を乗り越えて、克服していく新しい人間たちの運動でなければいけない。今の中国はだま共産主義体制だ。不思議な話で、労働者のための国家体制だ、というのに、実際は政治弾圧がある。この奇妙さと不思議さが、今の世界だ。

 中国には労働組合がはない。なぜなら、「労働者階級(ワーカーズ・クラス workers class )が勝利して解放された社会、国家だからだ」と、説明している。これはウソで、虚偽だ。そういう社会(国家)は、この地球上にまだ存在しない。 中国には地下労働組合というのがあって、中国の企業、会社、工場にも、そういう動きがある。

 すると、マルクスの生誕地であるトリーアを詣(もう)でる、巡礼(じゅんれい。プルグリメッジ pilgrimage )するのは、ある程度お金持ちになった、頭のいい学識のある中国人の若者たちで、知的な人たちが、複雑な気持ちでマルクスの聖地を訪れているのだ。ここが奇妙な感じだが、今という時代だ。

マルクス主義(共産主義)も、宗教なのだ、宗教の一種なのだ、と、私、副島隆彦が、15歳の時からの自分を振り返って、丁度、この50年間を掛けて、到達した 考え に、他の人たちも、どうせ、至りつくしかない。

 『独仏年誌』がパリで再び、弾圧されて、発禁処分になった。マルクスたちは、フランス政府からもにらまれて、パリから追放処分になった。それが1845年の1月です。マルクスは、まだ26歳だ。その様子が描かれていた。「24時間以内にパリから出ていけ」というフランス政府の命令が出た。それでブリュッセル(Brussels)に移った。


ブリュッセル

 私は、3年前にブリュッセルに行った。ベルギー人たちは、大きくは、ふたつの言語国民に、分裂していた。南のブリュセルあたりは、公然とフランス語をしゃべっている、と分かった。ワローニャ語と言う。ワローニャ語って何ですかと、現地で聞いて、私は、ついに確認した。ほとんどフランス語だ、と。

長年、自分が分からなかったことが、現地に行くと、実に、簡単に、解明、氷解する。ベルギーの北のほうは、これが国語( ナショナル・ランゲッジ)なのだが、フラマン語を話している。ベルギー人は、フラマン語を話して、フラマン語で、生活をしなければいけないことになっている。
フラマン語って何だ、としつこく聞いて回ったら、それは、ほとんどオランダ語のことだった。

ベルギー人の 庶民たちは、フラマン人で、フラマン語(ベルギーフランス語)を話している。これはほとんどオランダ語だから、オランダ人(ホーランダー)と同じだ。オランダ独立戦争を戦ったのに、あとで、フランス国王(アルバ公が、最高司令官)によって、カトリック側に取り戻されて、フランスの家来になった都市国家の連合体が、ベルギーだ。

 その 分水嶺が、北部の中心のアントワープ(アントウエルペン)で、ここでは、金持ち階級、裕福な階級は、「家の中では、フランス語を話しているのよ」と教えてもらった。そういう国なのだ。

ブリュッセルに行ったら、カトリックだから、日曜日は、厳格に慣行旅行用の土産物やも洋服屋も、全部閉まっている。不便だった。 オランダは、プロテスタントなので、そういうことがなくて、日曜日も街路のお店がずらっと開いていた。

 ベルギーという国は、ヨーロッパ全体のへそで、ブリュッセルにEUの本部がある。言語の壁なんかもう越えているというか、国家のものが、どうでもよくなっているようなおもしろい国だ。日本でいえば京都みたいなところだ。どこか威張っているけれども、わけがわからんみたいな、「国家なんかどうでもいい。実際の行政(ぎょうせい。すなわち、ゴミ収集とか福祉とか、交通機関とか )は、それぞれの都市ごとにきちんと動いているから」という国だ。

 どうも、ベルギー王家が、もの凄い財力を持っていて、国家を、隠然と裏から支配しているようだ。
レオポルド家というのか。アフリカのど真ん中のコンゴのあたり一帯で、相当に、残虐で、悪いことをした王家だ。金とダイヤモンドを掘り尽くして、全部、本国に持って帰ったようだ。この事実は、タブーになっていて、ヨーロッパでも言ってはいけないことになっているようだ。

 しっかりした知的な、アメリカ人もヨーロッパ人も、このことを言って、ブリュッセルのヨーロッパ官僚、と 欧州議会の議員たち( 彼らは、どうも各国の 貴族様たちの血筋の人たちのようだ。表面上は、リベラルな感じの若い人たちなのだが)は、嫌われてる。 この辺りに、今のヨーロッパの隠された、大きな秘密がある。 

 ブリュッセルは、パリから斜め上のほうに、北東に、300キロぐらい行ったところだ。だから政治活動家が、ブリュッセルまで逃げれば、もうフランスの警察は追いかけてこない。


ベルギー

 ここにマルクスは、何年いたか。3年ぐらいいる。30歳までだ。この映画では、もう最後のあたりはいいかげんにはしょってあったが、このブリュッセルに移ったあたりの描写はほとんどなかった。

 エンゲルスも一緒にブリュッセルに移動している。それで、この年と次の年で、1846年(30歳)までに、『ドイッチェ・イデオロギー」” Die deutsche Ideologie)” という本を2人で書いて出した。

 その次の年、1847年に、さっき言ったように、ピエール・プルードンという、フランス社会主義者の大物を、批判した『哲学の貧困』という本を書いてフランス語で出した。

 この後、1847年6月にロンドンで、初期のヨーロッパの労働組合運動である「正義の人同盟」から、発展した、というか、分裂した形で、「共産主義者同盟」 der Bund der Kommunisten、The Communist League という組織を設立したということになっている。実際は、大して大きくない組織だ。
それでも、意気盛んで、自分たちが、当時のヨーロッパで、すなわち、世界で、一番、先鋭な、最先端の人間たちなのだ、という気迫と 自信に溢(あふ)れていた。

 このときの様子が、この映画で克明の描かれていた。これに私は感動した。 私は、初めてわかったのだが、やはり 義人同盟(リーグ・オブ・ジャスティス)、さっき言った「正義の人同盟」というのが、労働組合の、ヨーロッパ全体の、中心で、これの親分、組織者に、私は、一番、感心した。この人が、本当は、一番偉いのだ。 

  実に 賢い老練な、熟練労働者たちの中の、不屈の意志をもった、それでも穏やかな思想の、頭いい人たちがやっていた、ヨーロッパの初期の労働運動だ。これをマルクスたちが、ロンドンで、乗っ取る形で、つくり変える形で、勝手にマルクスたちが共産主義者同盟という名前を名乗ってしまった。このあたりは、過激派で知識人である マルクスのよくないところで、穏やかさがない。

 だから、ロンドンでこういう運動が始まっていたのだ。ロンドンの「義人同盟」の支部を、マルクスたちが、乗っ取ってしまったということで、これが真実だったと思う。このことに、私、副島隆彦は、鋭く気づいた。 日本人の左翼知識人たちは、この映画を見ても、ここまで分からないだろう。

 この1847年の11月(マルクス29歳)に、実際に、エンゲルスとマルクスが、出来たての共産主義者同盟に出席していると言ったって、こんなもの100人ぐらいしか人が集まっていない小さな集会で、その中でどなり合いの大げんかをやるのだ。これが左翼たちの伝統だ。


共産主義者同盟の会議が開催されたロンドンのレッドライオン・ホテル

 1847年の11月、このときにマルクスもロンドンに行ったということです。エンゲルスは相変わらずマンチェスターの、自分のお父さんの経営している大きな紡績工場を経営したり、またロンドンに出てきたりしている。

 そして次の年、ついに、1848年2月22日、パリで大きな暴動が起きた。街頭に何万人ものの労働者と、不満分子たち、そして不遇な知識人たちが、出て、バリケードを作って、石を投げて、騒乱状態を起こした。 彼らは、おそらく2週間ぐらいで、敗北して、軍隊にたくさん捕まった。軍隊の銃弾に当たって死んだ者も数百人出ただろう。パリで激しい戦いがあった。これを「(パリ)2月革命」という。 

このときのフランスは、ルイ=フィリップという政権だ。その33年前の1815年に、ヨーロッパ皇帝にまで自力でなったナポレオン・ボナパルトが、敗北して、追放された。その後に、フランソワ・ギゾー(François Guizot、1787-1874年)と、アドルフ・ティエール(Adolphe Thiers、1797-1877年)というあくどい政治家たちの政府が出来ていた。

 彼らは、どこの国にもいそうな、あくどい現実政治家で、日本にも今もそういう、安倍晋三みたいなやつらがいる。こういう連中が動かしている軍隊や警察と、ぶつかって、民衆側は、負ける。負けるのが当然だ、というぐらいに負ける。今でもそうだ。

 これが2月革命だ。この1カ月あとに、ウイーンで、3月革命という 大きな暴動が起きた。 ヨーロッパの当時の中心は、パリとウイーンで、ウイーンが、西暦1200年代以来、ハプスブルグ家が支配する神聖ローマ帝国の帝都(ていと)だ。だが、そのあと300年ぐらい掛けて、フランスのパリの方が、「花の都」で、ウイーンよりも繁栄した。

 暴動(革命)が、鎮圧されたあとも、民衆と 国家権力 の にらみ合い状態がずっと続いた。パリの貧乏大衆というか、労働者たちも、これからはもう、黙っていないぞという感じだった。この雰囲気が、ヨーロッパ中の都市に、伝播(でんぱ)、広がって行く。ヨーロッパ中の大都市で、翌年、1849年までに、民衆の暴動が起きた。すべて鎮圧されたが。だから、1848年を、「ヨーロッパ(全体)の革命の年、と世界史で言う。


フランソワ・ギゾー


アドルフ・ティエール

 このパリの民衆暴動、2月革命のさなか、2月28日にマルクスたちが書いたのが、『共産党宣言』という32ページのパンフレット(小冊子)だ。 これは「 今、ヨーロッパを一つのお化け、亡霊がうろついている。共産主義という亡霊が 」という恐ろしい言葉で始まっている、有名なパンフレットです。


『共産党宣言』

 これがロンドンで出版されて、それがヨーロッパ中にどんどん、労働者から労働者に運ばれて読まれていった。 そういう政治パンフレットというものの恐ろしさが、言論の自由というもののすごさで、だから、マルクスという人は、この時、本当にヨーロッパ全体で、有名になっている。このときが30歳だ。

 マルクスはベルギーにいたけれども、パリに密かに来たりしている(追放処分への違反だ)。この時代は、24人乗り乗り合い馬車( Bus 、ブス)から、急激に、蒸気機関車の鉄道が、引かれ始めていて、大きな都市と都市の間は、どんどん鉄道になっていた。この鉄道という、当時の、ヨーロッパが獲得した、最新の交通、輸送手段のことを、誰も、日本人は、書かない。あまりにも当たり前、ということで、現地のヨーロッパ人の知識人たちが、本に書かないものだから、日本人が、分からないのだ。

 マルクスは、すでに、ブリュッセルの政府からもにらまれて監視下に置かれている。公安警察に、ずっと住所を監視されて、追われていたと思う。パリに戻ってきているけれど、パリに戻ったといったって、これは密入国だ。パリからの追放命令が出ているいるわけで、パリに住む権利がない。


1848年の革命(諸国民の春)

 今度は、3月にウィーンで暴動が起きた。これがウィーンの3月革命だ。重要なことだから繰り返し書くが、この2月、3月革命を中心に、ヨーロッパ全ての都市で、この年と翌年まで、次々と、連鎖するように、蔓延(まんえん)するように、暴動が起きた。 

 この大きな事実を、歴史学者たちが、歴史の本に書いていない。ヨーロッパの主要な都市全てで、労働者たちが暴れて、騒いでいた。 そこに不満分子の都市の若者たちが加わって、鉄砲まで持ち出して、警官隊や軍隊とぶつかった。 2週間ぐらいで潰されてしまうのですが、そういう都市暴動があちこちでたくさん起きていた。

 このことを日本では教えないことになっている。だから、左翼知識人(急進リベラル派)たちでも、知らない。これが、「1848年のヨーロッパ革命(諸国民の春)」というものだ。
 このとき、マルクスはちょうど30歳。ハンガリーでもベルリンでも、3月ごろ暴動が起きている。

 当時、ウィーンの首相だった クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich、1773-1859年)と、この男の、パトロンだった ロスチャイルド家の、ウィーン分家の親分の   ・ロスチャイルドも、命からがらウィーンを脱出して、逃亡して、パリへ、そしてロンドンに逃げた。それぐらい民衆の暴動はすごかった。


クレメンス・フォン・メッテルニヒ

 3月20日には、ドイツマン南部の、バイエルン国(ババリア)の首都ミュンヘンにまで暴動が波及しました。ところがこれも鎮圧された。4月には、マルクスはケルンにパリから移動している。ケルンで、1844年?に、『ライン新聞』を出していた運動にマルクスは、26歳?で加わった、と、前の方で書いたど、今度は、自分が中心になって、『新(しん)ライン新聞』というのをつくり始めた。

 彼らは、知識人、思想家ですから、民衆と一緒に暴動に参加して暴れるということはしなかった。それよりも、民衆に読ませるためのパンフレット、政治的なアジテーションの本や冊子を、どんどん印刷して、出版した。新ライン新聞 と言うけれども、毎日出る、商業新聞ではない。そうやって、民衆の理論的な支柱になっていく。これを、マルクスは、64歳で死ぬまで、ずっとやったのだ。これが、政治知識人というものの生き方だ。

 次の年、1849年5月には、このケルンの『新ライン新聞』も発禁処分になって、弾圧されて出せなくなる。6月にはマルクスは、3度目のパリに密入国できている。地下生活というか、友人たちのところを逃げ回っているわけだ。この感じが、いかにも政治活動家だ。 

 そして、2カ月後の8月には、マルクスは、ロンドンに亡命した。 1849年8月、31歳だ。この後、奥さんのイェニーと家族が、ぞろぞろとロンドンに来た。以後、64歳で死ぬまでの33年間、ずっとロンドンで暮らしている。貧乏しながら、エンゲルスから経済的援助を貰(もら)いながら、マルクスは、住所だった害ハイゲート街(ストリートの、中流家族の住む住所から、遠くない、大英博物館の図書館に毎日通って、ヨーロッパ各国の経済現象をずっと調べた。 やがて経済学理論を大成した『資本論 第1巻 』 ”Das Kapital ” 「ダス・カピタール」 という本を書いて出した。1964年、46歳の時だ。


『資本論』

 だから、マルクスは、31歳から後は、ずっとロンドンにいて、もう、死ぬまで動かなかった。マルクスは、ひたすら「資本(キャピタル)というものの法則」を研究するということを死ぬまでやり続けた。

 だが、『資本論」を出した同じ46歳のときに、ジュネーブ、ロンドンで国際労働者協会というのをつくた。 International Worker's ( もしくは、Labourer’s )Association という。これが、別名、「第一インターナショナル」だ。このヨーロッパ全体をつなぐ労働運動をつくって、ここで、マルクスは、「万国の労働者、団結せよ!」 ” Workers of the world, unite! ” という思想を作った。

 これを、マルクスが46歳のときにつくったのだ。労働者の頭のいい人たちと結集して、できた。でも組織としてはそんなに大きいものではなかった。ただ、思想・知識・学問としてのマルクスの研究が、次第に、ヨーロッパ中で認められていった。

 しかし、この国際労働者協会、第一インターナショナルというの中に、バクーニン派とプルードン派がいた。マルクスは、バクーニンと大げんかをした。 バクーニンは、すぐに若者たち、1000人、2000人に銃を持たせて、警官、軍隊と武装闘争をやる、と言って騒ぐんですね。マルクスは、それは無謀だから、やめろやめろと。また、負ける。今は、しっかり力を蓄えるときだ、と。民衆がすぐに蜂起、暴力闘争を、すればいいというものではないんだ、と言って、マルクスは、一所懸命に押しとどめる立場だった。

ところが、いつの時代にも、跳ね上がり分子というか、勝手に過激になる、前後の見境(みさかい)のない、過激派、というのはいる。このバクーニン派が、いつも、暴力闘争を、会議で、言い続けるものだから、折角の、大切な、第1インターナショナルは、内紛で、十年後?には、潰(ぶつ)れてしまった。
内部崩壊だ。 決してヨーロッパ中の政府からの弾圧で潰れたのではない。

 「労働者と資本家の間の非和解的な対立」 というのは、この地上から消えないものだ、ということをマルクスが発見して、はっきりさせた。これが、マルクスが、ロンドンに亡命してきて、すぐの、1849年(31歳)に書いた『賃金労働と資本』だ。 だから労働者、従業員 と 経営者、資本家との戦いというのは永遠にあるんだということをはっきりさせた。

 このことの意味を、人類は、これからもずっと、考えていかなければいけない。そういう重要な原理だ。 いくら、顔を背けて、そんなものは、自分は認めないと、保守派の人たちが言っても、それでも、原理だから、ずっと人間世界に、存在する。

 適当に、経営者と従業員(労働者)が、仲直りして、仲良くやって、従業員、サラリーマンも適当に幸せになりますように、という甘い考えで世の中はできていない。

 マルクスがロンドンに来て、21年目(52歳)のとき、1870年に、普仏(ふふつ)戦争、すなわちプロシア(ドイツ)とフランスの間の戦争が起きた。フランス軍は、ビスマルクが作った精鋭のプロイセン軍にすぐに、ぼろ負けに負けた。このとき、プロイセン軍の電撃作戦(でんげきさくせん)で、前戦にまで出てきていた、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)という首相(大統領も名乗った)、こいつが、プロイセン軍に捕まってしまった。それで5月10日にフランスが負けた。パリ郊外のロスチャイルド家の豪邸(お城のような)で、敗戦条約を結んだ。 ルイ・ナポレオンは、これで政治生命を無くした。


パリ・コミューン

 フランス軍が負けた、プロイセンが勝ったと知った途端に、パリで民衆が反乱をして蜂起した。そして2カ月間だけ、パリの中で政府のようなものをつくった。何十万人も民衆が結集して、パリのずべての愛街路を制圧した。この2カ月間だけの民衆の蜂起のことを、「パリ・コミューン」という。「パリの民衆による自治政府」という意味だ。 これが、人類史上、初めてのプロレタリアート独裁、の疑似(ぎじ)政府ができた、と。このことをロンドンにいたマルクスが、精緻にパリの現地の情報を集めて、『フランスの内乱』という本を書いた。1971年の6月には、もう、マルクスが書きあげて出版した。これはそのまま、第1インターナショナルの基本的な論文ということになった。


ルイ・オーギュスト・ブランキー

 パリ・コミューンの悲劇的な敗北までを、マルクスが、ずっと、この本に活写している。ところが、二カ月後には、プロイセン軍が、すなわちドイツ兵が、パリに入城した。そして、フランス軍や警察隊と一緒になって、パリ・コミューンの労働者の軍隊とぶつかって、簡単に、鎮圧した。これで、パリ・コミューンは、崩壊した。捕まった自治政府の幹部たちは、シャンゼリゼ大通りのあたりで、数百人が、銃殺された。 正確な数字は、分からない。逃げ延びた者たちもいたようだ。

 この後、第1インターナショナルは、どんどん、分裂を始めて、バクーニン派やプルードン派やブランキー派( ルイ・オーギュスト・ブランキー(Louis Auguste Blanqui、1805-1881年)の派)という連中と、穏健なマルクス派との間の論争、激論が、ずっと続いた。 

 内部の激論が激しくなって、やがて最後は、アメリカのフィラデルフィアにまで第1インターナショナルは事務局(本部)を移した。マルクスの弟子であったアメリカ人たちのところにまで、事務局が移って、そこで消滅してしまった。1876年に第一インターナショナルは潰れた。1864年に出来た時から、12年間で、国際労働運動は、潰れた。この時、マルクスは58歳だ。激しい苦悩と敗北感を抱えたまま、このあと5年で、1883年3月14日に、64歳でマルクスは死んだ。これで終わります。


マルクスの墓

※古村治彦のブログ「古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ」で、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載された映画『マルクス・エンゲルス』の映画評をご紹介しています。興味のある方は、こちらからどうぞ。

(終わり)

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