それでパリに移るというところが非常に大事で、『ライン新聞』が1843年4月に発禁処分になって、しかしその年の、発禁処分になった2カ月後にプロイセンの貴族の娘であるイェニー・フォン・ヴェストファーレン(Jenny von Westphalen、1814-1881年)という女性と結婚しているのです。最後までイェニーと生きていますね。子供たちをつくっています。だから弾圧を受けたりしているけれども、誇り高い知識人たちの活動として、周りからは尊敬されていたのです。そしてこの年の10月にパリに移ります。
私が驚いたのは、これなんですね。パリで結集軸になっていたのは、アーノルド・ルーゲたちとパリに移ってきて、『独仏年誌』を出す前からパリには社会主義左翼運動という、大きいのがあったんですね。プルードンが非常に尊敬されていた指導者みたいですが、そこに義人同盟(League of the Just)というのがあったんです。これは有名な、まだ社会主義思想が始まる前のころの労働者や農民を助けるという思想ですが、これはヴィルヘルム・ヴァイトリング(Wilhelm Weitling、1808-1871年)という人が指導者です。マルクスは、1838年にパリで義人同盟というのをつくったわけではなくて、参加したんですね。労働組合運動の一番はしりのころの団体が既にあるのです。この正義の人同盟、Bund der Gerechtenというのですが、正義の人同盟、義人同盟。英語ではThe League of Justiceといいます。正義の同盟です。正義の人間たちの同盟。これが非常にパリで力があったということが、今回ようやくはっきりわかりました。
このプルードンの主張の『貧困の哲学』と呼ばれているものは、『Système des contradictions économiques』という本です。ouというのは「あるいはまた」という意味で、Philosophie de la misèreといって『貧困の哲学』なんですね。これをひっくり返しまして、マルクスは「おまえの哲学が貧困なんだ」という激しい嫌みのタイトルの『哲学の貧困(La misère de la philosophie)』というのをフランス語で書いて出した。これはドイツ語で書いたやつをフランス人の友達が翻訳するんですけど。こういうことをやっている様子が出てきました。