この人の他にフランス詩人で有名なのは誰かというと、(シャルル・)ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年~1867年)がいます。あと(ポール・)ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine、1844年~1896年)がいます。ヴェルレーヌは、「(パリの)都に雨の降る如く、私がこころにも雨が降る・・・・」 と書いた。彼らが頂点です。ランボーも、彼らと同時代の人です。会って、つきあっている。
彼が15歳のときが1870年ですが、フランスは普仏戦争(ふふつせんそう、1870年~1871年)という戦争をした。これは「普」はプロシアで、プロイセン(王国)のヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III.、1770年~1840年)という皇帝がいて、横にビスマルク(Otto Eduard Leopold Furst von Bismarck-Schonhausen、1815年~1898年)という宰相(チャンセラー)がいてものすごく強かった。フランス側は、このとき、ルイ・ボナパルトと言いますが、ナポレオン3世(Napoleon III、1808年~1873年)とも名乗った、勝手に皇帝と名乗った男です。これはナポレオン1世の甥っ子だということを看板にして、20年間、フランスの政治を握った男です。こいつがこの普仏戦争でぼろ負けに負けます、たった数カ月で。捕虜になってしまう。
フランス政府はもうプロシア軍に負けているから軍隊もぼろぼろで、パリで労働者と呼ばれるような人たちが暴れ出したのを、とめられなかった。それがパリ・コミューン(la Commune de Paris 1871)と呼ばれる革命です。1871年の3月18日に始まって、2カ月後の5月28日には鎮圧されて、崩壊しています。そのとき恐らく600人ぐらいの、パリ・コミューンと呼ばれる、立派そうに言えば、彼らは自治政府設立を宣言したのですが、保守派の体制派の人たちから見れば、ただの反乱、民衆暴動です。
これは、その前のフランス大革命(Le Grande Revolution de la Francaise )、これが1789年から92年までですが、ここから数えて79年目です。つまりフランス大革命から80年もたってる。それがパリ・コミューンです。
だから、不思議なことに1871年に、彼が17歳になったころ、8月の終わりに『酩酊船』、酔っぱらい船を書き上げている。そして、それは雑誌に載った。そしてテオドール・ド・バンヴィル(Etienne Jean Baptiste Claude Theodore Faullain de Banville,、1823年~1891年)という、当時有名だった詩人の作家が、ランボーを連れて回るんです。有名な人たちのところを。
ランボーはヴィクトル・ユゴーに会っています。恐らく1872~1873年に。ユゴーはもう、そのころ70歳ぐらいです。爺さんで大家で国民的大作家なんですが。このヴィクトル・ユゴーとカール・マルクス(Karl Heinrich Marx、1818年~1883年)の関係が、実はヨーロッパ政治、文学を語るときに非常に大事です。
その話も今はできませんが、ヴィクトル・ユゴーは『ノートルダム・ド・パリ』というのを1831年に書いた。これで文壇での地位は確立したと言われてる。ユゴーという人は、エミール・ゾラ(Emile Francois Zola、1840年~1902年)やギ・ド・モーパッサン(Henri Rene Albert Guy de Maupassant、1850年~1893年)らと同じ扱いで、今は、フランス文学の中の作家、と言えばそれだけのことですが。
しかし シャトーブリアン(Francois-Rene de Chateaubriand、1768年~1848年)という、保守派の大御所の貴族上がりの文学者がいて、ユゴーは彼に認められた人です。
私が『属国・日本論』(五月書房刊)ではっきりさせたように、1960年代までは、フランス文学やフランスの映画などが素晴らしかった。私の少年時代の映画では「白い恋人たち」(原題:13 Jours en France、1968年製作)とか。これはフランスのグルノーブル大会の冬のオリンピックの映画ですが。他にも俳優のアラン・ドロンとか、日本にも何回も来てる、少し威張ってるカトリーヌ・ドヌーヴとか。あの女優たちは、アメリカが嫌いなんです。
このとき既に、フランス大革命から30年ぐらいたっています。でもこのときに、例えばプロシアのフリードリヒ大王と呼ばれたフリードリヒ2世(Friedrich II., 1712年~1786年)なんていう男は、「自分たち国王というのは、民衆のしもべである」とか、「民衆の召使いである」とか、本当はそんなこと思ってもいないくせに、そういうパブリック・サーバント理論、公役務(こうえきむ)理論というのをつくって、何だか非常に民衆にこびへつらう理論が当たり前のように、ヨーロッパの雰囲気は、もうなっていた。
1849年にはパリを経由してロンドンに渡った。それで、1883年に死ぬまでずっと34年間、政治亡命者としてロンドンにいます。ロンドンで何をやったかというと、少しだけ事務員として働いたりしながら、The International Workingmen's Associationというのをつくって、これが国際労働者協会というやつです。別名、第一インターナショナルという。それを設立したのが1864年ですから、46歳のときです。カール・マルクスは64歳で死んでいる。ヴィクトル・ユゴーが1885年に死んで、カール・マルクスが83年、2年先にマルクスは死んでます。ヴィクトル・ユゴーは83歳まで生きてます。