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ふじむら掲示板





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[61]高橋優「少年であれ」ほか
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-12-17 00:15:11

<高橋優・略歴> たかはし ゆう。歌手。男性。1983年生。秋田県出身。自称「今思ったことを今歌う、リアルタイム・シンガーソングライター」。

<山本幸治氏による紹介記事>

(藤村注;富野由悠季や宮崎駿といった「大御所」から見ると、最近のクリエイターたちが小粒に見えてしまうのは致し方ないことだ、と認めた上で、)

今この時代にとっての真ん中のテーマって何だろうと考えたとき、2つの曲が頭に浮かんだ。「素晴らしき日常」(高橋優)と「3331」(ナノウfeat.初音ミク)だ。

真正面から描くというよりは自分自身を相対化しているように見えるかもしれない。でも、ダイレクトに時代を歌っていると言えるだろう。

そして、そういうスタンスが今の真ん中なのだとしたら、大御所たちにも新しい創作意欲を持ってもらえるかもしれない。

(出典)「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P101、山本幸治「アニメ定量分析」Vol.45、扶桑社

<事務所宛・ファンレター>

拝啓 高橋優様
藤村甲子園と申します。「SPA!」12月13日号、山本幸治氏の連載コラム「アニメ定量分析」で、貴台のお名前を初めて知りました。

そこで、You Tubeにアップされている音源を、片っ端からチェックしてみました。久しぶりに新鮮さを感じさせる才能に出会ったと思いました。

小生のこれまでの不明を恥じます。やはり、地上波テレビの歌番組をチェックしているだけでは、本当に新しいものを見逃してしまうんだなあと痛感しました。

小生は「少年であれ」が一番好きです。歌詞と曲のバランスがよく取れていると思います。貴台の「私小説的メッセージ・ソング」系統では、この曲が一番、完成度が高いと思います。ピアノとチェロのアレンジも良いと思いました。

「誰もいない台所」、「虹と記念日」、「靴紐」も好きです。これらは、誰が聴いても「いいな」と思えるだろう、素直なラブ・ソングスですね。

「現実という名の怪物と戦う者たち」、「こどものうた」は、曲のテンポが良いので好きになりました。そうか、こんなアゲアゲの曲も作れる人なんだと思いました。

貴台は、才能に幅のある作家だと思います。これからの人だと思います。まだまだ伸びて行く余地のある人だと思います。

ここ10年ほどはリズム全盛、ダンス全盛の時代でしたが、そろそろ音楽好きの聴衆に飽きられて、これからメロディ・メーカーたちの巻き返しが始まるのでしょうか。

早速、最寄のCDショップにアルバムを注文します。貴台の今後益々のご清栄をお祈りします。 敬具

<アルバム「リアルタイム・シンガーソングライター」感想>

藤村です。
アルバム聴いて思いました。
これはなんと、性急で生硬な「異議申し立て」系メッセージ・ソングの連発ではないか。まるで40数年前の全共闘のアジ演説みたいだ。
でも、それこそが高橋優の楽曲の魅力ナンデス。

高橋は現在27歳。こういった青臭さが許されるギリギリの年齢だと思います。
もしもの話、48歳の小生が、これと似たようなメッセージ・ソングをこしらえて人前でシャウトしようものなら、良くて「さんまのSUPERからくりTV」の「サラリーマン替え歌選手権」、ヘタすりゃただの「頭のおかしいデブ男」扱いです。

性急で生硬。これは決して短所ではありません。実にこれこそが青年の特権なのであります。
ああ、「青年」なんて言葉、久しぶりに使うなあ。

天は高橋優に、イケてる歌詞とイケてるメロディの「二物」を与えました。
でも惜しいかな、美声は与えませんでした。ダミ声ナンデス。
声の良し悪しも、もちろんサウンドの一部です。スーザン・ボイルみたいなタダのオバハンでも「天使の歌声」ひとつで成り上がったのに、実に実に残念なことです。

ルックスの方は、まあ、スガシカオ程度にはイケてると思うンデスが。

「負けるな、少年よ。」©高橋優

(以 上)



[60]突破マンガ「くすりポン吉」
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-12-12 04:30:36

<書誌事項> 伊東あきを・作「長篇マンガ くすりポン吉」1949年発行

<伊東あきを・略歴> 不明。「狼少年ケン」等の作者、伊東章夫と同一人物か否かも不明。

<情報源> 「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P103、岩井道「マンガ極道」其の一四三、扶桑社

<岩井道・略歴> いわい みち。まんだらけ中野店副店長として多忙な日々を送る。まんだらけのサイト( http://www.mandarake.co.jp )にて、コラム「岩井の本棚」を連載中。独自の視点で注目マンガを紹介する。(上記SPA!による)

<私 見> 「くすりポン吉」は異色の時代劇マンガ、またはナンセンス・ギャグ・マンガである。
主人公はヒロポン中毒と思われる少年剣士。そのストーリーたるや、下記の如きである。

(1)主人公は、襲撃してきた強盗に「クスリ」をかけて無力化する。強盗はこの「まぼろし薬」によって幻覚症状を発し、そのまま昏倒してしまう。

(2)催眠強盗に遭って眠り込んでいる町の人たちを、主人公は覚醒剤で一人残らず起こしてあげる、

と言った、「喜劇新思想体系」(1972~4)時代の山上たつひこでもやらなかったような外道マンガなのである。

念のためにお断りしておくと、「喜劇新思想体系」は青年劇画である。対するに「くすりポン吉」は、どこからどう見ても子供向けのオモチャ漫画である。「あんみつ姫」や「轟先生」と同時期のマンガなのだ。

本作が刊行された1949年当時、ヒロポンは未だ合法ドラッグだったとは言え、余りにもアブナい内容を余りにもアッケラカンと描いているので、上記・紹介記事を読んで、小生はおかしくて大笑いしてしまった。この作者、気は確かか。

この時代、児童マンガに注がれる世間の目は殊の外キツかったと聞く。当時のわが国は、教養主義・善導主義の全盛時代だったのである。あの手塚治虫ですら、何度も不買運動の槍玉に挙げられているのである。

しかるに「くすりポン吉」たるや、「荒唐無稽」、「俗悪」、「子供の教育に良くない」どころの話ではない。ただひたすらアブナいのである。
しかもその絵柄が決してデンパ系ではなく、杉浦茂ばりのホノボノ系という所が何とも味わい深い。

本当は「SPA!」誌上の岩井道の図版入り記事をご紹介したいところなのである。是非とも最寄のコンビニでチェックしていただきたい。

小生が子供だった1970年代初頭は、価値紊乱・秩序破壊を意図したかのようなアナーキーなマンガが大挙して出現した時期であった。山上たつひこ「喜劇新思想体系」を横綱格として、小生は下記のような作品群を直ちに思い出す。

手塚治虫「やけっぱちのマリア」(1970)
ちばてつや「餓鬼」(1970)
谷岡ヤスジ「メッタメタ ガキ道講座」(1970~1)
赤塚不二夫「レッツラゴン」(1971~4)
石森章太郎「劇画 家畜人ヤプー」(1971)
永井豪「オモライくん」(1972)
ジョージ秋山「ゴミムシくん」(1972~3)

ところがどっこい「くすりポン吉」を前にすると、上記の傑作群が「学研の学習マンガ」みたいな、クソまじめだけが取り柄の退屈なマンガと思えてくる。

アナーキストと言うのは、実は意外と謹厳実直なカタブツが多いものである。「最初からオカシナ奴」の破壊力には、到底敵わないのだ。

「くすりポン吉」は珍本には違いないが、内容が内容だけに復刊は金輪際ないだろう。なお、本書はマンガ専門古書店「まんだらけ」に、現在1万2千円で出品されているとのことである。

「ならば、このオレが」と、ほんの一瞬だけ魔が差してしまったが、すぐに思い直した。
こんなものに1万2千円を払う余裕があるなら、それをそっくり共同募金でもした方がはるかに意味があるだろう。
(以 上)



[59]カエサルのものはカエサルに
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-12-06 04:03:38

<書誌事項> 2011年12月5日、読売新聞「解説」欄、「論点スペシャル・ヨーロッパの行方」
(インタビュー1)遠藤乾「統合の利、今も大きい」
(インタビュー2)橋爪大三郎「将来からの逆算、大切」

<遠藤乾・略歴> えんどう けん。1966年、東京都生まれ。北海道大教授。欧州委員会・専門調査員の経歴を持つ。専門は国際政治学・EU研究。編著に「ヨーロッパ統合史」「複数のヨーロッパ」など。(前記・読売による)

<私  見> 新聞で遠藤乾氏のEU論を読む。同氏の論により「補完性原理」なる言葉を初めて知った。

(引用、始め)

理念から見れば、EUには補完性原理という考えがある。
「より小さい単位が自らの目的を達成できる場合は、より大きな単位は介入してはならない」とする消極的原理と、「小さな単位が自らの目的を達成できない場合は、大きな単位が介入しなければならない」とする積極的原理からなる。
もともと軍隊の正規軍と予備軍の関係を指し、のちにキリスト教会の小教区と大教区の関係、市民社会と国家の関係に適用され、今は加盟国とEUの関係に応用されている。

(引用、終わり)

小生の理解では「補完性原理」とは、主権国家と欧州流個人主義が折り合って行くための屁理屈と思われる。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というわけである。

私の見るところ「補完性原理」には、カエサルそのものを相対的・歴史的とみる姿勢は感じられない。これはゲスの勘繰りだが、「補完性原理」と「大きな政府」論は相性が良いのではなかろうか。

「補完性原理」の由来をたどると、元々はローマ法王が言い出したことらしい。マルクスやハイエクのような極論に走らなかったところは、さすがアッパレな政治家ぶりではある。

こうやってカエサルに「補完」されるのにウンザリした人々が、新大陸に渡って一旗あげるとリバータリアンになるのだろうか。「補完性原理」と「リバータリアン」を並べて検索してみたが、めぼしいものはヒットしなかった。先学のご教示を賜りたい。

ふと小生は、旧ソ連のスパイで御用作家、イリヤ・エレンブルグの一節を思い出した。あるアメリカ人実業家の問わず語りを書き留めたものである。

(引用、始め)

ふじむら掲示板[1398]人生意気に感じる話 投稿者:藤村甲子園  投稿日:2002/03/30(Sat) 16:45:20

(前  略)

<書誌事項>イリヤ・エレンブルグ「わが回想(副題)人間・歳月・生活」木村浩訳、全三巻、1853p、朝日新聞社、1968~69年(改訂新装版)

(中  略)

<「人生意気に感じる話」の前口上>
エレンブルグは1946年4月から数ヶ月、アメリカ、カナダを公費旅行している。(中  略)旅も終わりに近づき、乗り継ぎのため立ち寄ったニューヨーク州オールバニで、エレンブルグはとても印象的な体験をすることになる。以下に、エレンブルグ「わが回想」から該当部分を引用する。

<人生意気に感じる話>
私がオールバニでのこの晩を記憶に留めたのは、そこでバーの客の一人と突然、話し込んでしまったからであった。見たところ、その男は五十歳以下であった。彼の赤銅色の顔は汗で光っていた――その晩は暑かったのだ。彼は二年間ブリュッセルで暮らしたので、フランス語をよく話した。(中  略)

私は、彼がそのような不安な生活に疲れていないかどうか、たずねてみた。彼は軽蔑するような微笑を浮かべた――「私は、ベルギー人でもなく、フランス人でもなく、ロシア人でもありません。私はほんとうのアメリカ人ですよ。五月に私は五十四歳になりましたが、これは男ざかりの年齢です。私の頭はいろいろなアイデアでぎっしりです。私はまだ上にのぼっていけますよ」それから彼は理窟を並べはじめた――「私は何もロシア人に反感なぞもってはいませんよ。ロシア人はしっかり戦いましたからね。きっと彼らはりっぱなビジネスマンにちがいありません。しかし私は『タイムス』で、お国には個人の創意というものがない、自由競争がない、出世できるのは政治家と建設者だけで、他の者は労働し給料をもらうだけだ、という記事を読みました。これは世にも退屈な話です!もしも大不況(二十年代末の経済恐慌を彼はそうよんでいた)の際、おまえに相当の給料を出すが、それはおまえが州から州へ移らず、職を変えないという条件づきでだ、といわれたとしたら、私は自分で自分の命を絶ったことでしょう。あなたには、この気持ちがおわかりにならないでしょうね?もちろんですよ!私はブリュッセルで、人びとが平穏無事に暮らし、万一に備えて貯蓄し、退化していくさまを見ました。あそこでは、どの青年も精神的インポテントですよ・・・・・」(中  略)

私はある夜、旅行についての私の思いをメモし、そのメモの中でオールバニで出会った赤銅色のアメリカ人のことに戻った。(中  略)アメリカでは資本主義が、青春ではないにせよ、オールバニであの男がいったごとく『男ざかりの年齢』を送っているのだ。彼は偶然の冒険家ではなく、冒険主義的世界の生んだ人間なのである。彼が重んじているいっさいのものは、彼にとっては終わりかけているのでなく、はじまりかけているのだ。アメリカとは協定しなければならない――革命は、あそこでは近々数十年のうちにはおこらないだろうから。アメリカ人を抑制しなければならない。彼らは概して温和な人間だが、たいそう冒険的な連中だから・・・・」(「わが回想」第三巻、346p~349p)

(後  略)

(引用、終わり)

ところでこの「補完性原理」、元々個人主義の土壌がない日本国では、なんと民営化推進論者の旗印になっているらしい。これには恐れ入った。やれやれとんだサルどもである、もちろん小生も含めてだが。
(以 上)



[57]愛と死を見つめて(1/4)
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-10-30 01:21:22

<書誌事項> 猪俣津南雄『踏査報告 窮乏の農村』岩波文庫、1982年、P244。原著は1934年、改造社刊。

<私  見> Ⅰ.プロローグ

帯状疱疹で一週間、入院した。ヒマだから、ミコちゃんみたいに本ばかり読んでいた。
2011年10月8日(土)、猪俣津南雄『窮乏の農村』(岩波文庫)読了。思わぬ拾いものだった。

私はこれまで、昭和戦前期の日本の農村について、具体的で生き生きとしたイメージを与えてくれる本と出合ったことがなかった。

農業経済学は大枠の知識は与えてくれたが、そこから農民のナマの声は聞こえて来なかった。
民俗学はどうか。柳田国男は昔へ昔へと遡ることに興味が行ってしまう人であった。宮本常一が書き残した農村同時代史は、主に戦後以降を記述対象としたものである。
ならば文学はどうか。漱石・鴎外以来の日本近代文学は、もっぱら都市の風俗ばかりを描こうとしてきた(少数の例外を除いて)。
たとえば堀辰雄が描いた昭和戦前期の軽井沢は、あれはありのままの農村などではない。別荘地/サナトリウムという都市風俗の後景として登場する「まるでおフランスみたいな田園風景」の代用品にすぎない。
小林多喜二の農村プロレタリア小説なんて、読まなくたって何が書いてあるのか想像がつくようなシロモノだ。

猪俣津南雄『窮乏の農村』は、欠点も多いが、誠実で率直なルポルタージュである。
本書の序に「私の報告は、真実を伝えたい一念で書いた。誇張歪曲は極力避けた」(岩波文庫、P6。以下、引用は岩波文庫から)とある。まさにその通りの本だと思う。

昭和戦前期の日本の農村について、私は
「クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい。」 ああ、いやだ、いやだ、(サゲサゲ)
といった貧困なイメージしか持っていなかった。
具体的には、黒澤明のモノクロ映画「七人の侍」、あるいは白土三平の階級闘争マンガ「カムイ伝」みたいな、ドツボな感じ。

決してそうではなかったのである。確かに昭和戦前期の日本の農村は、貧しいは貧しい。
でも、生身の人間である。人間が生きていれば、そこに必ず喜怒哀楽がある。来る日も来る日も哀しみや怒りばかりで、喜びや楽しみの全く欠落している人生などというものがあるだろうか。もしあったら、過酷な農業労働に耐えて行ける筈がない。首をくくるか、さもなきゃ夜逃げでもした方がまだマシというものである。
人間がいるところには必ず喜怒哀楽がある。考えてみれば当り前のことである。

これまで私が、昭和戦前期の日本の農村のことを暗黒世界のようにイメージしていたのは、単に私の無知のせいだということがよく分かった。

(続く)



[56]愛と死を見つめて(2/4)
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-10-30 01:20:21

(承前)

Ⅱ.著者の人となり。および本書の時代背景について

ここから先、この一章は、少々ガマンしてお付き合いください。

『窮乏の農村』の著者、猪俣津南雄(1889~1942)は戦前に活躍したマルクス経済学者である。裕福な商家の生まれだが、実家は後に破産した。苦学の末、32歳で早稲田大学講師となるが、第一次共産党に入党して検挙された。以降は、講座派とも労農派とも一線を画す一匹狼的な論客として、そこそこ売れたらしい。彼の所説は当時のジャーナリズムから「イノマタイズム」と称されたそうだ。

さて昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えつつあったという。

運動の第一のピークは、大正末年ごろだった。これは中農下層および貧農上層を中心とした「モノ取り主義」的闘争で、一定の成果を勝ち取った途端に運動は沈滞し、村会議員に成り上がった運動指導者の中には、ダラ幹と化した者もいたという。

昭和5年、昭和恐慌はじまる。当時、日本の主要農産物は米と繭だった。
繭価(春まゆ)の推移を昭和元年を100とする指数でみると、昭和6年は33.2、昭和7年は27.4に下落した。
同じく米価指数の推移は、昭和元年を100とすると、昭和6年は49.2、昭和7年は56.3である。
当時、米穀統制法に基づく政府買い上げ米制度は既にあったが、朝鮮・台湾から入ってくる安価な米を流通規制しないなど、戦後の食糧管理制度に比べればチャチなシロモノであった。
本格的な食糧管理制度は戦争のおかげで整備された。これもまた、皮肉な話ではある。

恐慌は万人を苦しめる。だが、ワリを食うのはもっぱら下の方である。
昭和恐慌のおかげで、地主も中農も貧農上層も借金まみれになった。儲けたのは目端の利く商品ブローカーばかりである。
だが、貧農下層は借金まみれどころではない。なにしろ食べる米がない(自分で作った米は、前借金のカタに取上げられてしまうのである)。農村には日雇取りの仕事もなくなってしまった。都会に出ても、既に失業者で溢れ返っている。

かくして昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えた。今度は生活防衛闘争である。また、従来は何かと軽く見られ勝ちだった貧農下層が、運動の中で大きな部分を占めるようになってきた。

このように、農民運動の質が変化してきた。一方で状況は切迫している。ファシズムや農本主義右翼に吸引される農民も出てきた。「このままではいけない。何とかしなければ」という問題意識が、当時の農民運動の指導者層に共有されていたようである。

(引用、始め)

それに、こういう意見の人もあった。貧農の下層が黙って引き込んでいるのは、上層の者が組合支部を切り廻しているからだ、どこの村にも格とか席順とかいうものがあって、村の集まりには下の者は口を利かないしきたりになっている、その慣行が組合支部の集会や活動に際しても現われるのだ、下層の者は有能者でも自己の才能を隠そうとするほどだ、こんな姑息(こそく)な家長制的伝統を打破しなくては組合の本当の活動は出来るものでない、また組合においてはそれを打破することも決して不可能ではない、と。
右の意見は、自身も貧農の下層に属する人の意見であった。それだけに余計傾聴に価するものがある。(P221-222)

(引用、終わり)

昭和9年当時、猪俣津南雄は全国農民組合(全農)の顧問的立場にあった。運動方針転換のための基礎調査として、猪俣は全国2府16県の農村を踏査した。実質的な調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と思われる(注)。その調査報告が本書である。本書の内容は全農の新方針にも影響を与えたとのことだが、時流には抗し切れず、結局、全農は昭和12年に壊滅した。

(注)調査期間推測の根拠は以下の通り。
1.昭和9年の「五月初旬に東京を立ち、」(P5)と、猪俣自身が書いている。
2.本調査の一部は、最初、雑誌『改造』の昭和9年7月号、8月号、および9月号に発表されている。
3.本書の序には「一九三四年九月」との日付がある。
1~3より、本書執筆の途上で調査旅行が継続していたとしても、調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と推測した。

(続く)



[55]愛と死を見つめて(3/4)
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-10-30 01:18:41

(承前)

Ⅲ.『窮乏の農村』の見どころ

とにかくユーモラスなのである。著者は農村の悲惨さを訴えようとしているのだが、何だか笑ってしまうような話が多い。企まざるユーモアというべきか。
具体的に、二三引用する。

(引用、始め)

(藤村注;農家の娘さんたちは近隣の工場で働いて、親の家計を助けていたが、これも恐慌ですっかりダメになってしまった、という話の後で、)

この女工さんたちがお休みに着て歩く人絹物の派手な模様の一張羅(いっちょうら)がとかく地主たちの眼に止り、お前らのとこの娘にあんな着物を着せておいて年貢米をまけてくれもなかろうと言い立てれば、娘は娘で、こんな着物ぐらい着なければ嫁に貰ってくれ手もないと応酬するという話。―――
もっとも、こうした「女工哀史」の最新版を書きつつあるのは、信州や上州に限ったことではない。また養蚕農家に限ったことでもない。それはまず全国的なことだと言えるであろう。(P35)

(藤村注;当時の農民も、農業機械の導入には意欲的だった。零細農家にとって、高額な機械の購入はリスクが大きい事は明白なのに、なぜ誰もがそうしたがるのか。)

群馬県のある自作農の言ったことが代表的である。彼はこう言った、機械を使えば身体(からだ)が楽だし、仕事も早く切り上げられる、しかし経済的にはかえって余計苦しいし、仕事も粗末になりがちだ。
だが、身体が楽だ、そして明るいうちに切り上げられる、というそのことは、何といっても現代の農民には大きな魅力であるらしい。経済上のよしあしを詮議(せんぎ)しているいとまもないくらいこの魅力が大きく強いということこそ、あわただしい機械化普及の秘密の一部を語るかと思われる。(中 略)
石川県のある村で、私は、農民組合の『の』の字も知らぬ一群の農民たちがあげる火のような気焔(きえん)をきいた。熱して来ると彼らは、「身体にらくゥしている町の月給取り」を仇敵(かたき)のようにこきおろした。「あいつらァ、日曜だと吐(こ)いてェ、朝っぱらから炬燵(こたつ)べェへえってェ、蓄音機ィかけてェ・・・・・。」
それも一応無理はない。科学の進歩、産業技術の発展の現状をもってして、農民たちの身体を楽に出来ないはずはなかったのだ。(P50-51)

先頃、ある農業経済学者が群馬県へやってきて、大いに産業組合の利益を説いた。農民は産業組合によって資本家にも対抗してゆくことが出来る、第一に組合製糸がそれであるし、さらにまた各種の生産組合を作れば日用品の大部分も資本家から買わなくてすむようになる、というようなことを言って聞かせた。しかしそこに集まっていた若い者は笑って相手にならなかった。われわれにはあいにくと資本がない、腕と頭の力だけでは敵(かな)いっこない、先生も自分で二、三年小作でもやって御覧なさい、じきにわかります、と言ったので農業経済学者も一緒に笑ってしまった。そんな話もきいた。(P130)

(引用、終わり)

ここらへんのおおらかさが、猪俣津南雄の持ち味であるように思える。
表層的と言えば表層的だが、ものの見方がとても素直である。
少なくとも、「金持ちはキライだ」または「ブルジョア階級は人民大衆の不倶戴天の敵だ」といった類の「正しい階級意識」から出発している人ではないように思われた。

もちろん猪俣も、「世の中全部が社会主義になれば、何もかもがうまく行く筈だ」と考えてはいるようだ。実際、そういった意味のことを本書でも何度も繰り返している。こういった点においては猪俣もまた、在り来たりのアカの一人に過ぎないとは言える。

ただ、猪俣の人間観は、アカの理論家としてはちょっと変わっているように思える。
誰かを「諸悪の根源」、「悪の総元締め」または「戦争の親方」みたいなものに仕立て上げて、「***を打倒しさえすれば何もかもうまく行く」式の、単純きわまる善悪二元論に立っている人ではなさそうなのである。

(引用、始め)

(藤村注;当時の地主は、農民からの収奪強化のため、小作人から土地を取り上げることがよくあった。「ガタガタぬかすと、小作地を取り上げるぞ。他に耕作したがっている人間はいくらでもいるんだ」という訳である。という話に続けて、)

土地取上げの手段方法やからくりをいちいち書き立てていたら際限がない。(中 略)
青森県にはまた、多収穫の競争で一等賞を貰ったおかげで土地を取上げられたという小作人もいた。一反から前の二倍も三倍も米の取れるようになった土地、その土地から前同様の小作料を取って満足していることは、地主としては堪(た)えがたいことであったろう。(P198-199)

(引用、終わり)

この「地主としては堪えがたいことであったろう」という一言が、人間洞察として深いところまで届いていると私には思えた。

もちろん、この地主のやったことは理不尽きわまりない。農業経営者の取るべきリーダーシップという点から見ても、合理的な選択とは言いかねる。もしもの話、あなたの同僚のトップ営業マンが、突然、ヤキモチ焼きの社長にクビにされでもしたら、あなたはどんな気持ちがしますか?

だが、人間とはこういった理不尽、こういった不合理を敢えてやってしまう生き物なのである。そうする権力を持っていれば、誰だってそうする。もしも誰からも牽制されなければ、誰だってローマ皇帝ネロみたいになる。実際、「トップ営業マンが真っ先にリストラされてしまいました」程度のことは、巷間、どこの会社にでもある話なのである。私がそういうことをしないのは、私にはそういった権力がないからに過ぎない。

これが小林多喜二だったら、「この地主は卑劣な奴だ。これが搾取者の本質なのだ」とかナントカ、訳知り顔の倫理判断または価値判断にまで踏み込んでいたろう。

猪俣津南雄は「地主としては堪えがたいことであったろう」で止めた。ほんの少しの言い回しの違いだが、私はここに猪俣のフトコロの深さを感じる。公平さ、真実に対する忠誠心、または人間性に対する愛と言っても良い。

そもそも本書は、一体に、階級的憎悪(ルサンチマン、または貧乏人のヒガミ)の含有量が希薄なのである。これは左翼文献にしては珍しいことだ。そういうものは、ひた隠しに隠していても、自ずと現れずにはいないものなのだから。
猪俣は、ホントはとってもお育ちの良い「おぼっちゃまくん」だったのではなかろうか。

まあ、こういう気取りや飾り気のないところが、革マルみたいな、お高く留まっていて、切っても血も出ない公式主義者から、猪俣がアホ呼ばわりされるユエンなのだろうが。

(続く)



[54]愛と死を見つめて(4/4)
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-10-30 01:16:51

(承前)

Ⅳ.『窮乏の農村』の限界と、その意義

本書の成り立ちは、おそらくこんなところだろうと思われる。

「おい、ゴンベエさん、聞いたか。今度、東京から組合の偉い先生がやって来て、オラが村のことをあれこれ調べなさるんだとよ。」

「そうかいね、留吉さん。だったらひとつ、その先生のところまで出掛けて行って、オラっこのグチでも聞いてもらうべえ。」

このゴンベエさん、グチとは言え、アカの他人に向かって言うべき言葉を持っている人である。こういう人は少数派である。
さらに、自分の意見を世の中に向けて発表したい/発表すべきだという問題意識も持っている。そういう人はさらに少数派である。
さらに、忙しい労働時間を割いて、わざわざ東京から来た珍客を訪ねてみようかという意志の持ち主でもある。そういう人は、さらにさらに少数派である。
これは昔も今もそうだし、また洋の東西も問わない。もちろん、農民に限った話ではない。

つまり『窮乏の農村』という本は、当時の日本の農村の、最良もしくは最も意識が尖鋭な部分の意見のみを代表している可能性がある。もの言わぬ農民大衆のホンネは、本書の持つ射程距離の、さらにその先にある可能性がある。

これはもちろん、猪俣津南雄の洞察力不足のせいではない。彼は彼にできる最善を尽くした。これは聞き書きという方法そのものが持っている、宿命的な欠陥なのだ。

そもそも、「もの言わぬ」相手のホンネを、どうやって聞き取れば良いというのか。
察すれば良いだろう、こちらが勝手に想像すれば良いだろうというのは、当の相手から見れば大変無礼な振る舞いであり、ハタから見ればただの思い上がり、または傲慢である。
「もの言わぬ」相手のホンネを、「おまえのホンネはこうだ」と決めつける権利を持っているのは、ただ裁判所と税務署と公正取引委員会あるのみである。

では、みのもんたの身の上相談は、あれは無礼ではないのか?傲慢ではないのか?

あれは傲慢ではない。みのもんたは「お譲さん、アンタねぇ、一体ナニ考えてんの!?」と、叱られたがっている相手を叱っているだけだ。無理矢理なのか、それとも相手と合意の上なのか、また、相手に無礼と取られはしないかは微妙なところだが、そこのところを紙一重の差ですり抜けてみせる、みのの練達の話術はさすがである。

閑話休題。『窮乏の農村』をもって、「昭和戦前期の日本の農村の全体像はこうだった」と捉えたら、おそらく誤るだろう。だが、「こういう一面も、あるにはあったに違いない」と捉える限りにおいては、政治的立場の如何を問わず、有益な歴史資料と言えるのではなかろうか。

これだけは言える。本書は、私の歴史意識の空白を埋めてくれた良書である。
昭和戦前期の日本の農村は、決して暗黒ではなかった。

もちろん、零細規模経営で、農産品市況が不安定で、地主からの収奪も激しかったため、楽な暮らしではなかったが、農民も、決してやられる一方の哀れな立場ではなかったのだ。いやむしろ、なかなかにシタタカなものではないかと思われた。
実際、旧ソ連では、都市労働者(月給取り)は共産党の言うことに唯々諾々と従うしかない立場に置かれていたが、農民たちは共産党のことを散々手古摺らせてきたのである。中共は今でもそうだ。

それでは最後に、昭和戦前期の日本の農村の「最も意識が尖鋭な部分」たちの「声ある声」をご紹介したい。

(引用、始め)

(藤村注;昭和恐慌では地主階級も痛手を負った。時流に乗り損ねたものが没落するのは、有産階級であっても変わらないからだ。中小地主はことにそうだ、という話に続けて、)

新潟県の米作地帯などで、「中小地主の没落は急角度だ」といわれるのは、そこの小作人が他県よりよほど強かったことにも関係する。近年猛烈な争議をして勝った王番田(おうばでん)の小作人たちは、この辺の地主は借金で首ったけでもうわれわれに抵抗する気力などはないと大層気焔(きえん)をあげていた。
この小作人たちの気焔は全く愉快なものだった。抵抗する気力がないなどと好い気になっているとひどい目に逢うぞ、と笑った者がある。すると彼らも負けてはいない。万事はこの胸にある、といった調子である。そんなら、今後の対地主政策はときくと、突嗟(とっさ)に、「まず生かさず殺さずという所かな」という応酬だ。(P168)

(引用、終わり)

(以 上)



[30]つくばだより、その1
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-03-17 01:58:30

震災一日目(3/11)、茨城県つくば市は激しい余震あり。決して気持ちの良いものではない。
震災二日目(3/12)は、波のようにうねる余震に変わった。船酔いのような気分になる。
震災三日目以降はもう覚えていない。落ち込んだ気分にも慣れてしまった。

震災五日目(3/15)にしてようやく悟った。そもそも、余震だ停電だ断水だと、何かある度にいちいち気を張り詰めるから、日が落ちる頃にはドッと疲れが出て憂鬱になるのである。

もうこうなったら是非には及ばず。鈍感かつ無神経になるに限るとハラを括った。ということで、ヤケ食いのようにずっと口を動かしてばかりいる。雰囲気もクソもない、まるで排泄行為のような食事だ。ちなみに、性欲の方はまだ回復していない。(以 上)



[29](参考文献)2011年3月16日付、読売新聞より
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-03-17 01:57:02

(Q)
地震直後から船酔いのような症状が抜けません。これは何でしょうか。(茨城県那珂市 27歳男性)

(A)
「地震酔い」と言われているものです。今回の地震は揺れた時間が長く、しかも大きな余震も続いているため地震酔いにかかる方も多いかもしれません。

メカニズムは船酔いや車酔いと同じです。視覚情報と三半規管で感じる平衡感覚にズレが生じると自律神経が興奮し、「酔い」の状態になります。

「不安感」なども原因です。車酔いする人がバスの中のにおいや、たばこなど苦手なにおいがすると酔いやすくなるのと同じで、「また地震が起こるかも」「親戚、家族は大丈夫だろうか」といった不安感が余震による酔いを増幅させているのでしょう。

地震酔いが苦しい人は、深呼吸をし、冷たい水や温かいお茶を飲むなど、リラックス出来る工夫をしてみて下さい。(喜多悦子 日本赤十字九州国際看護大学長)



[28](参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(1/4)
投稿者:藤村 甲子園
投稿日:2011-03-17 01:55:17

<書誌事項> (著者)田村康二、(書名)「震度7」を生き抜く、(副題)被災地医師が得た教訓、2005年、祥伝社新書

<著者略歴> 1935年、新潟県生まれ。新潟大学医学部卒業後、同大医学部助教授、山梨医科大学教授を経て、2001年より新潟県長岡市の立川メディカルセンター常勤顧問を務める。生体リズムを病気の予防、健康に生かす「時間医学」の第一人者。(前掲書より)

<前掲書P224~231より>

[生体リズムを生かして復活しよう]

震災に遭うと、ふだんなんとなく暮らしていた「普通の生活」が、いかに大切かを思い知らされる。では、普通の生活とはなんだろうか? 与えられた自然の中で、心と体の調和がとれている暮らしだと思う。つまり、心身のリズムがうまくとれている生活である。だから、普通の生活に戻るには、このリズムをふたたび取り戻すことにある。

私も、ようやく落ち着いてきたのは、地震後一カ月も経ったころだったと実感している。余震もやっと減ってきたころだ。
地震発生時に、ジムのプールで恐怖の体験をした人に聞いた。
「あのときから、またプールに入りましたか?」
「今日、一カ月ぶりに入りました。でも、怖くてすぐにあがりましたよ」
などという悩みを聞く。

近くの長岡操車場跡地には、たくさんの仮設住宅が造られ、まるで一つの街ができたような気がする。
多くの被災者が、リュックサックを肩に私のアパートの前を行き来している。あのとき、幸せな生活を突然奪われた方たちには、なんの落ち度があったわけではない。なのに、なぜ「仮設住宅に入れてホッとし、落ち着きを取り戻してきています」という生活に耐えなければならないのだろうか。

だが、慣れとは怖いもので、人間は一カ月も経てば、新しい生活に順応しはじめる。
昔から「石の上にも三年」というが、いま思えば、私も風土や仕事がまったく違うこの地での生活に馴染むのに三年かかった。このように、人間の体調、つまり身体のリズムが新しい環境に馴染むには一定の時間が必要なのである。

人間は、広い宇宙の中の地球という星で暮らしている。だから、まず地球物理学的な力が「秒・分・週・月・年」という時間を決め、身体はそれにしたがって変動している。

この変動は、リズミカルに変わって「生体リズム」となり、体内にそれを刻む「生体時計」が作られていく。さまざまな時間的周期を持つリズムは、それぞれがいわば小さな波であり、それらが互いに重なり合って大きな波を作り、心身のリズムができあがってくる。このリズムの代表が、約二四時間のリズムである。これを「サーカディアン・リズム(概日リズム)」と呼んでいる。

(以下、次号)






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